6 祖母の手
目を開けると辺りはもう暗くて、部屋の電気をつけようと手を伸ばした。
眠りすぎて時間感覚が狂ったのか、今が早朝なのか夕方なのかわからない。
「聡志ちゃん。起きたのかい? よく眠っていたねぇ」
伸ばした僕の手を握ったのは、ばあちゃんの手だった。
「ばあちゃん? 帰ったの? お昼に叔父さんが来たんだ」
「ああ、知っているよ。引き出しを荒らしたんだってね? 子供の頃から弱虫で困った子だったけれど、何も変わっちゃいない。でもね、本当は優しい子なんだよ。許してやってね」
「許すも許さないもないさ。ただ、何をしているのかが分からなくて……そしたら海の家の店長さんが来てくれて、叔父さんと話をつけてくれたんだけど、その間に寝ちゃったみたい」
「そうかい、眠れたのなら良かったよ。もう体は大丈夫?」
「うん。ばあちゃんは何処に行ってたの?」
「病院だよ。でもね、これからもっと遠くに行かなくちゃいけないんだ。聡志ちゃんも一緒に行かないかい?」
「え? 一緒に行っても良いの?」
「もちろんだよ。私の方が決心出来なかっただけさ。聡志ちゃんを待たせてしまったね。ごめんね」
「学校は? 転校することになるの?」
「心配しなくても大丈夫だよ」
「この家は?」
「あの子が何とでもするさ」
「ばあちゃん? どうしたの? いったいどこに行くの?」
その質問には答えず、ばあちゃんは優しい笑顔で僕の頭を何度も撫でた。
最近は病み疲れて顔色も悪かったし、瘦せてしまっていたけれど、今日のばあちゃんは僕がまだずっと小さかった頃のように、頬っぺたが艶々していてふっくらと輝いている。
「さあ、行こうかね。聡志ちゃん」
ばあちゃんが僕の手を引いた。
「うん、でもばあちゃん。僕、バイト先に辞めるってことを言いに行かなくちゃ」
「海の家だろ? あそこならよく知っているから大丈夫だよ。それに今から行くところにもきっといる」
「今から行くところ?」
「いいから、早く行こう。あの子たちも待っているよ」
「あの子たち?」
ばあちゃんの言葉はまったく意味不明だったけれど、なんだか安心できる音だった。
「うん、わかった」
ばあちゃんと僕は手を繋いで歩き出した。
中学生にもなって手を繋ぐのは恥ずかしかったけれど、ばあちゃんがあまりにも嬉しそうにニコニコしているから、振り解くこともできずにそのまま歩く。
途中で近所の人達とすれ違ったけれど、会釈をする僕たちに挨拶を返してくれた人はいなかった。
逢魔が時っていうのかな? 顔が良く判別できないこの時間帯のせいだろう。
「波の音がよく聞こえるね」
僕の声にばあちゃんがにっこりと微笑んだ。
「もうすぐだよ」
ばあちゃんはそう言って、海に続くコンクリートの階段を降り始めた。
いつの間にここまで来たのだろう? いつもなら自転車でも十分はかかるのに。
そう言えば、僕の自転車はどこにいったのだろうか。
暗闇に浮かぶように見える『ルナール古書店』から漏れる蛍光灯の灯りが、人影をコンクリートの踊り場に映しているが、誰のものなのかはわからなかった。
「あれあれ、斉藤さんも来ているみたいだね」
ばあちゃんの声に反応するように顔を上げる。
「ほれ、聡志ちゃんも昨日会っただろう? 質問ばかりする怖そうなおじいさん」
「ああ、あのおじいさんか。斉藤さんっていうの? 昨日も僕に事故の日の話をしろって……でも僕は何も思い出せなくて……」
ばあちゃんが僕の手をギュッと握った。
「もういいんだ。あの人もいろいろ思うところがあるのだろうけれど、ここに来ているってことは全部終わるってことだから」
まったく意味は分からなかったけれど、なぜか深く聞こうとは思わなかった。
そして僕は、ばあちゃんの顔を見上げた。
えっ? 見上げた? 僕はばあちゃんより背が高いはずなのに……。
「ばあちゃん?」
「なんだい? 聡志ちゃん」
「僕……小さくなってる?」
「うん、そうだね。戻っているね。それで良いんだよ、もう無理しなくて良いんだ」
書店のある階段途中の踊り場まで滑るように降りると、海の家の店長さんが真っ先に声を掛けてきた。
「よお、起きたか。気分はどうだ?」
「ありがとうございます。もう大丈夫です。あの……バイト辞めなくちゃいけなくて……」
「構わないよ。おばあさんと一緒に行くことにしたの?」
なぜこの人がそれを知ってるのだろうか。
僕は曖昧に頷いて見せた。
「それがいいよ。うん、それが一番いい。本当は残ってほしいけれどね」
戸惑う僕に『ルナール古書店』のおじさんが話しかけてきた。
「古村とは随分仲良くなったんだね。ぜひ私とも仲良くして欲しいな。知っているかもしれないけれど、改めて自己紹介するね。私は三沢伸之介というんだ。この店の横にある社に棲む狐だよ」
三沢さんの声が僕の脳内を通過したが、言葉というより音としてしか認識できなかった。
店長さんが笑いながら言う。
「おいおい、いきなりかよ。では俺も自己紹介しないとな。俺は古村広之進というんだ。なかなか古風で良い名前だろ? 俺もあの社に棲んでいる狐さ」
「狐……ですか?」
二人はシンクロするように、とてもいい顔で頷いている。
すると昨日のおじいさんが一歩前に出た。
「昨日は申し訳なかったね。私にも自己紹介をさせてくれないか。私の名前は斉藤一郎。君は知らないだろうけれど、君たち親子が遭遇した事故を担当した警察官だ」
「担当の警察官?」
「ああ、そうだ。君の両親は即死で、君は数日だけ生きていた」
なんだ? このおじいさんは。
僕はばあちゃんの手をギュッと強く握った。
ふと気づくと、一緒にいる大人たちはみんな僕より背が高い。
一番低いばあちゃんでさえ、僕の頭は胸より下にしか届いていない。
この前見かけた男の子と多分同じくらいじゃないだろうか。
「どういう……こと?」
三沢さんがゆっくりと手を差し出して、店の中に誘った。
「聡志君、喉は乾いてないかい?」
僕はゆっくりと首を横に振った。
三沢さんと僕を先頭に、斉藤さんとばあちゃんが続き、しんがりは海の家の店長さんだ。
店長さんって古村広之進っていう名前なんだね。
僕は現実から逃れるように、ぼんやりとそんなことを考えていた。