第2話: まずい飯の酒場
夕刻——馬車が止まった。
マリカが扉を押し開ける前に、匂いが先に飛び込んできた。
腐葉土。炭。焼けた石。獣脂。そして——かすかに、煮込んだ根菜の甘み。
「……人の営みの匂いですわ」
マリカは馬車から身を乗り出し、深く息を吸った。王都の空気とはまるで違う。宮廷の空気は香水と蝋燭と、使い古された権威の匂いがした。ここには、それがない。
辺境の村ツェーレン。東部の森の入り口に張りつくようにして存在する、人口百人に満たない小さな集落だった。石積みの家が十数軒。中央に井戸。畑が少しと、森との境界に杭を打った柵。それだけの村。
「お嬢様、こちらで——」
護衛の兵士が言いかけた時には、マリカはもう馬車を降りて歩き出していた。鼻が利いている。煮込みの匂いの出所を追っている。
村の広場に、年老いた女が鍋を抱えて座っていた。焚火の残り火で温め直した、蕪と干し肉のスープ。木の器によそって、通りかかる村人に配っている。
「おや、見ない顔だね。旅の人かい」
「ええ。追放されてきましたの」
マリカはためらいなく言った。老女が目を丸くする間に、マリカはもう鍋の縁に顔を寄せていた。
「このスープ、いただいてもよろしくて?」
「……あ、ああ。どうぞ」
木の器を受け取る。琥珀色のスープに、煮崩れかけた蕪の欠片と、繊維の目立つ干し肉が浮いている。見た目は素朴を通り越して粗末だった。
マリカは一口含んだ。
「…………」
目を閉じない。マリカが目を閉じるのは、信頼した料理人の料理を食べる時だけだ。今はまだ、分析のための目を開けている。
「蕪はこの村の畑ですわね。土が痩せていて、甘みが弱い。干し肉は……塩蔵が長すぎますわ」
老女が口をぽかんと開けている。
「でも」
マリカの琥珀色の瞳に、小さな光が灯った。
「でも、この蕪は繊維が細い。煮るととろみが出る品種ですわ。干し肉の扱い方を変えれば化けますわ。そして何より」
マリカはスープをもう一口飲んだ。
「水が良い。この村の井戸水、不純物がほとんどない。スープの土台として申し分ありませんわ。——素材の扱い方次第で、この一杯は化けますわよ」
「……お嬢さん、何者だい?」
「食いしん坊ですわ」
マリカは器を空にして返した。お礼に腰のスパイスポーチから月桂樹の葉を一枚取り出し、老女の手に載せる。
「次に煮込む時、これを一枚入れてくださいませ。蕪の甘みを引き立てますわ」
老女はぽかんとしたまま、月桂樹の葉を握りしめていた。
護衛の兵士に「追放先」として指定された宿は、村の端にある崩れかけの倉庫だった。
マリカはそれを一瞥しただけで、興味をなくした。寝る場所はどこでもいい。それよりも、村を歩き回りながら嗅ぎ取った匂いの方が重要だった。
焼けた動物脂の匂い。安い酒の酸味。そして——微かに、何かが違う。
「……あっちですわ」
マリカの足は村のはずれにある建物に向かっていた。看板すらない。石壁にはつたが絡み、入り口の扉は半分開いたまま蝶番が錆びている。だが中から、料理の匂いがしていた。
酒場だった。
中は薄暗く、粗末な木のテーブルが四つ。客は三人。全員が無言で器に顔を突っ込んでいた。食事を楽しんでいる空気ではない。空腹を満たすためだけに口を動かしている。
カウンターの奥に、男がいた。
背が高い。黒髪が片目にかかっている。くたびれた料理人のコートの袖をまくり上げた腕には、細いが確かな料理人の筋肉がついていた。包丁を握る左手に、古い火傷の跡が見えた。
男はマリカを一瞥し、すぐに目を逸らした。
「……好きに座れ。煮込みだけだ」
低い声だった。ぶっきらぼうで、愛想のかけらもない。客商売としては致命的な態度だ。
「では、その煮込みをいただきますわ」
マリカはカウンターの端に座った。男は無言で鍋から器によそい、カウンターに置いた。置き方すら乱暴だった。スープが少し溢れる。
マリカは器を手に取った。
見た目は——ひどかった。
濁った茶色のスープに、形の崩れた肉の塊と、煮すぎた野菜がぐったりと沈んでいる。彩りは皆無。湯気の立ち方にもムラがある。温め直したのだろう。宮廷料理の対極にある一皿だった。
マリカは匂いを嗅いだ。
——獣肉。鹿か。根菜は二種。蕪と、芋。塩。水。以上。
香辛料なし。ハーブなし。酒も入っていない。味の骨格を支える副材料が何もない。素材を鍋に入れて煮ただけ——そう見える。
一口含んだ。
マリカの動きが、止まった。
「——おいしい」
思わず声が出た。小さく、だが確かに。
スプーンを持つ手が震えていた。琥珀色の瞳が見開かれ、そして——怒りに近い光を帯びた。
もう一口。もう一口。三口目で、マリカはスプーンを器の縁に置いた。
男を、まっすぐ見た。
「——ねえ。怒っていいですか?」
声のトーンが変わっていた。お嬢様の軽やかさが消え、代わりに剥き出しの感情が乗っている。
「これ、わざとまずく作っていますわね」
酒場の空気が凍った。
客の一人がスプーンを落とした。男の——料理人の背中が、わずかに強張ったのをマリカは見逃さなかった。
「……何だと」
男が振り向いた。深い緑の目が冷たく光っている。
「何を言ってる。見た通りの煮込みだ。文句があるなら食うな」
「いいえ。見た通りではありませんわ」
マリカはスプーンを取り上げ、スープを一匙すくって光にかざした。薄暗い酒場の、わずかな窓明かりの中で、スープの色が透ける。
「この煮込み、塩加減が完璧ですの。素材の旨味を殺さない、ぎりぎりの塩梅。偶然では出せない精度ですわ」
男の顔から、一瞬だけ表情が消えた。
「鹿肉の下処理も正確。雑にやったように見せかけて、臭みが出る手前で止めている」
「…………」
「なのに、味が死んでいる。わざとですわね?」
男の——料理人の肩が跳ねた。マリカは畳みかけた。
「蕪を先に入れて煮崩し、見た目を壊している。でも——」
マリカはスプーンで肉片をすくい上げ、窓明かりにかざした。鹿肉の断面が、光の中にくっきりと浮かぶ。
「見てくださいまし。この切り口。大きさも厚みも全部揃っている。雑に切ったふりをしているのに、包丁の角度が全部同じですわ。——身体に染みついた腕は、嘘をつけないんですのよ」
マリカは器を持ち上げ、残りのスープを一口で飲み干した。器をカウンターに戻す音が、静まった酒場に響いた。
「塩加減は完璧で、下処理は正確で、それでいて全体の味をわざと壊している。——これは超一流の腕を持つ料理人が、自分の料理を信じられなくなった味ですわ」
マリカの目が、潤んでいた。泣いているのではない。怒っているのだ。
「もったいない。こんなに美味しいものを作れる手が、こんな使い方をされている。——わたくし、本気で腹が立ちますわ」
客たちが口を開けていた。男は——ルカは、カウンターの上に両手をついて、マリカを睨んでいた。
その目が、冷たさの向こうで揺れていた。怒りか、動揺か、あるいは——もっと深い何かだった。
「……出ろ」
低い声だった。
「出ろ。この店に二度と来るな」
「断りますわ」
マリカは席から立たなかった。空になった器をカウンターに戻し、にっこりと笑った。
「だって、明日もここで食べたいですもの。あなたの本気の料理を。——さっきの一口で、わたくしの舌がそう言っていますの。舌は嘘をつきませんわ」
「聞こえなかったか。出ろと——」
ルカの声が途切れた。マリカが聞いていないのだ。視線はカウンターの隅に向けられ、手は腰のスパイスポーチを探っていた。声は届いている。ただ、好奇心のスイッチが入った瞬間、マリカの意識はもう別のところにある。
小さな瓶を取り出し、カウンターの上にことりと置いた。
「ローズマリーの乾燥葉ですわ。辺境では手に入りにくいでしょう? 鹿肉との相性は、あなたなら知っているはず」
ルカの視線が、一瞬だけ瓶に落ちた。
マリカはその一瞬を見逃さなかった。——ルカの目が、変わった。冷たさが消え、瞳の奥に微かな熱が灯っていた。
——ほら、やっぱり。
マリカは口元が緩むのを止められなかった。やっぱりこの人は、料理を嫌いになんかなっていない。自分の料理を信じられなくなっただけだ。食材を前にした時の目が、それを証明している。
「明日、また来ますわ。——今度は、もう少し本気で作ってくださいませ」
マリカは席を立ち、扉に向かった。振り返りもしない。
背後で、ルカが舌打ちをする音が聞こえた。
「……何なんだ、あの女」
そして——ルカの手が、カウンターの上のローズマリーの瓶に伸びる音も。
宿代わりの倉庫に戻ったマリカは、荷物から革の手帳を取り出した。食べたいものリストの続きに、新しい項目を書き加える。
『辺境の村ツェーレン・酒場の煮込み。料理人——名前不明。超一流の腕。味覚に問題なし。本人だけがそれを信じていない』
その下に、もう一行。
『明日。この人が本気で作ったら、どんな味がするのか知りたい。——知りたい』
二度書いた。書きながら、胸の奥がじわりと熱くなる。
あの煮込みの塩加減。あの包丁の角度。そして——全体の味をわざと壊しながらも、切り口だけは殺せなかった料理人の本能。
壊れた料理の残骸の中に、とんでもない腕前が埋まっている。それが悔しい。自分が追放された程度のことは何とも思わないが、あの腕が腐っていくのを見るのは——本気で我慢ならない。
「この人の本気の一皿を食べたら、わたくし、たぶん泣きますわ。理屈じゃなくて、身体が泣くと思いますの」
独り言だった。倉庫の天井に向かって、マリカは晴れやかに笑った。
窓の外で、森の夜が深まっていく。風に乗って、あの匂いが流れ込んできた。馬車の中でも嗅いだ——森の奥から漂う、かすかな煙。焚火ではない。何かを焼いている匂いだ。しかも、ただ焼いているのではなく——。
マリカの鼻がひくりと動いた。
……明日。まず料理人。それから、あの煙。
やることが多い。マリカは手帳を閉じて、薄い毛布にくるまった。硬い床。獣脂の匂いがする毛布。王都の寝台とは比べるべくもない。
——最高ですわ。
宮廷にいたら、あの煮込みには一生出会えなかった。あの料理人にも、この森の煙にも。追放してくれたエドモンド様には感謝しないといけませんわね。
マリカは毛布の中で、くすりと笑った。
酒場。
客が帰った後、ルカはカウンターの上のローズマリーの瓶を見つめていた。
乾燥状態の保存が完璧だった。色が残っている。香りも飛んでいない。これだけの品質のハーブを「腰のポーチに入れて持ち歩いている」令嬢。
——何者だ。
あの女の分析は、全て正しかった。塩加減。下処理。味をわざと壊していること。食感だけ殺せなかったこと。全部。一口で、全部。
ルカは自分の左手を見た。古い火傷の跡。最初に鍋を振った日——もう、遠い昔だ。
——「味覚が狂った料理人」。
二年前の告発の声が、まだ耳の奥に残っている。
狂ってなんかいない。
……だが、確かめようがない。自分の舌が狂っているなら、自分の舌で判断しても意味がない。
誰の『おいしい』を信じればいい。
だから、わざとまずく作る。まずく作れば、誰も『おいしい』とは言わない。嘘をつかれずに済む。
——あの令嬢は言った。「塩加減が完璧」だと。「超一流の腕」だと。
信じていいのか。
信じたら、また——。
ルカはローズマリーの瓶を棚に置いた。明日使うかどうかは、まだ決めていない。
だが、棚の一番手前に置いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ルカを書くのが本当に難しかったです。「わざとまずく作る」って、技術のある料理人にとっては逆に難しいことなんですよね。塩加減だけは完璧にしてしまう——それが彼の「壊しきれない矜持」で、マリカはそこを一口で見抜いてしまう。
書きながら思ったのは、「自分の力を信じられない」って、本当に辛いことだなということ。ルカは味覚が狂っていない。でも「狂っていない」と証明してくれる人がいなかった。マリカの「塩加減が完璧」という言葉は、ルカにとって初めての「証拠」になるかもしれません。——でもそれは次回のお話です。
次回、朝の酒場にマリカが乗り込みます。ルカが自分用に作った「賄い飯」を食べた瞬間、マリカの舌が全てを暴く——第3話「証拠はこの皿ですわ」、お楽しみに。
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