第60話: 世界の食卓
大いなる宴の、朝が来た。
王都の広場に、長い長い食卓が伸びていた。
その食卓に、六つの種族が着いていた。
獣人の里の長老。ドワーフのハルド。マーフォークの珊瑚姫。エルフの里の長老。人間の村人たち。ナジールの民。
何百年も互いを避けてきた者たちが、今、ひとつの食卓を囲んでいた。
誰も、まだ言葉を交わさなかった。
ぎこちない沈黙があった。
その沈黙の真ん中で、ルカが鍋に火を入れた。
六つの神の食材が、ひとつの鍋に入っていく。
森の心臓茸。溶岩蜜酒。深海真珠貝。黒胡椒。精霊の雫果。黄金小麦。
本来なら、決して出会わない、六つの味。
「ルカ」
マリカが隣に立った。
「指揮を、お願いしますわ。——いえ」
マリカは笑った。
「一緒に、作りましょう」
ルカが頷いた。
二人の手が動きはじめた。
以前、この六つを合わせた時、料理は鳴らなかった。技術は完璧でも、歌わなかった。
でも、今は、違った。
食卓には、心を揃えた者たちが、座っていた。獣人も、エルフも、人間も。みんなが、同じ一皿を、待っていた。
その瞬間。
鍋が、淡い光を放ちはじめた。
今まで見たどの光とも違う光だった。
「……これは」
ルカの手が、止まった。
「歌ってる。——この一皿、歌ってやがる」
「ええ」
マリカの目が輝いた。
「食魔法。——神代級ですわ」
一皿が、配られていった。
六種族の、すべての席に。
最初に口をつけたのは、獣人の里の長老だった。
その隣の、エルフの長老も。
二人が、同時に目を見開いた。
「……森の匂いがする」
エルフの長老が呟いた。
「わしの里の、精霊樹の匂いだ。——なぜ、人間の料理から」
「いや」
獣人の長老が首を振った。
「これは、わしの里の、燻製の味だ。——お前にも、聴こえるのか。森の声が」
二人が顔を見合わせた。
何百年も避けてきた、二つの種族が。
今、同じ一皿の中に、互いの故郷を見ていた。
それは、食卓のあちこちで起きていた。
ドワーフのハルドが一口食べて、海のほうを見た。
「……海の味が、する。深い、海の味だ。わしは、海なんぞ、見たこともないのに」
マーフォークの珊瑚姫が、火山のほうを見た。
「炎の味が、するわ。——熱くて、甘い。陸の、火の味」
食卓の真ん中で、人間の村人が、椀を覗き込んだ。
「……なあ。みんな、同じもの食ってるよな?」
「ああ」
隣の漁師が、頷いた。
「なのに、なんでか、涙が出やがる」
誰も説明できなかった。
ただ、一口食べるたびに、知らないはずの土地の味が口の中に広がっていく。
他の種族の、食の記憶が。
その一皿の中で、ひとつになっていた。
フィリアも、一口食べた。
味のわからないフィリアが。
その目から、雫がこぼれた。
「……少しだけ」
フィリアが、囁いた。
「少しだけ、わかる気がします。——温かい、って」
完全には戻らなかった。でも、それでよかった。
食卓のいちばん奥に、ボーモン卿が座っていた。
美食貴族連合の、盟主。食を、力だと信じてきた男。
その隣に、宮廷料理長が控えていた。
ボーモン卿は、長いあいだその一皿を見ていた。
それから、ひと匙口に運んだ。
ボーモン卿の手が止まった。
そして、顔を背けた。
宮廷料理長だけが、それを見ていた。
ボーモン卿の肩が震えていた。背けた頬を、ひと筋の雫が伝っていた。
長いあいだ食を管理し、誰にも涙を見せてこなかった男が。
「……これは」
ボーモン卿の声が掠れていた。
「これは……管理では、作れない味だ」
宮廷料理長は、何も言わなかった。
ただ、三つ星の料理人として、その一言の重さを誰よりも、わかっていた。
食は力だ、と言い続けた男が。
初めて、食の前に言葉を失っていた。
その大きな食卓の、いちばん端で。
マリカが、最後の一皿を食べていた。
誰もが、彼女を上座に座らせようとした。この宴を成した者として。
でも、マリカは断った。
「わたくしは、食べる専門ですもの。——いちばん、食べやすい席が、いいんですの」
だから、マリカは食卓の端にいた。
六種族の歓声からも、ボーモン卿の涙からも、少し離れた場所で。
ただ、ひとり、その一皿を味わっていた。
ひと匙、口に運ぶ。
目を閉じる。
マリカの頬を、涙が伝った。
「……おいしい」
たった、それだけだった。
世界中の味を読み、世界中の食を語ってきた令嬢が。
最後にこぼした言葉は。
ただ、おいしい。それだけだった。
「嬢ちゃ……」
ガルムが、隣に来て言いかけた。
それから、ふと言い直した。
「……マリカ」
マリカが顔を上げた。
ガルムが、初めて名前を呼んでいた。
森の猟師が、人間の令嬢の名を。
「うまかったぞ」
それだけ言って、ガルムは肉のほうへ戻っていった。
マリカは、その背中をしばらく見ていた。
二年の旅が、この一言に詰まっていた。
「マリカ」
別の声がした。
エドモンドだった。
第二王子は、緊張した顔でマリカの前に立っていた。
「君に、言わなければならないことが、ある。——二年前、君を追放したのは」
「あ、エドモンド様」
マリカが、ぱっと顔を輝かせた。
「このデザート、召し上がりました? 黄金小麦のタルトですの。ルカが焼きましたのよ。——外はさっくり、中はとろっと。生地の層が、七層もありますの!」
「……いや、まだ」
「では、急いでくださいまし! なくなりますわ!」
エドモンドは、用意してきた謝罪の言葉を、またしまった。
二年前と、同じだった。
マリカは、過去を見ていない。いつも、次の一口を見ている。
エドモンドは、しばらくぽかんとして。
それから、ふっと笑った。
「……君は、本当に、変わらないな」
それで、よかった。
謝罪より、ずっと、救われた気がした。
宴が、終わった。
六つの種族が、肩を組んで、帰っていった。何百年の壁が、たった一皿で、消えたわけではない。けれど、確かに、何かが、変わっていた。
広場に、夕日が差していた。
ルカが、片付けをしながら、ぼそりと言った。
「……で」
マリカが、振り返る。
「次は、どこだ」
マリカの目が、いつものように輝いた。
「東の大陸に、見たこともない果物が、あるそうですわ」
「……そうか」
ルカは、鍋を布で拭いた。
「勝手にしろ」
その声は、出会った日と同じ言葉だった。
でも、まったく違っていた。
あの日の「勝手にしろ」は、突き放す言葉だった。
今の「勝手にしろ」は、笑っていた。
マリカは、その笑顔を見た。
それから、夕日のほうを向いた。
「……ルカ」
マリカが、静かに言った。
「次は、どこの味を、知りに行きましょうか」
暴食令嬢の旅は、世界を救っても終わらなかった。
まだ、食べたことのない味が。
この世界には、いくらでもあったから。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「世界の食卓」、最終話です。全六十話、ここまでお付き合いいただき、本当に、ありがとうございました。
六つの種族が、ひとつの食卓を囲む。何百年、避けてきた者たちが、同じ一皿を食べる。そして、一口食べた瞬間、互いの食の記憶が、分かち合われる。獣人とエルフが、同じ料理の中に互いの故郷を見る。ドワーフが海の味を、マーフォークが炎の味を知る。食べることで、相手を理解する——マリカが一人でやってきたことを、世界全体が、一瞬だけ追体験します。
ボーモン卿の涙。「食は力」と言い続けた男が、「管理では作れない味だ」と言葉を失う。本人には語らせず、宮廷料理長の目を通して描きました。彼は完全には改心しません。でも、凍っていた何かが、確かに溶けた。その瞬間を、読者の皆さんに見届けてほしかった。
そして、マリカ。彼女は、英雄になりません。上座にも座らない。食卓の端っこで、ただ「おいしい」と泣いている。世界中の味を読んできた令嬢が、最後にこぼした言葉が、ただの「おいしい」。これが、書きたかった結末です。
ガルムが、初めて「マリカ」と名前を呼ぶ。エドモンドの謝罪を、デザートの話で遮る。ルカの「勝手にしろ」が、笑顔に変わる。出会った日の突き放す言葉が、六十話を経て、いちばん温かい言葉になりました。
そして、旅は続きます。「東の大陸に、見たこともない果物がある」。マリカの好奇心は、世界を救っても枯れません。彼女は、また歩き出す。いちばん近い人と、いちばん遠い味を、知りに。
長い旅に、お付き合いいただき、心から感謝します。マリカとルカの食卓を、また、どこかでお見せできたら嬉しいです。
本当に、ありがとうございました。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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