第30話 最適ではない出会い――すべての始まり
三十年前。
惣太郎が生まれる前。
まだハル子も、リョウ子も存在しない時代。
最適化という思想に出会うより前に、
幸之助は一人の女性と出会っていた。
それは偶然だったのか。
それとも、最適ではない選択が生んだ必然だったのか。
すべての始まりは、
雨上がりのニューヨークにあった。
三十年前、ニューヨーク。
雨上がりの夜だった。
路面に残った水が街灯をにじませ、ネオンの色が足元で揺れている。
幸之助は歩道の端に立ち、腕時計を見た。
予定より二分遅れている。
たった二分だが、彼にとっては無視できない誤差だった。
タクシーは来ない。
通りは渋滞している。
(非効率だな)
心の中でそう結論づけたときだった。
目の前で、女性の手からファイルが滑り落ちた。
「あっ……」
書類が濡れた路面に散らばる。
風にあおられ、一部が滑るように広がった。
女性は慌ててしゃがみ込む。
幸之助も、ほとんど反射的に動いていた。
一枚拾う。
次の一枚。
濡れていない紙を優先的に集める。
「そっちじゃない」
彼は言った。
「先にこっちだ。状態のいいものから回収した方が効率がいい」
女性の手が止まる。
一瞬だけ、彼を見る。
だが次の瞬間、彼女は別の紙を拾った。
「でも、こっちの方が大事」
それは手書きのメモだった。
数字でも、正式な書類でもない。
幸之助の手が、わずかに止まる。
なぜそれを選ぶのか、理解できなかった。
彼は何も言わず、拾い集めた紙を差し出す。
女性はそれを受け取り、順番も気にせずファイルに押し込んだ。
「ありがとう」
呼吸は少し乱れているが、声は落ち着いていた。
幸之助は頷くだけだった。
「落とさない方がいい」
それだけ言う。
必要最小限の忠告。
女性は小さく笑った。
「あなた、急いでるでしょ」
幸之助は答えない。
「予定通りにいかないと、顔に出るタイプ」
図星だったが、認める気はなかった。
視線を外す。
「でもね」
女性は続ける。
「こういう時の方が、面白いことが起きるのよ」
意味がわからない。
だが、その言葉は妙に残った。
遠くでタクシーのヘッドライトが止まる。
幸之助は歩き出す。
その瞬間、足元の水でわずかに滑った。
体勢が崩れる。
ほんの一瞬。
だがすぐに立て直す。
何事もなかったように。
自分でも驚くほど正確に。
そのままタクシーに乗り込む。
ドアが閉まる。
車は発進する。
女性は、その場に立ったまま見送っていた。
足元に何かが落ちている。
カードだった。
拾い上げる。
学生証。
濡れていない。
名前が読める。
「Konosuke Harukawa」
女性は小さく息を吐く。
顔を上げる。
タクシーはもう見えない。
雨音だけが戻ってくる。
女性は少しだけ考えた。
そして、そのカードをポケットに入れた。
効率だけを求めれば、
あの日の出会いは存在しなかった。
立ち止まることも、
書類を拾うことも、
言葉を交わすこともなかっただろう。
だが、人は時に最適ではない選択をする。
その小さな遠回りが、
未来を大きく変えることがある。
幸之助はまだ知らない。
この日拾った出会いが、
やがてハル子とリョウ子を生み出し、
人間を守るための戦いへと繋がっていくことを。




