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3  手紙

 錆びた自転車の耳障りな音が遠ざかると『ルナール古書店』の店主である三沢が、ゆっくりと口を開いた。


「本当にもう良いの? 無理してない?」


 その言葉に、泣きそうな顔で男の子が頷く。

 三沢がその男の子の頭に手をやって、そのまま数秒目を閉じた。


「君は……ああ、大沢芳樹君か。ねえ芳樹君、聞いちゃうと消えちゃうんだ。分かっているよね?」


 男の子は俯いて掌を握りしめた。


「だって……お母さんが……」


「そうだね。ずっと泣いているもんね」


「ねえおじさん、消えちゃうともうお母さんの顔も見れないの?」


「うん、見れない」


 灯りを消した書店のガラス戸を風が叩いた。

 不規則な波が見える古風な板ガラスがカタカタと鳴る。


「でもそうしないと……ダメなんだよね?」


「ダメじゃないさ。納得できるまで、今のままでも良いんだよ?」


「でもお母さんが……」


「うん、そうだね。聞いてしまうと、君はお母さんのことを忘れてしまうんだ。でもね、お母さんは絶対に君のことを忘れたりはしない。お父さんも同じだよ。ああ、君には確か妹がいたよね?」


「妹……みいちゃんのこと?」


「そう、みいちゃん。妹のみいちゃんもお兄ちゃんのことを忘れたりしないよ」


「本当?」


「本当だよ」


「……僕、もう決めなくちゃ」


 店主の三沢は、泣くのを堪えて歯を食いしばっている男の子を、軽々と抱き上げた。


「大沢芳樹君。君はいくつだっけ」


「もうすぐ九歳でした。一度も行けなかったけれど小学校の三年生です」


「そうか、一度も行けなかったのか。それは残念だったね」


「うん……」


 店主の三沢が抱いていた男の子を、数段上がった場所にある書棚の前に下ろす。

 年齢よりずっと細くて小さいその体に丁度良い大きさの椅子が置かれていた。


「さあ、ここにかけなさい」


 男の子がそれに座ったのを確認して、三沢は書棚の一番上から、古びた本を抜き出した。

 その本は売り物ではないのだろう、栞の細いリボンがたくさんはみ出している。


「ええっと……ああ、あった。君のページはここだ」


 澄んだ空色のリボンが挟まったそのページを開く。


「泣きたくなったら泣いても良いし、叫んでもいい。でも、もう後戻りは絶対にできないんだ。それでもいいかい?」


「はい」


 少年はすでに涙を一杯溜めている目で三沢を見上げて頷いた。


 男の子と数秒だけ目を合わせた後、三沢が徐に口を開いた。


「必ず私が送ってあげる。心配しなくていいからね」


 男の子が大きく頷く。


「では始めるよ」


 そう言うと、三沢は空色のリボンが挟んであったページを、声に出して読み始めた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 私たちの大切な息子、芳樹へ



 治してあげられなくてごめんね。

 健康に産んであげられなくてごめんね。

 痛い注射もたくさん頑張ったのに、助けてあげられなくて本当にごめんね。


 お母さんもお父さんも芳樹のことを心から愛しているんだよ。

 美知子もお兄ちゃんが大好きなんだよ。


 代われるものなら代わりたかった。

 まだ薄いあなたの胸板に、太い注射針が打ち込まれるたびに、私もとても痛かった。

 でも、本当に痛かったのは芳樹の方だよね。

 だからお母さんはあなたを励ますことしかできなかったの。

 悲鳴を上げるほど痛いって知っているのに、頑張れとしか言えない自分が恨めしかった。

 ごめんね……本当にごめんなさい。


 お母さんは芳樹にいっぱい噓をつきました。

 治ったら遊園地に行こうとか、家族でお肉を食べに行こうとか。

 富士山に登ろうとか、海水浴に行こうとか。

 本当にたくさん噓の約束をしました。


 でもね、本当にそうなったら良いなって思ってたんだよ。

 お父さんもお母さんも心から願っていたんだよ。

 芳樹……芳樹……私たちの愛しい息子。

 

 芳樹が自分の足で歩けたのは幼稚園の卒園式までだったね。

 あの日あなたが血を吐いて倒れてから、私たち家族の生活はガラッと変わってしまったけれど、何をしてでも、私たちはあなたを助けたかった。

 もし私の命を差し出してそれが叶うなら、迷わずそうしたよ。

 でも現実は厳しいよね。


 お母さんはあなたの側にずっといられたから、辛い治療も全部見ていたし、あなたが頑張っている姿も全部見ることができた。

 本当はお父さんもそうしたかったんだよ。

 美知子もずっとお兄ちゃんの側にいたかったんだよ。

 でもね、現実は本当に厳しかった。


 芳樹と一緒に死にたいと思っている私は、これからも生きていかなくてはいけないのに、死にたくないと頑張っている芳樹が死んじゃうなんて。

 神様なんていないよね。


 私たちは絶対にあなたを忘れないからね。

 ずっとずっと一緒にいるからね。

 毎日あなたのことを思っているからね。


 芳樹が今から行く世界が、どうか痛みの無い穏やかな世界でありますように。

 そして芳樹が、自分の足で歩いたり走ったり、飛び跳ねたりできますように。

 食べたいものを食べたいときに、食べたいだけ食べられますように。


 あちらの世界にも小学校があれば良いね。

 使う日は来ないと知っていたのに、準備してしまったランドセル。

 一緒に入れるから持って行ってちょうだいね。


 ねえ芳樹、お母さんからひとつだけお願いがあるの。

 生まれ変わることができるのなら、お母さんは絶対にまた芳樹のお母さんになりたいです。

 そして今度こそ芳樹を健康な子に産みます。

 だから絶対に、絶対に私の子供になってください。


 そしたら遊園地に行って、お肉を一杯食べて、海水浴にも行って、富士山にも登ろうね。

 お父さんも美知子も一緒に四人でたくさん遊ぼうね。

 

 芳樹……私の愛……私の命。

 あなたは私の全てよ。


 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 栞を戻して本を閉じた三沢は、男の子の頭をゆっくりと撫でた。


「よく頑張ったね。偉かったぞ、芳樹君」


「お母さん……お父さん……みいちゃん……」


「お母さんがまた芳樹君を産んでくれるんだって。良かったね」


「うん……」


「落ち着いたかい? もう行けるかな?」


「うん……よろしくお願いします」


 三沢は声には出さず、小さく頷いてから、本を棚に戻してレジ横の机に置いてあった杉の若枝を口に咥えた。


「お母さん、お父さん、みいちゃん……さようなら。病院のみなさんも、さようなら。ありがとうね」


 ガラス戸超しに見える海に向かって手を振る芳樹を、雪のように白い霞が包み込んだ。


 そして『ルナール古書店』に静謐な時間が戻る。

 そこには誰の姿も無く、ただ悲しい愛の残滓が漂っていた。


 病気で亡くした息子の面影を抱きしめて、毎日泣き暮らしていた大沢芳樹の母親は、この日を境に息子の気配を感じられなくなっていた。


 ずっと自分に纏わりついていて欲しいと思う半面、夫や娘のためにはこのままではいけないという思いに、身も心も引き裂かれていた日々が終わったのだと唐突に理解したのだ。


「芳樹、本当に逝っちゃったのね……」


 吸い込まれそうなほどの青空に呟いてみるが、返事はもちろん無い。


「そうか……芳樹が頑張ったのなら、お母さんも頑張らないと恥ずかしいよね」


 そして彼女は息子を亡くしてほぼ一年ぶりに、自分の意志で玄関を開けることができた。


「今日はハンバーグにしようか。芳樹も好きだったけれど、美知子も大好きなんだよ」


 誰にともなく話しかける彼女の笑顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。


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