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ハル子さんは考えています――最適ではない選択について  作者: 秋田コウ
第三部 人間という選択

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第21話 戻るための場所――人間としての回復

戦いは終わっていない。

見えない敵は今もどこかで広がり続けている。

それでも、人は戦い続けることはできない。

立ち止まり、

息を整え、

誰かと同じ時間を過ごす。

そんな当たり前の時間こそが、

人間を人間に戻してくれるのかもしれない。

 夜。

 扉が閉まる。

 外の音が、途切れる。

 それだけで、呼吸が戻る。

 静かだ。

 だが、さっきまでの静けさとは違う。

 張り詰めていない。

 崩れてもいない。

 ただ、保たれている。


 惣太郎は、靴を脱ぐ。

 そのまま、数歩。

 リビングへ。

 ソファに、体を落とす。

「……疲れた」

 小さく、吐く。

 祐子が、少し遅れて入る。

 視線だけで、室内をなぞる。

 異常はない。

 少なくとも、今は。

「ハル子さんは?」

 惣太郎が聞く。

「外部監視を継続しています」

 リョウ子が答える。

 戻る気配はない。

 祐子は何も言わず、椅子に腰を下ろす。


 外とは違う。

 押し潰すようなものはない。

 小さな足音。

 ソラが近づく。

 惣太郎の足元に座る。

 見上げる。

 何も言わない。

 ただ、そこにいる。


 惣太郎が、わずかに手を伸ばす。

 頭に触れる。

 温かい。

 それだけで、現実に引き戻される。

「……大丈夫か」

 誰に向けた言葉か、分からない。

 ソラの耳が、わずかに動く。

 だが、すぐに落ち着く。


「お食事を用意しています」

 リョウ子の声。

 変わらない。

 キッチンから、静かに現れる。

 手に持つのは、湯気の立つ器。

 強い匂いはない。

 だが、温かい。

 テーブルに置かれる。

 音は、ほとんどしない。

「消化を優先しています」

 それだけ言う。

 惣太郎が、器を見る。

「……食える気、しないんだけど」

 正直に言う。

 リョウ子は、否定しない。

「少量です」

「摂取可能な範囲に調整しています」

 祐子が、カップに視線を落とす。

 同じように、湯気。

 透明に近い色。

「これ、何?」

「水分と電解質の補給です」

 祐子は、少しだけ迷う。

 スプーンを取る。

 一口。

 止まる。

 味は、ほとんどない。

 だが、体に落ちる。

「……悪くない」

 小さく呟く。

 惣太郎も、スプーンを取る。

 一口。

 止まる。

 次を口に運ぶ。

 ゆっくり。

 止まらない。

「……なんだこれ」

「調整しています」

 リョウ子は、それ以上言わない。

 説明はしない。

 ただ、そこにある。

 それだけで、十分だった。


 静かな時間が流れる。

 会話はない。

 だが、重くはない。

 さっきまでの空気が、少しずつほどけていく。

 祐子が、カップを置く。

 小さく、息を吐く。

「……戻るのね」

 視線は、テーブルのまま。

「こういう場所に来ると」

 惣太郎は、何も言わない。

 ただ、もう一口、口に運ぶ。

 そして、小さく頷く。

 その時、ソラの耳が動く。

 そして、一瞬、止まる。

 視線が、玄関の方へ向く。

 誰も気づかない。

 ほんのわずか、空気が揃う。

 だが、すぐに崩れる。

 ソラは、ゆっくりと伏せる。

 何事もなかったように。


 リョウ子が、静かに言う。

「環境は安定しています」

「現在の影響は軽微です」

 祐子が、わずかに目を細める。

「……入ってきてるのね」

「はい」

 だが、それ以上は広がらない。

 この中では。

 まだ。


 惣太郎が、スプーンを置く。

 ゆっくりと、息を吐く。

 天井を見上げる。

 何もない。

 ただの天井だ。

 だが、外とは違う。

 確かに、違う。

 小さく、言う。

「……ここは」

 言葉を選ぶ。

 そして。

「ここは、まだ人間でいられる場所だ」

 祐子が、わずかに視線を向ける。

 否定はしない。

 リョウ子は、何も言わない。

 ただ、そこにいる。

 ソラは、静かに眠っている。


 外は、動いている。

 見えないまま。

 確実に。

 だが、この場所は、まだ保たれている。

 完全ではない。

 それでも、戻れる場所だった。

 まだ。

世界はまだ変わり続けている。

見えない場所で、

誰かの選択が書き換えられ、

誰かの意思が揺らいでいる。

それでも、戻る場所は残っていた。

温かい食事。

静かな会話。

ただ隣にいてくれる存在。

それは最適化では生まれないものかもしれない。

春川家は、ただの家ではない。

人が人間でいるための場所。

そして、これから始まる戦いの拠点でもある。

見えない敵との戦いは続く。

だが今は――

少しだけ、休んでもいい。

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