第26話: 配給食の可能性
夜が村に降りていた。
空き家の土間に膝をつき、マリカは地面に小枝で図を描いていた。村の人数。残っている食材。竈の数。薪の量。サーラの大鍋の容量。全部を数字に直して、土の上に並べていく。
指はもう、かじかんでいなかった。二杯のスープが回した熱が、まだ続いている。
火明かりの中で、ルカがその図を見ていた。
「村の腹が、百と十二」
マリカは小枝の先で、図の端を叩いた。
「今ある食材は、兎が一羽。薬草がひと束。サリムさんの保存食が二日分。それと、サーラさんが配るはずだった明日の麦」
「……どう見ても足りねえな」
「ええ。足りませんわ」
マリカは顔を上げた。琥珀色の目に、火が映っている。
「足りないものを、足りないまま配るのが配給ですの。足りないものを、足りるように化けさせるのが——料理ですわ」
ルカは何も言わなかった。ただ、小刀を握り直した。
マリカの指が、図の上を走り始めた。
「兎は肉では数えませんわ。出汁にしますの。骨を割って水と煮出せば、百十二人分の鍋に風味が通ります。肉は、いちばん弱った人から。病人と子供とお年寄りに」
マリカはサーラのほうを見た。
「サーラさん。村でいちばん弱っている人を二十人、教えてくださいまし。あなたなら、顔と名前ですぐ言えるでしょう」
サーラの息が、止まった。
「……二十人なら、今すぐにでも」
「お願いしますわ」
マリカの小枝が、次へ動いた。
「麦は割りますの。粒のまま炊くより、割って粥にしたほうが腹に溜まる。同じ量で、人数が伸びますわ。サリムさんの保存食は味の芯に。少量で、舌が『食べた』と感じる旨味の核にしますの」
「フィリアさん」
マリカは最後にエルフを見た。
「あなたの薬草。あれは、ただのかさ増しではありませんわね」
フィリアは掘り起こした薬草の束を、膝の上に置いていた。指先で一本の葉に触れている。
「……はい。でも、ひとつ問題があります」
フィリアの声が、少し沈んだ。
「この薬草は、傷んだ土で育ちました。根に、土地の傷が移っています。このまま煮るとえぐみが出ます。たくさん食べると、腹を下す人も出るかもしれません」
土間に、短い沈黙が落ちた。
せっかくのかさ増しが、人を腹くだしにする。冬の、弱った身体には、それだけで命取りになりかねない。
「——見せてみな、エルフの嬢ちゃん」
声をあげたのは、サリムだった。
フィリアの隣に膝をつき、薬草の葉を一枚つまんで香りを嗅ぐ。それから腰のベルトの小袋を、いくつか開けた。
「このえぐみは、たぶん土の苦み成分だ。砂漠にも、似たやつがある。井戸が枯れかけた土地の草には、よくこれが出る」
サリムは、黄色い粉の小袋を一つ選んだ。
「この香辛料は、苦みを抑える。それと——」
言いかけたサリムの手が、止まった。
フィリアが別の薬草を一本、サリムの前に差し出していたからだ。
「サリムさん。その粉と、この草を合わせてください」
「……この草を?」
「この子は、苦みを抱え込む性質があります。あなたの香辛料が苦みを抑え、この草が残りを吸う。——たぶん、合わせるとえぐみが消えます。それどころか」
フィリアの翡翠色の目が、わずかに明るくなった。
「弱った身体を、温める薬になります。下すどころか、逆ですわ」
サリムは、フィリアの差し出した草と自分の粉を、手のひらの上で合わせた。指で揉む。香りが二つ混ざり合い、一つの新しい香りになった。
サリムが目を細めた。
「……エルフの嬢ちゃん」
「なんでしょう」
「おれの相棒に、ならんか?」
フィリアは、まばたきをした。冗談だと気づくのに、一拍かかった。
「……砂漠は、寒くないですか」
「おお、上手いこと断るじゃないか」
サリムが声を立てて笑った。
フィリアの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。味はわからない。けれど、自分の薬草の知識が誰かの知識と噛み合った手応えだけは、確かに感じていた。
試作が始まった。
マリカが指揮した。ガルムが兎の骨を割り、ルカが鍋に落とす。サリムが香辛料を計り、フィリアが薬草を下ごしらえする。サーラが、自分の大鍋を火にかけた。
限られた食材が、それぞれの手を通って一つの鍋に集まっていく。
ルカの手は迷わなかった。出汁の濁りをすくい、麦を入れる頃合いを計り、サリムの香辛料を入れる一瞬を見極める。マリカが「今ですわ」と言う前に、もう手が動いていることもあった。
小さな鍋が一つ、煮上がった。
味見役は、サーラだった。
サーラは木の匙で、ひとさじすくった。口に運ぶ前に、少しためらった。十五年、薄い粥しか配れなかった手が、宙で止まっていた。
ひとさじを、口に含んだ。
サーラが、ゆっくりと瞬きをした。
それから、その目がゆっくりと濡れていった。
「……これ」
サーラの声が、掠れた。
「これ、配給の麦よ。いつもの薄い、あの麦。なのに——どうして、こんな」
「同じ食材ですのよ」
マリカが静かに言った。
「変えたのは扱い方だけ。兎は出汁に。麦は割って。薬草は、サリムさんの香辛料と組んで薬に。——食材はね、サーラさん。ちゃんと扱えばちゃんと応えてくれますの」
サーラは匙を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
言えないまま、もうひとさじ、口に運んだ。今度は、ためらわなかった。
「……十五年」
サーラが、ようやく声を絞り出した。
「十五年、わたしは薄い粥を配ってきた。手は抜かなかった。でも、これが——これが、できると知らなかった」
「あなたが手を抜かなかったから、ですわ」
マリカは、サーラの肩にそっと手を置いた。
「手を抜く人の鍋には、これは宿りませんもの。あなたの十五年が今、化けただけですの」
鍋の縁から、湯気が立っていた。
いつもの配給の湯気より、ずっと濃い湯気だった。香辛料と薬草と兎の出汁の匂いが、空き家の土間をいっぱいに満たしている。
その匂いが、戸口の隙間から、外へ漏れ出していた。
濃い出汁と香辛料の匂いは、冷えた村の路地を、ゆっくり流れていった。薄い粥しか知らない鼻には、それは暴力的なほど豊かだった。
ひとり、またひとりと、村人が空き家の戸口に集まってきた。痩せた頬。落ちくぼんだ目。けれど、その鼻だけが、匂いのほうを向いている。
「……何の、匂いだね」
年老いた男が、掠れた声で訊いた。
「明日の朝ごはんの匂いですわ」
マリカは鍋の前から振り返って、にっこり笑った。
「ただ、ひとつお願いが。——手の空いている方は、麦を割るのを手伝ってくださいまし。割れば割るほど、みんなの椀が厚くなりますの」
戸口の村人たちが、顔を見合わせた。
最初に動いたのは、サーラだった。臼を一つ、土間の真ん中に据える。次に、年老いた男が、震える手で麦をひと握り、臼に入れた。それから、女が。子供が。
誰も、たくさんは動けなかった。みんな、弱っていた。それでも、ひと握りずつなら、運べた。ひと臼ずつなら、挽けた。
冷えた村の竈の周りに、いつのまにか、人の輪ができていた。
ガルムが、その輪の外で、背負い籠を担ぎ直した。
「……夜明けと同時に、網の外へ行く。骨を、もっと持ってくる。出汁は、多いほどいい」
「頼みますわ、ガルムさん」
ガルムの丸い耳が、ぴくりと動いた。けれど今度は、隠さなかった。
戸口の外で、空が、わずかに白み始めていた。
夜明けが、近い。
夜が明ければ、村が起きる。百十二人が、配給の列に並ぶ。そして、肥えた馬に乗った徴発官が、また、やってくる。「薄い粥でも、立派に飾れ」と笑いに。
マリカの口角が、ゆっくりと上がった。今度は、いつもの暴走令嬢の角度だった。
「ルカ」
「……ああ」
「試作は、合格ですわ。——ここから、百十二人分。間に合わせますわよ」
ルカは、火の前で、腕をまくり直した。
「最初から、そのつもりだ」
その声に、二年前に失ったはずの料理人の熱が、戻り始めていた。
東の空が、また一段、白んだ。
村が、目を覚まそうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「配給食の可能性」、書きました。
この回は、マリカの頭脳が主役です。普段は鼻と舌で暴走している令嬢ですが、本当に強いのは、たぶん「人と食材を、最適な場所に置く力」のほうです。兎一羽を肉ではなく出汁として数える。麦を割って腹持ちを変える。同じものを、扱い方ひとつで化けさせる。これはマリカの「美食の指揮」という能力の、いちばん地味で、いちばん本質的な使い方でした。
フィリアとサリムが初めて噛み合う場面を、書きたかったのです。味のわからないエルフの薬草知識と、砂漠の商人の香辛料。傷んだ土の薬草を、二人の知識を合わせて「薬」に変える。サリムの「相棒にならんか?」と、フィリアの「砂漠は寒くないですか」のやりとりは、書いていて頬がゆるみました。
そしてサーラ。十五年、薄い粥を配り続けた人が、同じ麦でできた一杯に涙する。「あなたが手を抜かなかったから宿った」——マリカがいちばん伝えたかったのは、たぶん、この一言です。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、百十二人分。ルカが、二年ぶりに、限界を超えます。
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