第1話: 暴食令嬢、追放される
「火入れが甘いですわね」
その一言が、宮廷晩餐の大広間を貫いた。
ベルモント侯爵家の令嬢マリカは、銀のフォークの先にテリーヌの欠片を載せたまま、首を傾げていた。琥珀色の瞳は手元の皿だけを見つめている。豚肉と鶏レバーのテリーヌ——表面にはゼラチンの艶やかな層が光り、断面には粗挽きの肉と翡翠豆の緑が美しい模様を描いていた。見た目だけなら申し分ない。宮廷料理人の美意識は確かだ。
だが。
隣席のエドモンド・ロワイヤル第二王子が、グラスを傾けかけた手を止めた。向かいに座る外交使節の顔が凍りつく。そんなことには、マリカはまったく気づいていなかった。
「素材は良いんですの。ベルモント領の豚肉は脂の融点が低くて舌の上で蕩ける。鶏レバーも臭みがない——おそらく血抜きを三回やった。丁寧な仕事ですわ。でも、火の通しがあと一歩甘い。三度上げて十五分維持すれば、肉の繊維が蕩けて舌ざわりがまるで変わりますのに——」
「ベルモント嬢」
エドモンドの声は静かだったが、指先が白くなるほどナプキンを握りしめていた。
「今は——その話は——」
「あら。なんでしたっけ」
マリカは琥珀色の瞳をぱちくりさせた。テリーヌのことで頭がいっぱいだったので、正直なところ、先ほどから何の話をしていたのかまったく覚えていない。
エドモンドが立ち上がった。椅子の脚が大理石の床を引きずる音が、嫌に大きく響いた。
「——私は、婚約の破棄を宣言する」
大広間が、静まり返った。
数秒の沈黙が降りた。
列席の貴族たちが息を呑む中、マリカは——テリーヌの二切れ目を口に運んでいた。
「……聞いていたか?」
エドモンドの声が震えていた。怒りの声ではない。唇の端が引きつり、握りしめた拳が小刻みに揺れている。
——この方、自分の言葉に怯えていますのね。
「ええ、聞いていましたわ」
マリカはフォークを置いた。ナプキンで唇の端を拭い、エドモンドをまっすぐに見上げる。
「婚約破棄、ですわね。理由をお聞きしてもよろしくて?」
「ベルモント嬢は——王妃にふさわしくない」
エドモンドの目が泳いだ。視線が左右の重臣の顔を順に追い、重臣たちがかすかに頷く。それを確認してから、エドモンドが次の言葉を絞り出した。
——言わされていますのね。
「王妃にふさわしくない。それは——食事の席で料理の話をするからですの?」
「それだけではない」
エドモンドが一歩前に出た。手袋をはめた手が、不自然に握られている。
「外交晩餐会で使節の料理を批評した件。宮廷に毒茸を持ち込んだ件。三週間も行方不明になって氷河地帯から帰ってきた件。城下町の食堂に勝手に乗り込んで経営を改善した件——」
「あれは美味しくなりましたでしょう? あの食堂」
「——そういうところだ!」
エドモンドの声が裏返った。列席の貴族たちの間からかすかな笑い声が漏れる。だがそれは嘲笑だった。「暴食令嬢」に向けられた、社交界の冷たい視線。
マリカは、その笑い声にまったく気づいていなかった。テリーヌの残りが気になっていたのだ。
「つまり」エドモンドが声を絞り出す。「ベルモント嬢を辺境へ追放する。ベルモント侯爵家との婚約は本日をもって——」
「辺境ですの?」
マリカの琥珀色の瞳に、炎が灯った。
それは怒りでも悲しみでもなく——純粋な好奇心の炎だった。
「辺境というと、東部の森でしょうか。あのあたりには分類されていない茸が百種類以上自生しているそうですわね。それから、獣人の方々の焚火料理。あれは一度でいいから食べてみたかったんですの。炙りの技術が人間とはまるで違うと聞きましたわ」
「……は?」
「ああ、それと。辺境の酒場には各地を旅した料理人が流れ着くこともあると聞きましたわ。宮廷の味しか知らない料理人とは違う、野性の技術体系。わたくし、ずっと気になっていたんですの」
マリカは立ち上がった。テーブルに両手をついて、身を乗り出す。
「エドモンド様。追放の日程はいつですの? 明日? 明後日? 早いほうがよろしいですわ。東部の茸は春が旬ですもの」
大広間が、二度目の沈黙に包まれた。
今度の沈黙は、先ほどとは質が違った。誰もが、目の前の令嬢が何を言っているのか理解できなかった。婚約を破棄されたのだ。辺境に追放されるのだ。泣くか、怒るか、すがりつくか——それが普通の反応だろう。
マリカ・ベルモントは、嬉しそうだった。
「……明後日だ」
エドモンドは、乾いた声で答えるのが精一杯だった。
「まあ。では明日中に非常食の仕込みを済ませなければなりませんわね。干し肉は最低でも半日漬け込みたい——ああ、でも時間がないから塩と香草だけで簡易版にしましょう。チーズは硬質のものを。保存が利きますもの」
マリカはそこでようやくテリーヌを思い出し、皿に残った最後の一切れを口に放り込んだ。
「ごちそうさまでした。テリーヌは惜しかったですわね。宮廷の料理人に伝えてくださいませ——あと三度、十五分。それだけで、この一皿は大陸に誇れる逸品になりますのに」
深々と一礼し、マリカは大広間を出た。
振り返らなかった。
残されたエドモンドは、空になったテリーヌの皿を呆然と見つめていた。
——私は、正しい判断をしたのだ。
そう自分に言い聞かせた。だが、去っていくマリカの背中は、解放された鳥のように軽やかで——追放された者の歩き方では、まるでなかった。
翌日の夜。
マリカは自室で、旅の準備に没頭していた。
といっても、荷造りの内容は常軌を逸している。ドレスは一着も入れない。代わりに、腰のスパイスポーチを三つに増やし、服の隠しポケットに乾燥ハーブの小袋を仕込み、背嚢の底には岩塩の塊を忍ばせた。
「お嬢様……」
侍女が泣きそうな顔で立っている。目元が赤い。マリカが荷造りを始める前から、ずっと泣いていたのだろう。
「本当に行かれるのですか。お父様に嘆願すれば——」
「行きますわ」
マリカは振り向きもしない。東部辺境の地図を広げて、そこに自生する食用植物の分布を書き込んでいる最中だった。
「お父様には申し訳ないけれど、わたくしが宮廷にいても仕方ありませんもの。ここの料理はもう全部食べましたわ。知らない味がないんですの」
侍女がついに声を上げて泣いた。
マリカの手が、止まった。
ペンを置いて、初めて侍女のほうを振り向いた。侍女の肩が震えている。十年来の侍女だ。マリカが厨房に忍び込んでは怒られていた頃から、ずっと側にいてくれた人。
「……泣かないでくださいませ」
マリカの声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「わたくしね、五つの時に厨房で食べたことのない味に出会ったんですの。あの瞬間、世界がこんなに広いのだと知りましたわ。——あれからずっと、止まれませんの」
侍女はまだ泣いている。マリカはしばらく、その泣き声を聞いていた。
「……あなたの焼いてくれた焼き菓子。あれは宮廷のどの菓子よりも好きでしたわ。ちゃんと覚えていますの」
それだけ言うと、もう地図に戻っていた。赤い印が一つ増える。「未分類茸・要調査」。
侍女は知らなかった。マリカが地図に向き直ったとき、一瞬だけ、唇を噛んでいたことを。
その翌朝——追放の日の朝。
王都ロワイヤルの執務室で、エドモンドは朝食のスープに手をつけられないでいた。
宮廷料理人が今朝出した季節の野菜のポタージュ。品のある盛り付け、温度も適正、配膳も完璧——のはずだった。
スプーンを口に運ぶ。いつもの味——のはずだった。
不味くはない。温度も適正、盛り付けも品がある。だが今朝はなぜか、食が進まなかった。
——朝から調子が悪いのか。
エドモンドはそう結論づけた。昨夜はよく眠れなかった。あの令嬢の、嬉しそうな顔がちらつく。追放を告げたのに、微笑まれた。あの琥珀色の瞳に「怯えていますのね」と見抜かれた気がして——いや、あれはこちらの気のせいだ。
スプーンをもう一度運ぶ。やはり何か引っかかる。だがそれが料理のせいなのか、自分の体調のせいなのか、エドモンドには判別がつかなかった。
彼女なら、一口で言い当てただろう。「あと三度、十五分」——あの煩わしい注文が、今は聞こえない。
エドモンドはスプーンを置いた。食欲がないだけだ。それ以上のことは、考えなかった。
「……私の判断は、間違っていない」
誰もいない執務室で、そう呟いた。
声は震えていなかった。まだ。
同じ朝。馬車が王都の門を出た。
春の朝もやが地平線を霞ませている。王都ロワイヤルの白い城壁が、背後に遠ざかっていく。護衛の兵士が二人、馬車の前後についていたが、彼らの表情は沈痛だった。追放令嬢の護送など、誰も好き好んでやりたい仕事ではない。
馬車の中で、マリカは——昨日仕込んだ干し肉を頬張っていた。塩と風香草で漬けた即席品だが、悪くない。
窓の外で風景が変わっていく。整備された街道が荒れ、麦畑が減り、森の緑が濃くなる。
知らない風景だった。
知らない匂いがした。
知らない——味が、この先に待っている。
追放令嬢は干し肉を齧りながら、これ以上ないほど上機嫌だった。
日が傾き始めた頃、馬車は辺境の森に差しかかった。マリカは背嚢から革の手帳を取り出した。食べたいものリストだ。最初のページから最後のページまで、びっしりと食材と料理の名前が書き連ねてある。
一番上に新しく書き加えた。
『辺境の森・未分類茸(推定100種以上)』
『獣人の焚火料理(炙り技術の違い)』
『場末の酒場の料理人(宮廷と異なる技術体系)』
窓の外で、森の木々が風に揺れている。春の新緑が馬車の中に緑の光を落とす。その光の中に、マリカは知らない匂いを嗅いだ。
土の匂い。腐葉土の匂い。その下に——かすかに、甘い。
「……茸ですわ」
マリカの琥珀色の瞳が、見開かれた。
「この匂い——知らない種ですわ。わたくしの記憶にない。分類——」
言い終える前に、体が動いていた。馬車の扉を蹴り開ける。
「お嬢様!?」
護衛の兵士が咄嗟に腕を掴んだ。マリカの体が半分、走る馬車の外に飛び出している。地面が流れている。そんなことはマリカの目に入っていなかった。森の奥——あの甘い匂いの方角だけを、琥珀色の瞳が射抜いている。
「離してくださいませ! あの茸、今を逃したら——」
「落ちます! お嬢様!」
兵士が両腕でマリカの腰を引き戻す。マリカはなおも身を乗り出し——そのとき、反対側の窓から別の匂いが飛び込んできた。
煙。肉を焼く煙だ。
マリカの鼻腔が、自動的に分解を始めた。脂が炭に落ちる匂い——滴り方が均一だ。火からの距離を精密に保っている人間の焼き方。素人は脂を散らす。この焼き手は、脂の落ちる位置まで計算している。
なのに。
肉そのものの香ばしさが薄い。表面の焼き色が足りない匂いだ。火力を操る腕がありながら、仕上がりに魂が入っていない。
「……あら?」
マリカの首がくるりと回った。森の茸のことが、一瞬で頭から消える。好奇心のスイッチが別の対象に切り替わった瞬間だった。
兵士はその隙にマリカを座席に押し戻した。
「はっ。——ああ、茸!」
二秒遅れで思い出したマリカは、慌てて手帳を開いた。
『森の入口付近。甘い匂いの未分類茸。要調査。必ず戻る』
『その先の村方面。肉を焼く煙——火力制御は一流。だが味を作る意志がない。要確認』
馬車は辺境の村へ向かって揺れ続ける。
追放は罰だと、王宮の人々は思っている。マリカ・ベルモントにとって、それは——世界で一番嬉しい旅立ちだった。
だが、マリカの鼻の奥にはまだ、先ほどの煙が残っていた。
腕があるのに、美味しく作っていない。
——腕があるのに、作ろうとしていない。
「……面白いですわ」
マリカの琥珀色の瞳の奥で、新しい炎がちらりと揺れた。
「この煙の主に——会わなくてはなりませんわね」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「食い倒れ世界制覇」第1話。マリカの名前は「まりか」と読みますが、由来はとある古語で「美味しい」を意味する言葉です。食い倒れの申し子にふさわしい名前をずっと探していて、この響きに行き着きました。
書いていて一番困ったのはエドモンドです。彼は悪人ではないんですよね。「追放を告げる手が震えている」場面を書きながら、こちらの手も止まりました。この人には、この人なりの長い旅路がある。
侍女のシーンでマリカの手が止まる瞬間——ここだけ三回書き直しました。この子は他人に無関心なのではなく、「止まれない」んです。止まれないことを、たぶん本人だけが少し哀しく思っている。
次回、マリカは辺境の酒場で「腕があるのに美味しく作らない」料理人と出会います。一口食べた瞬間、マリカの世界が止まる——。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】
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