山の不可思議
登山口の駐車場に着いたのは、24時を少し過ぎたくらいだった。
ヘッドライトが照らし出す砂利道の先に、何台かの車が見える。どの車もエンジンを切り、ひっそりと夜の闇に沈んでいた。僅かに動く人影が車内に見える車もあれば、前日登った人達の車だろうか。全く人の気配がない車もあった。
フロントガラスの向こうには、月明かりで山の黒い稜線が見える。
街灯などは、勿論ない。駐車場の隅っこにあるトイレの入り口の電灯だけがぼんやり光っている。
空には星が出ていたが、山頂の方角には雲がかかっているようだった。
「さて、少し寝るか」
誰に聞かせるでもなく呟き、窓をほんの少し開ける。ひんやりとした夜気が流れ込んできた。草と土、それに湿った木々の匂いがする。車のエンジンを切った。途端に静寂が訪れる。
そして、虫の声。
シートをできるだけ平らに倒し、持参した寝袋を広げる。決して寝心地がいいとは言えないが、登山前の仮眠には十分だ。
明日は、いや、もう今日か。山頂で食べるラーメンの事を考えながら、僕は目を閉じた。
目が覚めたのは、空が白み始めた頃だった。フロントガラスだけでなくサイドにも後部にも全面、窓に張りつけたサンシェードの隙間から光が漏れてくる。周りの人達も起き出した音が聞こえる。
鳥の声も。
窓の外では、山の稜線が夜の黒から柔らかな青へと変わり始めていた。
「・・・寒っ」
寝袋から這い出し、思わず肩をすくめる。
夏とはいえ、山の朝は冷える。
厚手の赤いチェックのシャツを羽織り、車の外へ出た。
足元の砂利が、じゃり、と音を立てる。
駐車場には、昨夜到着した時と同じように何台かの車が停まっていた。あれから、何台か増えているようだ。既に動き出している人もいる。
「おはようございます」
隣の車の男性が、湯気の立つカップを手に声をかけてきた。
「おはようございます。冷えますね」
「いやあ、夏だからって油断できませんねえ」
男性は笑いながら、両手でカップを包み込んだ。
「今日は登られるんですか?」
「そのつもりです。そちらは?」
「うーん。ちょっと天気がねえ」
男性が顎で示した先には、雲をまとった山頂があった。
僕もそちらを見上げる。確かに、あまりいい雲行きではない。
「予報も微妙でしたからね」
「まあ、朝飯食ってから考えますわ」
「ですね」
軽く会釈して、僕は駐車場のトイレへ向かった。蛇口から出てきた水は、思いのほか冷たい。顔を洗うと、眠気が一気に吹き飛ぶ。
鏡に映る自分の顔は、まだ少し寝ぼけているようだったが、目だけは妙に冴えていた。
車へ戻り、コンロを取り出す。火をつけ、湯を沸かす。小さな青い炎が、朝の冷たい空気の中で揺れた。
やがて、コッヘルの底から細かな気泡が立ち始める。沸いた湯をシエラカップに注ぐと、コーヒータイムだ。
「ああ、いい匂い」
こういう時間がいい。街の喫茶店で飲むコーヒーも悪くないが、山の朝に飲む一杯には、また別の美味さがある。
家から握ってきた大きめのおにぎりを一つ取り出す。中身は昆布とゆかり、まぜまぜ。塩分は大事だ。
別に持ってきていた海苔をビニール袋から取り出し、おにぎりのラップを外す。
海苔はパリパリ派。
隣の男性が、奇妙なものを見た・・・という顔をして、一瞬目が合う。気まずそうに目をそらされるが、今に始まった事じゃない。
ひと口かじる。冷えたご飯を噛みしめながら、熱いコーヒーを飲む。
朝食としては、少々妙な組み合わせかもしれない。しかし、腹が減っている時には何でもうまいし、冷えた朝に熱々のコーヒーなんて究極の贅沢だ。
周囲でも、それぞれが朝食を取っていた。パンをかじる人。カップ麺に湯を注ぐ人。
車の後部を開け、黙々と荷物を整理している人。
見知らぬ者同士が、必要以上に干渉することもなく、時折挨拶を交わす。そんな距離感も、山の朝らしくて心地よかった。
やがて太陽が山の端から顔を出した。木々の梢が金色に染まり、駐車場にも少しずつ光が差し込んでくる。
それに呼応するように、蝉の声が大きくなった。
ただし、山頂の様子だけは変わらない。むしろ、先ほどよりも白く煙っているように見えた。
「・・・こりゃ、駄目かな」
隣の男性が空を見上げ、ぽつりと言った。
少し離れた場所にいた別の登山者も、同じ方向を見ている。
「上はガスでしょうね」
「雨になるかもしれませんよ」
「せっかく来たんだけどなあ」
「雨ならいいですけど、雷になったら嫌ですねぇ」
誰かが残念そうに笑った。
僕も山頂を見上げた。晴れていれば、きっといい景色が見られるはずだ。
しかし、雲は低い。
風の流れも、あまりよくない。
「どうされます?」
先ほどの男性が僕に尋ねた。
「そうですねえ・・・」
僕は少し考えた。
無理をするつもりはない。山では、引き返す勇気も必要だ。
それはわかっている。
ただ、ここまで来て、そのまま帰るのも惜しかった。
「とりあえず、行けるところまで行ってみます。天候が悪くなるようなら引き返しますよ」
「そうですか。気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
「私はやめときますわ。山は逃げませんから」
「確かに」
僕は笑った。
それから、リュックの中身をもう一度確認した。
非常用のツェルト。
雨合羽。
防寒用のフリースとセーター。
懐中電灯。
ナッツにカロリーメイト。氷砂糖、チョコレート、菓子パンが二つ。チキンラーメンと魚肉ソーセージ。
水筒の他に、ゼリー飲料のチアパックも二つ入れてある。食料だけなら、ちょっとした遠足どころではない。
山頂でラーメンを食べる事を楽しみにしている人間の荷物としては、我ながら随分と充実していた。
「よし」
リュックの口を閉める。
靴紐を締め直し、肩に荷物を背負った。
「じゃあ、行ってきます」
「お気をつけて!」
「無理しないでくださいよ」
「はい。ありがとうございます」
何人かが手を上げてくれた。
僕も軽く手を振り、登山道へ足を踏み入れた。
結局、その朝、山へ向かったのは僕一人だった。
登り始めの道は、気持ちがよかった。
木漏れ日が地面にまだら模様を描き、朝露を含んだ草が柔らかく光っている。
湿った土の匂い。鳥の声。
木々の間を抜ける風。気温も暑くもなく寒くもなく。歩いていても、少し汗ばむ程度だ。
リュックに下げたシエラカップが、カラビナと触れ合って音を立てる。
カチャ、カチャ。
カチャ、カチャ。
歩調に合わせて、規則正しい金属音が響いた。
この音も嫌いではない。
山の中を一人で歩いていると、余計な事を考えなくなる。
呼吸のリズム。
木の根を避け、石を踏み越える事。滑らないように、次に足を置く場所を瞬時に判断する。それだけに意識が向いていく。
日常の面倒事が、少しずつ頭から抜け落ちていく感覚があった。
やがて、登山道の傾斜が少しきつくなってきた。
額に汗が滲む。
シャツの袖をまくり、歩調を少し落とした。
ふと顔を上げると、木々の間に白いものが漂っていた。
「・・・ガスが出てきたか」
霧だった。最初は薄い靄のようなものだったが、登るにつれて次第に濃くなっていく。少し前まで見えていた尾根の向こう側が、白く消えてしまった。
木々の輪郭も曖昧になり、数十メートル先の登山道さえ見通しにくくなる。
「やっぱり、帰った人達が正解だったかな」
ひとり言が、湿った空気に吸い込まれていく。
この分では、山頂からの眺望は期待できそうにない。もっとも、僕の山登りの楽しみは景色だけではない。
高山植物の写真を撮る事。
そして、山頂で食べるラーメン。
これが重要なのだ。
特にラーメン。山の上で食べるインスタントラーメンは、どうしてあんなに美味いのだろう。今回は、小葱も刻んでジップロックに入れて持ってきている。普段なら何という事もない袋麺が、山頂ではご馳走だ。
そんな事を考えていると、自然に口元が緩んだ。
道端に小さな花を見つけた。しゃがみ込み、カメラを取り出す。
白い花弁に、小さな水滴がついている。
霧のおかげで光が柔らかく、写真を撮るには悪くない条件だった。
「お、いいねえ」
角度を変えながら、何枚かシャッターを切る。
人の気配はない。
誰かが後ろから来る事を気にせず、好きなだけ写真を撮れる。一人登山のいいところだ。
僕は満足してカメラをしまい、再び歩き始めた。
その時だった。
カサッ。
背後で、小さな音がした。
僕は特に気にも留めず、歩き続けた。
山の中では、いろいろな音がする。
風に揺れる枝。
落ち葉を踏む小動物。
木の実が落ちる音。
いちいち気にしていたら、きりがない。
ところが。
ザッ、ザッ。
カサッ。
また聞こえた。
今度は、はっきりと。
僕は歩調を緩めた。
ザッ、ザッ。
・・・ザッ、ザッ。
何だろう。
自分の足音が、周囲の木々や斜面に反響しているのだろうか。
そう考えて、しばらく耳を澄ませる。
しかし、どうも違う。
僕の足音より、ほんの僅かに遅れている。
いや、遅れているというより、歩くリズムそのものが違っていた。
僕が二歩進む間に、向こうは一歩。
そんな感じだった。
立ち止まる。
音が消えた。
振り返る。
霧の中に、登山道が続いている。
誰もいない。
「・・・誰かいますか?」
声をかけてみた。
返事はなかった。
ただ、遠くで鳥が一声鳴いた。
僕は首を傾げた。
別の登山者が後ろから来ているのかもしれない。
駐車場では僕一人だったが、その後に到着した人がいてもおかしくない。
それなら、それでいい。
追いついてきたら道を譲ればいいだけの話だ。
再び歩き始めた。
ザッ、ザッ。
カサ、カサ。
やはり聞こえる。
しかも、今度は足音だけではなかった。
衣擦れ、とでも言えばいいのだろうか。この天気だ。雨合羽を着ていてもおかしくはない。そんな乾いた音だった。
僕は眉をひそめた。
「・・・何だ?」
もう一度、振り返る。
誰もいない。
霧は先ほどより濃くなっていた。
白い空気の向こうに、木の幹がぼんやりと浮かんでいる。
風はほとんどない。
枝も揺れていない。
それなのに、確かに音がする。
妙な話だった。
狸にでも化かされているのだろうか。そんな考えが頭をよぎり、自分で苦笑した。
「いやいや、まさか」
昔話じゃあるまいし。
もっとも、山には昔から不思議な話が多い。
狐に化かされたとか、狸に道を迷わされたとか。そういえば、煙草の一服の煙で化け物の正体が分かる、なんて話もあった気がする。
残念ながら、僕は煙草を吸わない。
虫除け用に一応持ってはいるが、こんなところで火をつける気にはなれなかった。
「まあ、いいか」
少し休憩する事にした。
道脇の平らな石を見つけ、リュックを下ろす。
カロリーメイトを一本取り出し、包装を破った。
口に入れる。
ぼそぼそとした食感。水筒の水で流し込む。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
鳥の声さえ、いつの間にか遠くなっていた。
霧に包まれた森は、妙に静かだった。
しばらく待ってみる。
やはり、何も起こらない。
「・・・気のせいか」
ひとり言を呟いた。
自分の足音が、何かの具合で妙に聞こえていただけなのだろう。山では音の伝わり方が変わる事もある。
そう納得する事にした。
水筒の蓋を閉め、リュックを背負う。
膝に手をついて立ち上がった。
その瞬間。
カサッ。
背後で音がした。
僕は動きを止めた。
今のは、僕が歩き始める前だった。まだ、一歩も踏み出していない。
それなのに。
カサ、カサ。
衣擦れの音が続いた。
背中が、ぞくりとした。
ゆっくり振り返る。
白い霧。
濡れた木々。
苔むした岩。
それだけだった。
「・・・おーい」
思い切って声を出した。ちょっと小声になった。
「誰かいるんですか?」
返事はない。
僕はその場で待った。
一分。
二分。
いや、実際にはもっと短かったかもしれない。
時間の感覚が、少し曖昧になっていた。
もし誰かが歩いているなら、やがて姿が見えるはずだ。
足音が聞こえるほど近いのだから。
しかし、誰も現れなかった。
僕は腕時計を見た。
いつまでも、ここにいるわけにはいかない。
山の天気は変わりやすい。
これ以上霧が濃くなるようなら、引き返す事も考えなければならない。
「・・・行くか」
声に出してから、再び歩き始めた。
背後から、足音がついてきた。
不思議な事に、しばらく歩いているうちに、恐怖は少し薄れていった。
音は相変わらず聞こえている。
しかし、何かが襲いかかってくるわけでもない。
近づいてくるわけでもない。
ただ、一定の距離を保ちながら、僕と同じ方向へ進んでいる。
それだけだった。
人間というのは、案外いい加減なものだ。
奇妙な事でも、しばらく続けば慣れてしまう。
僕も、いつしかその音を気にしなくなっていた。
道端に花を見つければ足を止め、写真を撮る。苔むした倒木に光が差していれば、カメラを向ける。霧に包まれた森は、思った以上に美しかった。
遠くの木々が白く霞み、近くの葉には細かな水滴がついている。
まるで、森全体が薄い硝子の向こうにあるようだった。
何枚か写真を撮り終え、再び歩き出す。
その時、ふと気づいた。
音の聞こえる方向が変わっている。
背後ではない。
前だ。
僕の進む先から、あの足音が聞こえていた。
「・・・あれ?」
思わず声が出た。
いつの間に?
振り返っても、やはり誰もいない。
もう一度、前を見る。
霧の向こうから、規則正しい足音が聞こえてくる。
ザッ、ザッ。
カサ、カサ。
僕は少し考えた。この辺りの登山道は、九十九折になっている。斜面を折り返しながら登っていく道だ。
どこかで誰かがショートカットして、僕を追い抜いたのかもしれない。
写真を撮っている間なら、気づかなかった可能性もある。
勿論、登山道を外れてのショートカットは褒められた行為ではない。しかし、そういう人間が絶対にいないとも限らない。
「・・・そういう事か」
納得できる説明が見つかると、少し安心した。
きっと、別の登山者だ。そうに違いない。
ただ、一つだけ気になる事があった。
足音の間隔が、まるで変わらないのだ。
僕が速く歩いても。
ゆっくり歩いても。
花の写真を撮るために立ち止まっても。
再び歩き始めると、いつも同じくらいの距離から音が聞こえてくる。
近づきもしない。
遠ざかりもしない。
まるで、僕の歩く速さを知っているかのように。
いや、僕の歩調に合わせている?
そこまで考えて、僕は首を振った。
考えすぎだ。
山の中で一人きりだから、余計な想像をしてしまうのだろう。
僕は少しだけ歩調を速めた。
ザッ、ザッ。
前方から聞こえる足音も、同じように続いている。
霧の向こうは白い。
何も見えない。
それでも、確かに誰かが歩いている。
そう思った。
そして、何気なく顔を上げたときだった。
霧の中に、人影が見えた。
最初は、木の幹かと思った。
白い霧の向こうに、黒っぽい縦長の影が浮かんでいる。
それが、ゆっくりと動いた。
人だ。
間違いない。
僕は思わず足を止めた。
確かに前を歩いている。
こちらに背を向け、登山道を進んでいる。
しかし。
「・・・え?」
妙な格好だった。
背中に、四角い大きな荷物を背負っている。
背負子だ。木で組まれたような枠に、真四角い箱が載せられている。
段ボール箱ではない。もっと硬そうで、角がはっきりしている。表面には、編み目のようなものが見えた。
つづら。
そう呼ぶのが、一番しっくりきた。昔話や時代劇に出てくる、あの箱だ。
更に、頭には笠をかぶっていた。
編み笠だろうか。
広いつばが顔を隠し、後ろ姿からは表情どころか髪型さえ分からない。
服装はほぼわからない。黒っぽい、足にぴったりとしたズボンをはいているようだった。
そして、足元。
地下足袋だった。
僕は、その場に立ち尽くした。
歩荷。
山小屋へ荷物を運ぶ人達の姿が、真っ先に頭に浮かんだ。
昔は、こうした格好で山を登る人もいたのだろう。
しかし、今?
この時代に?
勿論、地下足袋を愛用する人が絶対にいないとは言わない。
背負子を使う人だっている。
けれど、あの編み笠は? あの、つづらのような箱は?
何より、全体の姿が奇妙だった。山道を歩く現代の登山者というより、古い写真の中から抜け出してきた人物に見えた。
僕は目を凝らした。
霧の中の人影は、ゆっくりと歩いている。
背中の箱が、歩みに合わせて僅かに揺れる。笠の縁から、何か細い紐のようなものが垂れていた。
ザッ、ザッ。
カサ、カサ。
あの音だ。
間違いない。
ずっと聞こえていた足音と衣擦れの音は、この人物のものだった。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
何故だろう。人の姿が見えたのだから、安心してもいいはずだった。けれど、安心できなかった。
むしろ、姿が見えない時よりも、ずっと落ち着かなかった。
僕は声をかけようとした。
「あの・・・」
声が思ったより小さくなった。
咳払いをする。
「すみません!」
今度は、はっきりと声を出した。
しかし、前を歩く人物は振り返らない。
足を止める事もない。ただ、同じ歩調で進んでいく。
聞こえなかったのだろうか。
霧の中では、声が届きにくいのかもしれない。
僕はもう一度、声をかけようとした。
そのとき、前方の道が、左へ折れた。人影が、霧の中をゆっくりと曲がっていく。
編み笠が消えた。背中の箱が消えた。最後に、地下足袋を履いた足が白い霧の向こうへ消えた。
僕は、なぜか追いかける気になれなかった。
ほんの数十メートル先にいたはずだ。
少し急げば、追いつける。
そうわかっていた。それなのに、足が動かなかった。
あれは、何だ?
歩荷さん?
いや、違う。違う、という確信だけがあった。
では、何が違うのか。
それを説明しろと言われても、できない。
ただ、あの人物には、何か決定的におかしなところがあった。
服装だけではない。
もっと別の何か。
僕は霧の向こうを見つめた。
足音が遠ざかっていく。
ザッ、ザッ。
カサ、カサ。
やがて、それも聞こえなくなった。
僕はようやく息を吐いた。
いつの間にか、呼吸を止めていたらしい。
「・・・何だったんだ、今の」
返事はなかった。
霧の中に、僕の声だけが消えていった。
それから頂上の山小屋に到着するまで、あの音を聞く事はなかった。
途中、何度か振り返った。
前方にも目を凝らした。
しかし、あの奇妙な人物の姿は、二度と見えなかった。
山小屋の赤い屋根が霧の向こうに現れた時、僕は心底ほっとした。
人のいる場所。
それだけで、こんなにも安心するものなのかと思った。
小屋の前まで来ると、木の壁に取り付けられた看板が目に入った。
扉を開ける。
「こんにちは」
中にいた小屋の人が、顔を上げた。
「こんにちは。お疲れさまです」
「いやあ、今日はガスがすごいですね」
「そうですねえ。朝からずっとこんな調子ですよ」
僕はリュックを下ろし、肩を回した。
背負っていた重さから解放されると、急に疲れが出てきた。
「今日は、もう何人か登ってきていますか?」
何気ない調子を装って尋ねた。
「いえ。お客さんが最初ですよ」
「・・・え?」
思わず聞き返した。
「今日、最初ですか?」
「ええ。今のところ、他には誰も」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
「でも・・・途中で、人を見たんですけど」
「人?」
「はい。僕より先を歩いていたんです」
「追い越されたんですか?」
「いや、それが・・・」
どう説明したものか迷った。
足音が後ろから聞こえてきた事。姿を見ないまま、いつの間にか前にいた事。そして、奇妙な格好をしていた事。
そのまま話せば、おかしな人間だと思われるかもしれない。
けれど、確かめずにはいられなかった。
「あの、歩荷さんって、今日は来られていますか?」
「歩荷?」
「ええ。荷物を背負って登ってくる方です」
小屋の人は少し考えてから、首を横に振った。
「今日は来ていませんね。元々来る予定もありませんし」
「そうですか・・・」
「何かありました?」
「いや、途中で、それらしい人を見かけたものですから」
「へえ。どんな人でした?」
「背負子に、大きな箱を載せていて・・・」
「はい」
「頭に編み笠をかぶっていました」
小屋の人が、わずかに眉を上げた。
「編み笠?」
「ええ。それに、地下足袋で」
「・・・ほう」
短い返事だった。
僕は続けた。
「歩荷さんみたいな・・・昔の人みたいな格好だったんです。だから、こちらへ荷物を運んでいる人なのかなと思って」
小屋の人は、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、扉の外へ視線を向けた。
霧は相変わらず濃い。
「少なくとも、今日はそんな人、来ていませんよ」
「そうですか」
「途中で別の道へ行ったんじゃないですかね」
「・・・かもしれませんね」
僕は曖昧に笑った。別の道がある事は知っているが、歩荷として、この先の山小屋へ行くなら別の登山口からの方が近い事を知っているし。縦走するならあれくらいの荷物じゃ足りないだろう。
それ以上、尋ねる事はできなかった。
小屋の人も、特に話を広げようとはしなかった。
僕は外のベンチに腰を下ろし、リュックからチキンラーメンを取り出した。
せっかく登ってきたのだ。
予定どおり、山の上でラーメンを食べよう。
コンロに火をつける。湯が沸くのを待ちながら、僕は霧の向こうを見つめた。
あの人物は、どこへ行ったのだろう。
山小屋へ来ていないのなら、別の道へ進んだのだろうか。
しかし、僕が歩いてきた道には、少なくともあの辺りで分岐はなかったはずだ。
それとも、どこかで道を外れたのか。
考えても答えは出なかった。
やがて湯が沸いた。
麺に注ぐ。
醤油と鶏ガラの香りが立ち上り、ようやく空腹を思い出した。小葱も忘れず散らす。
「いただきます」
割り箸で麺を持ち上げる。
熱い。
美味い。
やはり、山の上で食べるラーメンは格別だ。いつもなら、それだけで満足できる。
しかし、その日は違った。
食べながら、何度も登山道の方へ目を向けてしまった。
霧の向こうから、あの編み笠が現れるのではないか。大きな箱を背負った人物が、何事もなかったように歩いてくるのではないか。
そんな気がしてならなかった。
だが、誰も現れなかった。
食べ終わって荷物をしまう頃に、三人組の男性が登ってきた。
作業着姿で、工事関係者らしかった。
「こんにちはー」
「お疲れさまです」
彼らは明るい声で挨拶を交わし、小屋の中へ入っていった。
僕はシエラカップをリュックに下げた。
あの人物も、こうして当たり前に現れると思っていた。少なくとも、姿を見た時は。
けれど、現れなかった。
最後まで。
今でも、時々思い出す。
白い霧。
濡れた登山道。
背中に背負われた、真四角い箱。
深くかぶった編み笠。
そして、地下足袋。
何より不思議なのは、あの足音だ。
僕の後ろから聞こえていたはずの音が、いつの間にか前へ移っていた。
追い抜かれた覚えはない。
人影を見たのは、たった一度だけ。
声をかけても振り返らず、霧の中へ消えていった。
勿論、単なる見間違いだった可能性はある。
霧のせいで距離感が狂い、木々の影を人間だと思い込んだのかもしれない。
音だって、何か別のものだったのだろう。
そう考えるのが、一番自然だ。
ただ。
あの人物の歩き方だけは、はっきりと覚えている。
背中に大きな荷物を背負いながら、少しも急ぐ様子がなかった。
一定の歩幅で、淡々と登っていく。
まるで、その道を何百回も、何千回も歩いてきたかのように。
そして、これからもずっと歩き続けるかのように。
あの日、山小屋に最初に到着したのは僕だった。
小屋の人は、そう言った。
ならば、僕の前を歩いていたのは誰だったのだろう。
あの人は、どこへ向かっていたのだろう。
今でも、答えはわからない。
結局、僕は何を見たのだろう。
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