奈落の底の契約
更新しました。時間軸的には霊峰への初回チャレンジあたりです
――コツ、コツ、と。
その時、静寂を引き裂くように、地下牢の奥から静かな足音が響いた。
不浄な床を踏み締めるその足音は、重々しく、しかし迷いがない。それはおよそ、この世の終わりのような牢獄にはそぐわない、気品すら感じさせる響きだった。
ロイドはゆっくりと目を開けた。鉄格子の向こう、揺れる松明の光の中に現れた人影を見て、彼の呼吸が止まる。
「……神官、様……?」
そこに立っていたのは、白い聖職衣を身にまとった、あの教会の神官だった。
煤と泥に汚れた地下牢にあって、神官の佇まいはいつもの礼拝堂にいる時と全く変わらない。穏やかで、優しく、慈愛に満ちていた。その手には、役人の割り印が鮮明に押された、数枚の分厚い書類が握られていた。
ガルバが「ひぃっ」と短い悲鳴を上げて房の隅へと縮こまる。しかし神官はガルバには目もくれず、先へと進んでいく。
鉄格子の前に佇み、困った子供を見守るような聖母の眼差しでロイドを見つめた。
「ロイド。お前が子供たちのために重ねてきた過ちも、その手で流した血も、神は決して許しはしない。お前は死を以て償うべきだ。……本当に、愚かなことをしましたね」
その声は、驚くほど優しかった。まるで、風邪を引いた子供を叱る母親のような声音。だからこそ、その言葉に含まれた絶対的な断罪が、ロイドの胸を鋭く刺した。
「……あぁ、分かっています。だから、俺は――」
このまま、首を吊られるのを待つだけです。そう言おうとしたロイドの言葉を、神官はそっと拒絶するように、穏やかな声で遮った。
「ですが、お前に簡単に死なれては、あの子たちの明日のパンが消えてしまう」
「え……?」
ロイドは耳を疑った。神官の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「お前が教会に遺してくれた金は、役人への根回しや保証金の一部として使いました。……ですが五日前、教会へ信じられない額の寄進があったのです。おかげで不足分を補うことができ、孤児院の蓄えにも手を付けずに済みました」
「え……?」
「国に積む多額の保証金も、お前を『犯罪奴隷』として教会が身請けする手続きも、すべて滞りなく終わりましたよ。あの子たちのこれからのための財産は、一銅貨たりとも減っていません」
神官は、手にしていた書類を鉄格子の隙間からそっと差し入れ、ロイドの足元の床へと置いた。
カサリ、と乾いた音を立てて転がった羊皮紙。
そこに並ぶ無数の公的な署名の最上部には、赤インクで容赦なく引き太線が引かれたロイドの『死刑』の二文字があった。そして、そのすぐ隣に、影を帯びた黒いインクで、新たな身分が書き込まれている。
――『犯罪奴隷』。
「な……何を、考えているんですか神官様!」
ロイドは立ち上がろうとしたが、拘束具の鎖が激しい音を立てて彼を床へと引き戻した。
「あなたまで罪に手を染めて、俺のような大罪人を……! 教会が奴隷を身請けするなんて、そんな歪んだ真似、許されるはずがない!」
「歪んでなどいませんよ、ロイド」
神官は少しも態度を崩さない。その声はどこまでも優しく、鈴の音のように澄んでいる。
「お前は死ぬことすら許されない。これからは生涯、光の届かぬ場所で、文字通り命を削って奴隷として働き、その対価を孤児院へ送り続けなさい。それが、お前が犯した罪の『本当の償い』です。お前は、あの子たちのために生きる木炭になりなさい」
「神官、様……っ!!」
「これは神の御意志です。諦めなさい」
神官が静かに胸の前で両手を合わせ、目を閉じた。
それが合図だった。神官の背後の暗闇から、全身を黒い法衣で包んだ術者が音もなく一歩前へと出た。その手には、不気味な紫色の魔力を帯びた、一本の鋭い鉄筆が握られている。
ガチャリ、と重々しい音を立てて鉄格子が開けられた。
術者が無言のままロイドへと近づく。ロイドは必死に身をよじって抗おうとしたが、負荷石のせいで指一本まともに動かせない。男の冷たい手が、ロイドの髪を掴んで力任せに引きずり回し、その首筋を強引に露出させた。
「やめろ……やめてくれ! 俺を殺せ! 死なせてくれ!俺は生きていてはダメなんだ。俺みたいな奴は!」
ロイドの叫びは、地下牢の冷たい壁に虚しく反響するだけだった。
術者が、魔力を孕んだ鉄筆をロイドの首筋へと容赦なく押し当てる。
――ジュウ、と。
肉の焦げる不快な音が狭い房内に響き渡り、白い煙が立ち上った。
「ガ、ア、ァァァァァァァッッ……!!!!」
ロイドの口から、およそ人間が立ち上らせるものとは思えない絶叫が迸った。
首筋に走る激痛は、単に皮膚を焼かれるだけのものではない。魔力の刃が、彼の魂の根幹へと直接突き立てられ、強引に「主従の楔」を打ち込んでいくような、内側から引き裂かれる苦痛だった。心臓が狂ったように脈打ち、視界が真っ赤に染まる。全身の血管が沸騰したかのような熱さが彼を襲った。
首筋に刻まれたのは、主人の命令に絶対服従を強いる、禍々しい犯罪奴隷の呪印。
一度これが刻まれれば、主人の命令に逆らおうとしただけで全身の肉が裂けるような激痛が走り、最悪の場合は心臓が破裂する。死ぬまで逃れられない、魂の檻。
「はっ、ひぅ、あ、ガ、あ……っ」
術者が手を離すと、ロイドは床に崩れ落ち、激しく嘔吐しながら身体を痙攣させた。首筋からは、どす黒い血と体液が混ざり合って床へと滴り落ちている。
その無惨に悶えるロイドの姿を、神官はただ、悲しそうに、けれど底なしの慈愛を湛えた目でじっと見つめていた。まるで、我が子の成長を温かく見守るかのように。
「お前が死ねば、あの子たちは飢える。なら、お前が死ぬまで働き、仕送りを続けるのが最も正しい。そうでしょう? 神はお前を見捨ててはいません。こうして、生きる道を、贖罪の機会を与えてくださったのですから」
神官は言葉を一度区切ると、どこまでも深く、慈悲深い微笑をたたえた。
「――これは救いではありません。罰です」
神官はそっと身を屈め、床に這いつくばるロイドの頭に、優しく手を置いた。その手は驚くほど冷たかった。
「……生きなさい、ロイド。どれほど惨めに泥をすすろうとも、あの子たちのために、死ぬまで働き続けるのです」
神官は満足したように優しく微笑むと、衣服の裾を翻し、一度も振り返ることなく暗闇の通路へと静かに去っていった。コツ、コツ、と響く足音は、やがて地上の光の中へと消えていく。
残された地下牢には、再び死のような静寂が戻ってきた。
「あ、あぁ……」
ロイドは、呪印の刻まれた首筋を血塗れの手で抑えながら、冷たい石の床に這いつくばっていた。
命は繋がった。神官の言う通り、彼は生き延びたのだ。
だが、彼が心の拠り所にしていたあの廃教会の地下金庫は、すでにエイドたちの手によって空にされている。ロイドが過去に遺した金も、トトが投げ入れた大金も、ロイドという一人の人間を買い取り、奴隷として縛り付けるための費用として、すべて国へと消えてしまった。
だが、彼が心の拠り所にしていた廃教会の地下金庫は、すでにエイドたちの手によって空になっている。ロイドが遺した蓄えも、トトが投じた巨額の寄進も、彼を『犯罪奴隷』として身請けするための費用へと姿を変えた。
孤児院の子どもたちの明日のパンは守られた。だが、ロイド自身には、もう何一つ残されてはいなかった。
けれど、ロイドの首に刻まれた呪印は、彼に「生きろ」と命じている。
どれほど惨めに泥をすすろうとも、生き抜くこと。
その血を吐くような労働が、巡り巡って子供たちの、そしてロイド自身の「本当の救い」へと繋がっていくことを、今の彼はまだ知る由もなかった。
「殺してくれ、誰か、おい、殺してくれよ……! 頼むから……!」
遠くの房で、ガルバが狂ったように叫び続けている。
その怨嗟の声を遠くに聞きながら、ロイドは涙と血に塗れた顔を床に押し付け、ただ、長く果てしない贖罪の旅路の一歩目を、深く重い絶望の中から踏み出すのだった。
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