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「世界中のごはんを食べ尽くす!」——追放令嬢の食い倒れ世界制覇、始めますわ  作者: 歩人


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第4話: あなたならわかるでしょう?

 マリカ・ベルモントは約束を破る女ではない。


 朝もやがまだ残る時刻に、酒場の扉が開いた。昨日と同じ音。昨日と同じ栗色の三つ編み。昨日と同じスパイスポーチ。


 ——ただし、昨日とは目的が違った。


「おはようございます、ルカ。今日はあなたの厨房をお借りしますわ」


 ルカの手が止まった。鍋の前に立ったまま、振り返る。


「……は?」


「聞いていましたか? 厨房を、お借りしますと申しましたの」


 マリカは返事を待たずに厨房に入った。カウンターを越え、ルカの横を通り過ぎ、まっすぐ食材棚に向かう。


「おい、勝手に——」


「ローズマリー、昨日の場所から動いていますわね。鍋の横に。——使う気になりましたか?」


 ルカが口を閉じた。


 マリカは棚の瓶を一つずつ手に取り、蓋を開け、匂いを嗅いだ。塩。干し草。蜂蜜。乾燥した月桂樹ローリエの葉。黒胡椒——粒が不揃いだが、香りは意外に力強い。


「ルカ、この燻製肉はいつ仕込みましたの?」


 壁に吊るされた肉を指差す。表面に白い粉が吹いている。ルカは答えたくなさそうに、それでも答えた。


「……三日前だ。余った鹿の腿を塩漬けにして燻した」


「三日。ちょうどいい塩梅ですわ。塩分が肉の内側まで浸透して、旨味が凝縮している頃合い」


 マリカは燻製肉を鼻に近づけ、目を細めた。


「煙の質も悪くない。何の木で燻しましたの?」


「……ならだ。そのへんの倒木」


「楢。赤身の獣肉には最適な薫香材ですわ。——ルカ、あなたは手を抜くところと手を抜かないところの基準がおかしいんですの」




 ルカにはマリカの行動が理解できなかった。


 この令嬢は酒場の薄暗い食材庫に入り込み、干からびた蕪や芽が出かけた芋を一つずつ嗅ぎ、触り、時には齧って吐き出し——そしてカウンターの上に食材を並べ始めた。


 燻製肉。蕪。芋。人参。それから、昨日マリカ自身が置いていったローズマリー。


「この食材で、ルカ。あなたの本気の一皿を作ってくださいませ」


「……何を言って——」


「農夫の煮込み《ポトフ・ド・テール》のアレンジ。根菜と燻製肉の煮込み。——この素材の最適な組み合わせと火加減は、わたくしにはわかりますわ。でも、それを形にする腕はわたくしにはない」


 マリカはルカの目をまっすぐに見た。


「あなたならわかるでしょう? この蕪の甘みを最大に引き出す火入れの時間。この燻製肉を煮込みに入れるタイミング。——わたくしの舌では見えるだけ。あなたの手でしか、形にできませんの」


 ルカは黙って食材を見た。


 蕪。芋。人参。干からびかけた、辺境の粗末な食材たち。宮廷なら見向きもされない。——だが昨日、この令嬢はルカの賄い飯の塩加減を「完璧」と言った。あの舌が、この食材に何を見ているのか。


「……勝手にしろ」


 ルカは包丁を手に取った。




 マリカの指示は的確だった。


「蕪は皮を厚めに剥いてくださいませ。繊維の向きに逆らって——そう、直角に。煮崩れますが、その分甘みが染み出しますわ」


「……なぜそうなる」


「繊維を断つと細胞壁が壊れて、加熱時に糖が溶出しやすくなりますの。辺境の蕪は水分が少ない分、糖度が高い。その特性を活かすなら——」


「わかった。黙れ」


 ルカの包丁が動いた。蕪を直角に、正確に四つ割りにする。マリカが言葉で説明したことを、ルカの手は一瞬で理解していた。


「燻製肉は薄切りに。最初に脂を鍋底で溶かして——」


「言われなくてもわかる」


「あら、わかりますの?」


「燻製肉の脂は溶けた時点で煙の風味を油に移す。その油で根菜を炒めれば、薫香が全体に回る。——宮廷でもやってた技法だ」


 マリカの琥珀色の目が輝いた。


「そうですわ。あなたは知っている。あなたの手は覚えている。——だから言いましたでしょう、あなたの味覚は狂っていないと」


 ルカは答えなかった。燻製肉の脂が鍋底でじゅうと音を立てた。楢の煙の香りが厨房に広がる。


 根菜を脂で炒め、水を張り、塩を振る。ローズマリーの枝を折って鍋に沈めた。——昨日、棚に戻した瓶の中身を、今日は自分の意思で使っていた。




 鍋が完成するまで、一時間。


 灰汁を掬う手つき。火加減を調整する指先。蓋を少しだけ開けて蒸気を逃がす判断。全てが二年前——宮廷で鍋を振っていた頃の手つきだった。


 マリカはその手を見ていた。口は挟まなかった。最初の指示だけで十分だった。ルカの手が動き始めたら、あとは邪魔をしないほうがいい。


 ——わたくしの舌で見えた可能性を、ルカの手が最適な形に構築していく。


 その光景が、マリカには眩しかった。


 ——出会って、まだ二日ですのに。


 その想いは浮かんで、すぐに鍋の香りに掻き消された。


 厨房に、煮込みの匂いが満ちた。




 酒場の扉が開いた。


「ルカ、今日の飯は——」


 常連の農夫が言葉を止めた。いつもの酒場と何かが違う。——匂いだ。


「何だ、この匂い」


 農夫の後ろから、もう一人。木こりの老人が鼻を鳴らした。


「……煮込みか? だがいつもと全然違うぞ」


 ルカは無言で器に煮込みをよそった。琥珀色のスープ。形の整った蕪と人参。燻製肉から溶け出した脂の膜がかすかに光っている。ローズマリーの緑の枝が一本、彩りを添えていた。


 農夫が一口すくって、口に入れた。


 ——動きが止まった。


「…………」


 スプーンを持ったまま、農夫の目が大きく見開かれている。


「……何だ、これ」


 もう一口。ゆっくりと噛んで、飲み込んだ。農夫の目から涙がこぼれた。


「何だよ、これ……うめぇ……こんなもの食ったことねぇよ……」


 木こりの老人も、黙ったまま涙を流していた。スプーンを握る手が震えている。


「……ばあさんの煮込みを思い出した。五十年前に死んだ女房の……同じ蕪と芋で、こんなに……」


 酒場に人が増えていた。匂いに誘われて近所の住人が集まってくる。ルカは黙って鍋をよそい続けた。一杯、また一杯。


 器を受け取った者が、次々と涙する。


 辺境の酒場で——場末の薄暗い店で——粗末な食材で作った煮込みが、人を泣かせている。


 温かさが広がっていた。理屈では説明できない温かさ。煮込みを食べた者の顔に血の気が戻り、冷えた手が温まり、背筋が伸びる。老人の膝の痛みが和らぎ、子どもの擦り傷がいつの間にか消えていた。


 食魔法しょくまほう——家庭級。


 「誰かのために作る」料理が精霊力を活性化させる、最も原初的な魔法。ルカは知らなかった。この二年間、「わざとまずく作る」料理には、決して宿らなかった力だった。




 ルカは自分の手を見た。


 左手の火傷の跡。くたびれた指。爪の間に残った蕪の汁。


 この手が——作った。


「……俺の、料理」


 声にならなかった。唇が動いただけだった。


 カウンターの向こうで、農夫が二杯目をよそっている。木こりの老人が隣の女に「食え、食ってみろ」と器を渡している。子どもが「もっと!」と叫んでいる。


 二年間。誰にも「おいしい」と言われなかった。言わせないように作っていた。——なのに今、目の前で人が泣いている。自分の料理を食べて、泣いている。




 マリカは厨房の隅で、最後の一杯を受け取った。


 器を両手で包み、顔を近づける。湯気が鼻先を撫でた。楢の煙。ローズマリー。蕪の甘み。燻製肉の旨味。——全てが、マリカの指示通りに組み立てられていた。


 いや。指示以上の何かが、この一杯にはあった。


 一口含んだ。


 ——マリカは、目を閉じた。


 初めてのことだった。マリカ・ベルモントは食べる時に目を閉じない。味を分析するには視覚情報が必要だ。器の色、盛り付け、素材の断面——全てがデータだから。


 なのに目が閉じた。分析ではなかった。味わっていた。


 口の中で蕪が崩れる。甘い。深い。そこに燻製肉の塩気が追いかけてきて、ローズマリーの香りが鼻に抜ける。三層の味が順番に展開する——ルカの「味の構築」だ。無意識に、この煮込みにまで設計を施している。


 マリカは目を開けなかった。二口目を含んだ。三口目。


「…………」


 スプーンが器に当たる小さな音だけが、酒場の喧騒の下に聞こえた。


 ——わたくしの舌で見えたものを、ルカの手が形にしてくれた。


 マリカはそう思った。そしてすぐに、その考えを押し込めた。気づかないふりをした。


 わたくしは味がわかるだけだ。この味を形にしたのは、ルカの腕だ。——でも。わたくしが見つけなければ、この味は生まれなかった。ルカが作らなければ、この味は存在しなかった。


 どちらか一人では、この一皿は成立しない。


 マリカは器を空にした。一滴も残さず。


 目を開けた時、ルカがこちらを見ていた。カウンターの向こうから、深い緑の目が——何かを問いかけるように。


「——ルカ」


「……何だ」


「この煮込み。まあ……合格ですわ」


 ルカの眉がぴくりと動いた。


「百点中六十八点。蕪の火入れがあと三分長ければ七十点でしたわ。ローズマリーは半枝多い。でも——」


 マリカは立ち上がった。スカートの裾を払い、いつものお嬢様の顔に戻る。


「味の構築が入っていましたわね。三層。蕪の甘み、燻製肉の塩気、ローズマリーの香り。——この三層を無意識に設計した料理人が、自分の味覚を疑っているなんて、滑稽ですわ」


 ルカは何も言えなかった。


「明日も来ますわ」


 マリカは扉に向かった。


「明日は——もっと面白い素材を持ってきますの。辺境の森に、わたくしがまだ嗅いだことのない茸が生えているはずですわ」


「おい、待て。俺は頼んで——」


「聞いていませんわ。では、また明日」


 扉が閉まった。




 ルカは一人、鍋の前に残された。空になった大鍋。こびりついた煮込みの跡。ローズマリーの枝が一本、鍋底に沈んでいる。


 ——六十八点。


 二年間、誰にも点数をつけられなかった料理に、あの令嬢は六十八点をつけた。不合格ではない。だが満点でもない。具体的な改善点を指摘し——そして「明日も来る」と言った。


 つまり、まだ伸びしろがあると言っている。


 ルカは鍋底のローズマリーの枝を拾い上げた。くたくたに煮えた葉から、まだかすかに香りがする。


「……六十八点か」


 口の端が、ほんの少しだけ上がった。


 二年ぶりだった。自分の料理に点数がついたことが、嬉しいと思ったのは。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


マリカの指揮とルカの腕——二人の連携が初めて噛み合った回です。マリカは「味がわかるだけ」で、ルカは「形にするだけ」。でもこの二人が組むと、どちらか一人では絶対に到達できない一皿が生まれる。


村人が泣いたのは、料理が美味しかったからだけじゃないんです。二年間まずい飯しか出さなかった酒場の料理人が、初めて「本気で作った」一皿だから。料理に想いが宿る——この世界では、それは比喩ではなく文字通りの食魔法として発動します。


あと、マリカが「六十八点」とつけたのは、ルカへの最大限の敬意です。百点をつけたら、ルカはそこで止まる。「まだ上がある」と示すことが、マリカなりの信頼の形なんですよね。


次回、マリカが村の食糧事情に気づきます。豊かなはずの辺境で、なぜ食材が回っていないのか?——第5話「食材が腐る村」、お楽しみに。


◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇


▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】

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