5 思い出せない
戸惑う僕に、その人は笑顔で話しかけてきた。
「バイトしてるの?」
「はい、夏休みだけここで働かせてもらっています」
「そう。君のその傷……君はあの事故のこと覚えているかい?」
返事をしようとした僕は、急に激しい眩暈に襲われた。
覚えているか?
僕がこの傷を負った日のことを?
忘れるわけがないじゃないか!
そう言い返したいのに、頭が割れそうに痛い。
僕は歯を食いしばった。
「ええ……覚えてますよ」
自分でも驚くくらい不機嫌そうな声になってしまったが、なんとか返事だけはできた。
「良ければ教えてくれないか?」
ほっといてくれと思ったけれど、店長さんの友達だと思い直した僕は、両親と共に遭遇した事故の記憶を辿った。
「あれは、雨が降っている夕方で……ん? 雪だったかな」
「あの日は雪だったよ」
「そうですか。夕方だったと思います。どこに行ったのかは忘れたけれど、父が運転していた車が……いや、母が? あれ?」
「どうした?」
「あ……いえ……えっと……」
僕は愕然とした。
その日の天気どころか、時間も覚えていないし、運転していたのが父だったのか母だったのかさえ定かではないのだ。
覚えているのは頭と顔がものすごく熱かったことと、目を開けたら血だらけの母さんの顔があって、母さんの目がどろんと僕の顔の上に落ちてきて……。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
僕はたまらず悲鳴を上げていた。
手に持っていたビールを放り投げて店長さんが駆け寄ってくる。
ビールが白い砂に吸い込まれていくのが視界の端に映った。
「息をしろ、ゆっくりだ。ゆっくりでいいから……ほら、吸って、吐いて、吸って、吐いて」
店長さんの号令に合わせて息をしようとするのに、上手くいかない。
店長さんのアロハシャツを握りしめている指先が、氷のように冷たくなっていく。
「大丈夫だ。大丈夫だからな。聡志、落ち着け。大丈夫だ」
店長さんがとても穏やかに話しかけてくれて、背中をポンポンと優しく叩いてくれた。
だんだんと呼吸ができるようになってくる。
「俺をみろ。いいか? 俺の口を見るんだ。俺の口だけを見ろ」
そうだ口を見るんだ、目を見ちゃだめだ。
僕は必死で自分に言い聞かせた。
店長の口を……フッと僕の視界が暗転した。
気付くと自分の部屋の布団の上に寝かされていた。
どうやらあのまま気を失ってしまったみたいだ。
恥ずかしい……店長さんが連れてきてくれたのだろうか。
ばあちゃんにはなんて説明したのだろうか。
僕はのろのろと階下に降りたが、ばあちゃんはいなかった。
「何してるんですか?」
ばあちゃんのいない家に上がり込んで、ゴソゴソと引き出しを漁っているその男に、鋭い口調で声を掛けた。
一瞬手を止めてこちらを見たその男は、前に何度か会ったことがある父の弟だった。
いくらばあちゃんの息子とはいえ、これじゃあ空き巣と同じじゃないか。
「何してるんですかって聞いているんですよ! 叔父さん!」
僕はもう一度同じ言葉を発したが、父ともばあちゃんとも疎遠だった叔父さんは、無視を決め込むつもりのようだ。
それでも気まずいのか、自分が何をやっているのかを説明するように独り言を溢し始めた。
「まったくさあ、もっと分かり易く保管しとけっていうんだよ。保険証はあったけど通帳が見つからない。どうせ通帳と印鑑は一緒にしてるんだろうが。まさか生命保険に入ってないなんてことないよな? どこに置いてるんだ。まったく年寄りってのは……」
僕は慌てて叔父さんに言った。
「そんなものどうするんですか。ばあちゃんはどこですか」
僕の言葉を無視し続ける叔父さんの肩に手をかけると、叔父さんはビクッと体を震わせた。
玄関で店長さんの声がする。
僕は叔父さんから手を離し、急いで玄関に向かった。
「具合はどう? ちょっと心配になっちゃってさ」
慌てて扉を開けると、店長さんはさっきとは違うアロハシャツを着て、バツが悪そうに立っていた。
「さっきはご迷惑をかけてしまって、すみませんでした。今……叔父が来ていて、引き出しを漁っているんです。止めようとしても無視されちゃうし、ばあちゃんはいないし」
「なるほどね。俺が話をするよ。お前じゃ無理だ。おばあさんはもうすぐ帰ってくるから、自分の部屋に戻っていなさい」
いつもちゃらんぽらんとしている店長さんとは思えないキッパリとした口調に、僕は戸惑いながらも安心感を覚えた。
「わかりました」
言われるまま二階への階段に足をかけたが、茶の間が気になって仕方が無い。
障子越しに店長さんと叔父さんの声が聞こえた。
「あんた……何の権利があってそんなことを言うんだ。俺は息子なんだぞ?」
「そんなことは知っているよ。でもこうなるまで顔も見せなかったのはあんたの方だ。俺はおばあさんからいろいろ頼まれているんだよ。保険証書も通帳も俺が預かっている。もちろん中身はあんたのものだが、全てが終わるまでは渡せない。それがおばあさんの意志だ」
叔父さんが何か怒鳴っていたが、僕の耳には負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
まだ少し頭が痛いような気がする。
それにしても僕はなぜあの日のことを忘れてしまったのだろうか……。
「考えるな。そのうちに思い出すさ。今はまだその時期じゃないってことだよ」
部屋の障子が開いて店長さんが顔を出した。
いつの間にか自分の部屋で寝ていたようだ。
「あ……話って終わりましたか?」
「ああ、あの人もいろいろ大変なのだろう。でももう帰ったから。今日はここにいなさい。もうすぐおばあさんも帰ってくるから」
「でも……」
「大丈夫だよ。曇り空の水曜に海水浴に来るような物好きは少ない」
「はい……わかりました」
「さあ、もう少し眠りなさい」
そう言うと店長さんは僕の目を掌で覆った。
不思議なことに、店長さんの掌からは潮騒の音が聞こえる。
なんだか懐かしいような悲しいような記憶の波が、僕を眠りへと誘ってくれた。




