第一巻 起の章 奪われたマスター魔法
VRゲーム《ファンタズマル・アイランド》のGMであるマスターネオは、ある日ログインすると巨大な黒猫の姿になっており、ゲームマスターの権限を失っていることに気づく。
第一話 ログインの果て
接続した瞬間、何かがおかしかった。
視界が低い。異様に低い。
足元を見ようとして、手を動かそうとして——止まった。手がない。前足がある。漆黒の、しなやかな前足が。
「……いやいやいや」
声が出た。妙に軽い声だ。身体を起こすと、長い尻尾がゆらりと揺れた。嫌な予感しかない。
近くの水面に顔を近づける。
そこに映っていたのは——黒猫だった。プレイヤーのアバターなど軽く凌駕する巨体。どう見てもボスキャラの体格である。
「……俺、GMなんだけど」
ぽつりと呟く。口の端がひくりと動いた。
マスターネオ。このゲーム《ファンタズマル・アイランド》のゲームマスター——この世界のルールを管理する側の存在。のはずだった。
視界の端にログを呼び出す。いつも通り、管理画面を開こうとする。
【権限エラー】
管理者権限へのアクセスが拒否されました
「……は?」
一瞬、思考が凍りついた。もう一度試みる。
【アクセス拒否】
「いやいや、それはダメだろ」
笑えない。全然笑えない。GMがGM権限を使えないとは——それはもう、ただの一般プレイヤー以下だ。いや、猫以下か。
そのとき。
遠くで悲鳴が上がった。
「ぎゃああああああ!!」
顔を上げる。森の奥。プレイヤーらしき人影が、何かに追われている。
モンスターか——いや、違う。
「……あれ、配置ミスってるな」
明らかにレベル帯がおかしい。初心者エリアに出る敵ではない。しかも挙動が異常だ。ターゲット優先度も、ヘイト管理も、完全に崩壊している。
「……誰かが弄ってる。これ」
ネオはゆっくりと立ち上がった。黒い巨体が動き出す。
「まあ、いいか」
軽く首を振る。
「とりあえず——」
にやり、と笑った。猫の顔で。
「世界、取り戻すか」
その瞬間。視界の奥に、見慣れないログが割り込んだ。
「それ、つまらないよ」
空気が変わった。
ネオの動きが止まる。
「……誰だ」
返事はない。
だが確実に——誰かが、見ている。
遠くで、また悲鳴が上がった。プレイヤーが倒れた。HPが一瞬でゼロになる。あり得ない減り方だ。
ネオはゆっくりと息を吐いた。
「……あーあ」
頭を軽く振る。
「最悪だな」
でも、その口元は少しだけ笑っていた。
「面白くなってきた」
黒猫は、壊れた世界の奥へと歩き出した。
その背後で、誰にも見えないログが一行だけ追加された。
「期待してるよ」
幕間 サーバールーム
都内某所。
雑居ビルの一室に、複数のモニターが青白い光を放っていた。
窓はない。時刻も判らない。壁には配線が這い、机の上には飲みかけのコーヒーがある。いつ淹れられたものか、誰も気にしていなかった。
「……まだ、入れないのか」
モニターの前で、誰かが呟いた。年齢も性別も判別しづらい声。明かりに照らされた横顔だけが、そこにある。
「ログイン不能、継続中。三時間と四十分」
別の声が答える。こちらもまた、妙に特徴が薄い。まるで意図的に、自分の輪郭を消しているかのようだった。
「強制終了は試したか」
「試した。しかし——」
言葉が詰まる。
「シャットダウンさえ受け付けない」
「ほとんどのプレイヤーが強制ログアウトされたのが不幸中の幸いか——」
「電源断はできない。彼の人体への影響が怖いからな」
沈黙。
あり得ない話だった。ハッキング対策は完璧で、システムコントロールはこの施設でしか受け付けないはずだ。しかし——
「ログが、流れ続けている」
画面には、ゲーム内の映像が映っていた。《ファンタズマル・アイランド》。かつては完璧に管理されていた、VRファンタジーRPGの世界。
今は、サポートチャットにプレイヤーたちが殺到している。「入れないぞ!?」「運営、何やってんだよ!!」「どうなってるんだ!?」
その中で、一つのログが静かに流れた。
【System Notice】
バランス調整を継続中
「……これを出しているのは誰だ」
「運営ではない」
即答だった。
「ならば誰だ」
「それを、調べている」
キーボードを叩く音が続く。高速でログが流れる。内部権限にアクセスしようとするたびに、見えない壁に阻まれる。
別のモニターが点灯した。新しい映像——個室に一人で座る人物の姿がある。ヘッドセットをしたまま、動かない。
「……意識はあるのか」
「ある。ただし——反応がない」
「昏睡状態に近い、ということか」
「それに近い」
空気が重くなった。
そのとき、別の端末が反応した。全員の視線が集まる。
画面に表示されたのは——
「期待してるよ」
誰も、何も言えなかった。
第二話 勝てない敵と、ズルい手
「助けてくれぇぇぇ!!」
森に響く叫び声。
ネオは足を止めた。
視線の先、初心者装備のプレイヤーが全力で逃げている。その後ろから迫るのは——
「ワイバーン、だな」
小さく呟く。
あり得ない配置だった。ここは低レベル帯の森だ。本来なら出るのはスライムか、せいぜい小型のウルフ。それが今、空から降りてきたのはレイド級モンスター。しかも——
「挙動がおかしい」
ワイバーンは低空を滑るように飛び、一直線にプレイヤーを追っている。通常ならヘイトの分散や警戒範囲の制限があるはずだ。だが今は違う。まるで——
「絶対に殺すって決めてる動きだな」
プレイヤーが転ぶ。その瞬間、ワイバーンが口を開いた。ブレスが来る。当たれば即死。
ネオは一瞬だけ自分の身体を見た。黒い前足。巨大な体。
「見た目だけボスで、中身は一般プレイヤーか」
苦笑する。今の自分のステータスでは——絶対に勝てない。
だが。
「普通にやれば、の話だけどな」
ネオは動いた。プレイヤーに向かってではなく——横へ。
「え?」
プレイヤーが戸惑う声を上げる。
ネオは地面を蹴り、木に飛び乗る。さらにそのまま枝へ。
「この辺り……確か」
記憶を辿る。ここは、開発初期に当たり判定が甘かったエリアだ。
「まだ残ってるか?」
ワイバーンがブレスを吐く。プレイヤーを焼き尽くす軌道。その瞬間、ネオは叫んだ。
「そこから一歩も動くな!!」
プレイヤーが硬直する。ブレスが直撃——したはずだった。
だが。
ダメージが、入らない。
「……は?」
プレイヤーが呆然とする。ネオは息を吐いた。
「やっぱりな。当たり判定、ズレてる」
ブレスは視覚上当たっている。しかし内部的には——わずかに外れている。
「昔のバグが残ってるとか、笑えないな」
ワイバーンが怒り、ネオにターゲットを変更する。
「さて、と」
ネオは木の上で構えた。
「ここからが問題だ」
攻撃力が足りない。HPも削れない。つまり——倒せない。
だが。GMだった頃の記憶が、ゆっくりとよみがえってくる。この世界の初期マップには、いくつかの「仕様漏れ」がある。開発途中で放置された座標のズレ、判定の同期ミス。そして——
「……当たる場所と、当たらない場所がある」
ネオの目が細くなった。
そのとき、ログが割り込んだ。
【System Notice】
再調整を行います
「来たな」
ワイバーンの身体が歪む。ポリゴンが崩れ、再構築される。そして——さらに巨大化した。
「は?」
プレイヤーが絶句する。
「強化入れるか、普通」
ネオは苦笑する。「ほんと性格悪いな」
続いて、ログが一行追加された。
「もっと足掻いて」
ネオの動きが、一瞬だけ止まる。
「……その言い方」
小さく呟く。どこか、引っかかる。
だが——
「ま、いいか」
すぐに思考を切り替えた。「いいね、そういうの。じゃあ見せてやるよ」
ネオはあえて動かない。ワイバーンが手を振る。ネオの位置が強制移動させられそうになる。だが——同じ座標に戻ってくる。パターン化されている。
「思ったより単純だな」
ネオは地面を転がった。ワイバーンの足が、ネオの身体を踏み抜く。しかし——すり抜けた。
「なっ——」
ネオは笑う。「地形だけじゃない。当たり判定、全部ズレてる」
開発初期の仕様。判定が一部同期していない。つまり——当たる場所と、当たらない場所がある。
ネオはワイバーンの懐に潜り込む。一点を狙う。
「ここだ」
前足を叩き込む。今度は——確実に当たった。
ワイバーンが悲鳴を上げる。HPがわずかに削れる。
「よし」
微量だ。だがゼロじゃない。
「削れるなら、勝てる。時間かかるけどな」
ネオは笑った。
戦いは続く。泥臭く、地味で、だが確実に。
その様子を見ながら。ログが一つ。
「……そう来るんだ」
ほんの少しだけ。楽しそうな気配が混じっていた。
第三話 開かないはずの扉
ワイバーンは、まだ倒れていない。
「……しぶといな」
ネオは息を吐いた。何度叩き込んでも、削れるのはわずか。致命打には程遠い。
「これ、普通にやったら一時間コースだな」
軽く笑う。しかし、その額にはじわりと汗が浮かんでいた。ミスすれば即死。それは変わらない。
「お、おい……!」
後ろから声がする。さっきのプレイヤーだ。
「逃げた方がいいんじゃ……!」
「逃げても追ってくるぞ、あれ。しかも今の状態だと、多分エリア外まで来る」
「え……?」
「完全にバグってる」
ワイバーンが再び突進してくる。ネオは横に転がって避ける。
「ったく。倒すしかない、か」
だが——そのときだった。
ふと、違和感が走る。
「……ん?」
ネオの視線が、森の奥へ向く。そこだけ、空気が違う。木々の隙間。何もない空間のはずなのに——わずかに歪んでいる。
「……あー」
ネオは目を細めた。「懐かしいな」
開発初期にテスト用で作られた隠しエリア。本来は外部からアクセスできない領域。まだ残っていたか。
ワイバーンが迫る。だがネオは、逆方向へ走り出した。
「おい!?どこ行くんだよ!」
「寄り道だ!」
ネオはそのまま、歪みの中へ飛び込んだ。
瞬間——視界が切り替わる。
「……ビンゴ」
そこは、小さな空間だった。
何もない白い部屋。そして中央に——一つの扉。古びた、鉄の扉。重く、閉ざされている。
「完全にデバッグ用だな」
ネオは近づく。背後で、ワイバーンの咆哮が響く。どうやらここにも入ってこれるらしい。
「侵入制限も壊れてるか。ほんと終わってるな」
ネオは扉に手をかける。開かない。
「……まあ、そうだよな」
この扉は——管理者専用。そして今のネオは、管理者ではない。
「さて」
ネオは少しだけ考えた。本来なら、コマンドで開ける。だがそれは使えない。
「じゃあ、別のやり方だ」
ワイバーンが空間に侵入してくる。距離が近い。もう猶予はない。
ネオは扉を見つめた。
「『開ける』ってのは、何だ?」
鍵があるから、開かない。なら——鍵を、開ければいい。
その瞬間。視界の奥で、何かが「引っかかった」。見えないはずの領域。ロックされたコマンド。
「……そこか」
ネオは手を伸ばす。空中へ。何もない場所へ。だが——確かに「ある」。
「開け」
小さく、呟いた。
カチリ、と。音がした気がした。
次の瞬間。
【Master Authority Fragment Detected】
【権限:一部解放】
ネオの目が見開かれる。
「……は」
扉が、ゆっくりと開いた。
「マジかよ」
その瞬間——ワイバーンが突っ込んでくる。ネオは振り返る。
「ちょうどいい」
開いた扉の向こうは——真っ暗な穴。
「落ちとけ」
ネオはギリギリで避ける。ワイバーンがそのまま突っ込み——落ちた。咆哮が遠ざかる。やがて、音が消えた。
静寂。
「……よし」
ネオは息を吐く。
そのとき。手の中に、何かが残っていることに気づく。小さな光。鍵の形をしていた。
【マスター魔法:《マスターキー》取得】
あらゆる「ロック」を開閉する
ネオはそれを見つめた。
「なるほどね」
口元がゆっくりと歪む。
「取り返せるってわけだ、マスター魔法を」
マスター魔法——それはマスター権限をゲーム内で行使するための、プレイヤーには使えない特殊な力だ。
そのとき——ログが、また一行。
「それ、いいね」
ネオは空を見上げる。
「……見てるな」
そして、笑った。
「じゃあ次は、もっと派手にいくか」
黒猫は、扉の奥へと足を踏み入れる。壊れた世界の、さらに深くへ。
第四話 鍵で殴るな
森を抜けた先に、崩れた石造りの遺跡が広がっていた。
「……こんな場所、あったか?」
ネオは足を止める。記憶にはない。いや、正確には——「完成してないエリアか」。
背後から足音。振り返ると、あのプレイヤーが追いついてきていた。
「さっきの猫……!」
「猫じゃない。元GMだ」
「信じられるか!」
「まあ無理だな」
ネオは軽く笑って、遺跡の奥を見た。空気が重い。明らかに何かいる。
「ここ、危ないぞ」
そう言った直後だった。地面が揺れる。崩れた柱の影から、ゆっくりとそれは現れた。
「……ゴーレムか」
巨大な石の巨人。だが普通じゃない。身体のあちこちに、鍵穴のような窪みがある。
「なんだよあれ……」
プレイヤーが後ずさる。ゴーレムが動く。一歩で地面が割れる。
「逃げ——」
ネオは言いかけて、止まった。
「……いや」
目を細める。
「これ、当たりだな」
「は?」
ゴーレムが腕を振り上げる。ネオは横に跳ぶ。衝撃で遺跡が崩れる。
「まともにやったら勝てないな」
ネオは冷静に分析した。攻撃力、防御力、どっちも桁違い。
「でも——」
空間から、光を取り出す。小さな鍵。
「まともにやる必要はない」
ゴーレムが再び襲いかかる。ネオは前に出た。
「おい正気か!?」
後ろで叫び声。ネオは笑う。
「いいとこ見せるから、見てろ」
振り下ろされる拳。避けない。その代わり——ネオは鍵を突き出した。
「開け」
鍵が、ゴーレムの腕に触れる。
カチリ。
一瞬。ゴーレムの動きが止まった。
「……は?」
次の瞬間。腕が——外れた。
「おお」
ネオが素直に感心する。「そういう『ロック』か」
ゴーレムがバランスを崩す。
「つまり」
ネオは駆ける。背中に飛び乗る。
「お前、パーツごとにロックされてるな?」
次の鍵穴へ。
「開け」
カチリ。今度は脚が崩れる。ゴーレムが膝をつく。
「ちょ、ちょっと待て何してんだお前!?」
「解体作業」
ネオは即答した。さらにもう一つ。胸部の中央。一番大きな鍵穴。
「ここが本体だろ」
ゴーレムが暴れる。振り落とそうとする。
「危な——!」
ネオは振り落とされる直前、鍵を突き立てた。
「開け」
カチリ。
一瞬の静寂。
そして——ゴーレムの身体が、内側から崩壊した。バラバラに崩れ、ただの石に戻る。
「……終わりっと」
ネオは着地する。
プレイヤーが口を開けたまま固まっている。
「……なんだそれ」
「鍵だよ」
「いや見れば分かるわ!」
「じゃあ説明するか」
ネオは少し考える。「『閉じてるものを開ける』。それだけだ」
「いやそれだけでああなる!?」
ネオは笑う。「『閉じてる』ってのは、色々あるからな」
そのとき。視界にログが浮かぶ。
「使い方、上手いね」
ネオの目がわずかに細くなる。「……見てたか」
「そういうの、好きだよ」
一瞬。ほんの一瞬だけ。懐かしい感覚が、胸をよぎる。
だがネオはすぐに笑った。「だろ?まだまだこんなもんじゃないぞ」
ログは消える。遺跡に風が吹き抜ける。
「次は何を開けるかね」
黒猫は歩き出す。鍵を手に。壊れた世界を、こじ開けながら。
第五話 そこにいるはずのない場所
遺跡の奥。空気が変わる。
「……静かすぎるな」
ネオは足を止めた。さっきのゴーレム戦以降、妙に敵が出ない。こういうときが一番ろくでもない。
背後のプレイヤーが小声で言う。「帰らないか……?」
「もう遅い」
ネオは即答した。
その瞬間——景色が、切り替わった。
「……は?」
遺跡が消えた。代わりに広がるのは——何もない空間。白でも黒でもない、「空白」。
「なんだここ……」
ネオは周囲を見回す。そしてすぐに気づいた。「……座標、ズレてるな」
本来存在しない領域。マップ外。完全にデバッグ空間だ。
そのとき。足元に、魔法陣が浮かび上がる。
「来たか」
空間が歪む。そこから現れたのは——人型の影。だが顔がない。輪郭だけが揺れている。
「……NPCじゃないな」
それはゆっくりと手を上げる。次の瞬間——ネオの視界が跳ねた。
「——っ!?」
気づいたときには、数メートル後ろに立っていた。
「……は?」
自分の意思じゃない。
「強制移動……?」
影がまた手を振る。今度は——真上にいた。
「おい待て」
重力が追いつく。ネオは落下する。
「そういうタイプかよ!」
地面に叩きつけられる。HPが削れる。
「くそ、厄介だな」
敵は動いていない。だが「位置」だけが操作される。
「座標いじってきてるな」
ネオは立ち上がる。「……面白いじゃん」
影がまた動く。その瞬間——ネオは気づいた。
「いや待て。座標……固定されてる?」
一定のポイントにしか飛ばされていない。
「だったら——」
ネオは笑った。「使えるな」
あえて動かない。影が手を振る。ネオの位置が変わる。だが——同じ場所だ。パターン化されている。
ネオは周囲を見る。そして見つける。空間の一部。わずかに「歪んでいる座標」。
「そこか」
ネオは走る。影が反応する。座標移動。だが——ネオは、その「歪み」の中に飛び込んだ。
瞬間——世界が止まる。
「……これ」
目の前に、何かが浮かんでいる。光の断片。
【Master Authority Fragment】
「ビンゴ」
ネオは手を伸ばす。触れた瞬間——空間が弾けた。
【権限:座標操作 一部解放】
「来たな」
その瞬間——ネオの身体が、消えた。影の攻撃。だが——空振り。
「こっちだ」
ネオは背後に立っていた。「なるほど。こういう感じか」
影が振り向く。だが遅い。ネオは一歩踏み込む。そして——「そこ、ずらすぞ」。
影の「位置」を掴むイメージ。一瞬。影の身体がブレる。そして——空間の裂け目へ、叩き込まれた。消滅。
静寂。ネオは息を吐く。
「……強いな、これ」
視界に表示される。
【マスター魔法:《シフト》取得】
座標を移動する
ネオは笑う。「ようやく戦える感じになってきたな」
そのとき——ログが現れる。
「それは、危ないね」
ネオの目が細くなる。「だろ?」
「でも、好きだよ」
またその言い方だ。どこかで聞いたことがある気がする。
一瞬だけ、思考が止まる。
だがネオはすぐに笑った。「じゃあ、もっと見せてやるよ」
黒猫の姿が、ふっと消える。次の瞬間には、数メートル先にいる。
「こういうのはな——」
また消える。
「使いこなしてこそだ」
空間を跳びながら、ネオは進む。壊れた世界の、さらに奥へ。
第六話 信じない女と、嘘みたいな猫
遺跡を抜けた先、開けた草原に出た。
「……やっと普通のエリアか」
ネオは小さく呟く。だが油断はしない。この世界はもう「普通」じゃない。
そのとき——金属音が響いた。
「くっ……!」
視線を向ける。そこにいたのは一人のプレイヤー。白いローブ。杖を構えている。
「ヒーラーか」
だが状況は悪い。三体のモンスターに囲まれている。
「……まあ」
ネオは肩をすくめる。「見捨てる理由もないか」
地面を蹴る。黒い巨体が一気に距離を詰める。
「伏せろ!」
白ローブの少女——リリィが反応した。とっさにしゃがむ。その頭上を、ネオが飛び越える。
「なっ——!?」
モンスターに突っ込む。「シフト」——ネオの姿が消える。次の瞬間、背後へ。
「遅い」
一体を叩き飛ばす。残り二体が反応する。だが——「開け」。カチリ。一体の動きが止まる。関節ロックが外れ、崩れる。
最後の一体が襲いかかる。ネオはそれを見て——動かない。
「危な——」
直撃、のはずだった。だが攻撃は、すり抜けた。
「……え?」
ネオはそのまま前に出る。「じゃ、終わり」——一撃。モンスターが消える。
静寂。リリィはゆっくり立ち上がる。そしてネオを見た。
「……何それ」
第一声がそれだった。
ネオは笑う。「猫だな」
「違うでしょ」
「じゃあ何に見える?」
「バグ」
ネオは一瞬だけ止まって——笑った。「正解」
リリィは眉をひそめる。「信用できない」
即答だった。
「まあそうだろうな」
ネオはあっさり頷く。「でもさ。さっき助けたの、俺だぞ?」
「それとこれとは別」
「厳しいな」
リリィは杖を構え直す。「あなた、普通じゃない」
「褒め言葉だな」
「違う。危険って意味」
ネオは少しだけ笑みを消す。「……まあ、間違ってない」
一瞬の沈黙。風が吹く。
そのとき。ログが浮かぶ。
「その子、どうするの?」
ネオの目が細くなる。「……見てるな」
「何?」
リリィが反応する。
「いや、独り言」
ネオは軽くごまかす。そして言った。「一緒に来るか?」
リリィは即答する。「行かない」
「だよな」
「でも」
少しだけ間を置く。「情報は欲しい」
ネオは笑った。「交渉成立だな」
「まだしてない」
「じゃあこれからするか」
二人は向かい合う。壊れた世界の中で。
「条件は?」
「裏切らないこと」
ネオは少しだけ考えてから言った。「それは無理だな」
「は?」
「俺、嘘つくから」
リリィの目が鋭くなる。だがネオは続ける。「でも、助けはする」
「……何それ」
「分かりやすいだろ?」
沈黙。やがてリリィはため息をついた。「……最低」
「よく言われる」
そして——「……暫定で組む」。
ネオは笑った。「よろしくな」
「よろしくしない」
二人は並んで歩き出す。信頼はない。だが利害は一致している。
その様子を見ながら。ログが一行。
「……ふーん」
ほんの少しだけ。面白くなさそうな気配が混じっていた。
第七話 サーバールームにて(再)
「期待してるよ」
沈黙。
「……なんだそれは」
「分からない」
だが、明らかにおかしい。システムログにしては、人間的すぎる。
「誰かが『操作している』」
「内部からか?」
「外部からは不可能だ」
「じゃあ中か」
「……あるいは」
言葉が途切れる。
「なんだ」
「『中と外の区別がない存在』」
空気が凍る。
そのとき。別のモニターが点灯する。新しい映像——ネオ。そしてリリィ。
「この黒い個体……」
「ログにないプレイヤーだ」
「NPCでもない」
「識別不能」
ズームされる。ネオが戦っている。空間を移動し、敵を崩壊させる。
「……なんだあれは」
誰かが呟く。「バグ、か?」
「違う」
即座に否定される。「バグにしては——出来すぎている」
沈黙。そのとき。また、ログが流れる。
「順調だね」
誰も、何も言えない。その言葉は——明らかに「誰か」のものだった。だが誰のものかは、分からない。
そして。その部屋の中にも。「怪しい人間」は、一人ではなかった。
第八話 最初に助けた男
森を歩きながら、リリィがぶっきらぼうに聞く。「で、どこ行くの」
「決めてない」
「は?」
ネオはあっさり答える。「行ける場所が増えたからな。適当に面白そうな方へ」
「最悪」
「褒め言葉だな」
そのときだった。
「——あ」
前方から声。ネオが足を止める。見覚えがあった。
「……あの時の」
そこにいたのは、最初に助けたプレイヤーだ。
「助かった……また会えた……!」
明らかに安堵している。だが——ネオは少しだけ目を細めた。
「……随分元気だな」
「え?」
「いや」
ネオは軽く笑う。「普通、あの状況ならもうちょいビビるだろ」
男は一瞬だけ言葉に詰まる。「そ、そうかもな……」
リリィが小声で言う。「知り合い?」
「一回助けただけ」
「信用できる?」
「全然」
「聞こえてるんだけど!?」
男が抗議する。「まあいいじゃん。それで?なんでこんなとこにいるんだ?」
「いや、それが……気づいたら、ここにいた」
沈黙。リリィの目が細くなる。
「……それ、どういう意味」
「分からないんだ。さっきまで別の場所にいたはずなのに」
ネオの視線が鋭くなる。「座標移動か」——小さく呟く。だが違和感は消えない。
(こいつ……)——ネオは観察する。挙動は普通。発言も自然。だが——(タイミングが良すぎる)。
そのとき。ログが浮かぶ。
「その人、どう思う?」
ネオは無言で空を見る。「……さあな」
リリィが怪訝そうに見る。「またそれ?」
「癖みたいなもんだ」
男が口を開く。「なあ……ここ、なんかおかしくないか?さっきから、『同じ景色』を通ってる気がする」
その言葉で、空気が変わる。
「……は?」
リリィが振り返る。ネオは立ち止まる。そして周囲を見回す。
「……なるほど」
同じ木。同じ岩。同じ影。「ループしてるな」
「は!?」
「結界みたいなもんだ。外に出られないように『閉じられてる』」
リリィが舌打ちする。男が不安そうに言う。「どうするんだよ……」
ネオは、にやりと笑った。「簡単だ。閉じてるなら——開ければいい」
鍵を取り出す。空間に向かって突き出す。
「開け」
カチリ。音が鳴る。
次の瞬間——景色が「割れた」。ガラスのように。空間の外が見える。
「行くぞ」
三人は割れた空間を抜ける。世界が切り替わる。
「……出たのか?」
男が呟く。ネオは振り返る。そして、少しだけ目を細めた。
「……なあ」
「なんだ?」
「お前さ。本当に『迷い込んだ』だけか?」
空気が止まる。リリィも警戒する。男は一瞬——本当に一瞬だけ。表情を消した。
「……何言ってるんだよ」
すぐに笑う。「俺はただのプレイヤーだって」
ネオはしばらく見つめてから——笑った。「だよな」
「なんだよそれ……」
そのとき。ログが一行。
「いいね、その疑い方」
ネオの目が細くなる。「……趣味悪いな」
男が聞く。「何が?」
「独り言」
ネオは軽くごまかす。そして前を向いた。「ま、いいや。とりあえず進もうぜ」
三人は歩き出す。だが——ネオは気づいていた。あの一瞬。「人間じゃない間」があったことに。
第九話 ヒーラーは、最後に残る
夜。森の中。小さな焚き火。
「交代で見張りな」
リリィが言う。
「必要か?」
「必要」
「はいはい」
ネオはその場に丸くなる。巨大な黒猫が丸まると、妙な圧がある。男は少し離れた場所で座っている。どこか落ち着かない様子だ。
しばらく沈黙。火の音だけが響く。
そのとき。
「……昔さ」
リリィがぽつりと呟いた。ネオは目を開ける。
「パーティ組んでたの」
「ほう」
「前衛二人と、魔法職一人。私はヒーラー」
淡々とした口調。感情は薄い。「よくある構成でしょ」
「まあな」
「強かったよ、あいつら」
一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、声が柔らかくなる。「バカみたいに突っ込んで、でもちゃんと戻ってくる」
小さく笑う。「で、私は後ろから回復して——」
言葉が止まる。
「……ある日」
火が揺れる。「ボスに挑んだの。普通なら勝てる相手だった」
「普通なら?」
「うん」
リリィは火を見つめたまま続ける。「でも、その日——スキルが、発動しなかった」
沈黙。
「回復も、防御も、全部」
「……バグか」
「そう。一瞬だけだったと思う。でも、それで十分だった」
火がはぜる。
「前衛が一人、倒れた。もう一人が無理に突っ込んで——死んだ。魔法職も、巻き込まれて終わり」
「私は——」
少しだけ、間が空く。「最後に残った」
風が吹く。
「ヒーラーってさ」
リリィが小さく笑う。「最後まで生き残るの。見てるだけ」
その言葉は、妙に重かった。「助けられるはずだったのに。全部、見てた」
ネオはゆっくりと起き上がる。だが何も言わない。ただ聞いている。
リリィは続ける。「そのあと、ログが出た」
ネオの目が細くなる。「ログ?」
「うん。普通じゃないやつ」
「それ、つまらないよ」
空気が凍る。ネオの視線が鋭くなる。
「……それ」
「聞いたことあるでしょ。あなたも」
ネオは少しだけ黙る。「……ああ。あるな」
沈黙。「それで分かった。この世界、壊れてるだけじゃない。誰かがやってる」
火が揺れる。「だから」——ゆっくりと振り返る。
「信じないことにした。誰も」
その目は真っ直ぐだった。ネオはその視線を受け止める。
「……そっか」
それだけ言った。
リリィは少しだけ眉をひそめる。「それだけ?」
「じゃあ何て言えばいいんだ?」
「否定するとか」
「無理だな。俺も、同じの見てる。で、今も聞こえてる」
そのとき。ログが浮かぶ。
「よく覚えてるね」
ネオは笑った。「な?」
リリィは目を細める。「……最悪」
だが——ほんの少しだけ。警戒が、揺らいだ。
「でも」
ネオが言う。「助けられなかったのは、お前のせいじゃない」
リリィの目がわずかに動く。
「バグだろ、それ」
「……」
「なら責任は作った側だ」
ネオは軽く笑う。「つまり俺だな。元GMだし」
リリィが呆れる。「何それ」
「だからまあ」
ネオは再び丸くなる。「まとめて取り返すよ」
「……何を」
「全部」
軽い口調。だが——どこか本気だった。
リリィはしばらく黙って——小さく息を吐いた。「……バカ」
でも少しだけ。その言葉は、柔らかかった。
遠くで。ログが一つ。
「……優しいね」
誰にも聞こえない声。だが——ほんのわずかに。寂しさが混じっていた。
第十話 ログの向こう側
異変は、突然だった。
空が割れた。
「……は?」
リリィが顔を上げる。青空に、亀裂。ガラスのようにヒビが入り、そこから黒いノイズが漏れ出している。
「なんだよこれ……」
男が呟く。その瞬間。視界にログが走る。
【強制イベント発生】
全プレイヤーを対象としたバランス調整を開始します
「最悪だな」
ネオが笑う。「『全員参加型』かよ」
地面が震える。遠くで、悲鳴。
「来るぞ」
リリィが杖を構える。次の瞬間。空の裂け目から、「それ」が落ちてきた。
巨大な影。地面に着地した瞬間、衝撃波が走る。
「……でかすぎるでしょ」
それは人型だった。だが、輪郭が不安定。存在が「固定されていない」。
「また座標系か……いや違うな」
ネオの目が細くなる。「これ、もっと根本だ」
【Unknown Entity】
状態:ロック中
「……は?」
リリィが眉をひそめる。次の瞬間。誰かの攻撃が当たる。だが——すり抜けた。
「効いてない!?」
「違う」
ネオが即答する。「『当たってないことにされてる』」
沈黙。「無敵ってこと?」
「正確には——『閉じてる』」
巨大な影が動く。腕が振り下ろされる。ネオは動かない。
「シフト」
一瞬で横へ。「全員、距離取れ!」
周囲のプレイヤーが散開する。リリィが叫ぶ。「どうするの!?」
ネオは鍵を取り出す。「決まってる。開ける」
ネオは走る。影の足元へ。だが——弾かれる。
「っ!」
見えない壁。「……ロック、重いな」
男が叫ぶ。「おい無理だろあれ!」
「いや。『どこが閉じてるか』の問題だ」
目を凝らす。世界を見る。(どこだ……)
そして気づく。「……あそこか」
影の中心。わずかにズレた座標。
「リリィ!」
「なに!?」
「5秒持たせろ!」
「無茶言うな!」
「できるだろ」
リリィは舌打ちして——前に出た。「ヒーラーに言うセリフじゃない!」
防御バフ展開。回復詠唱。影の攻撃をギリギリで受け止める。
「早くしなさいよ!!」
ネオは走る。「シフト」——一歩で距離を詰める。さらに。「シフト」——影の肩へ。
「あと少し——」
そのとき。男が動いた。「こっちだ!」——影の注意を引く。
「おい!?」
「いいから行け!!」
ネオは一瞬だけ目を細めて——笑った。「借りたぞ」
そして。最後の一歩。
「そこだ」
鍵を突き立てる。「開け」
カチリ。
世界が、止まる。ログが溢れる。
【ロック解除】
【状態更新】
【無敵状態:解除】
「今だ!!」
リリィが叫ぶ。ネオは即座に動く。「シフト」——背後へ。
「終わりだ」
核心へ一撃。影が崩れる。光が弾ける。そして——消滅。
静寂。誰も動かない。やがて——
「……勝った?」
誰かが呟く。ネオは空を見上げる。そして笑った。「まあな」
そのとき。ログが現れる。
「それ、面白いね」
ネオの目が細くなる。「……だろ?」——初めての「会話」。
「予想より、ずっといい」
「そりゃどうも」
「でも——まだ足りない」
ネオは笑う。「厳しいな」
「だって、つまらないのは嫌でしょ?」
その言葉に。ほんのわずかに、ネオの表情が揺れる。
だがすぐに笑った。「まあな」
沈黙。
「もう少しで——」
ログが揺れる。
「証明できる」
「何をだよ」
返事はない。ログは消える。
風が吹く。リリィが近づいてくる。「……今の、何」
「さあな」
「とぼけないで」
ネオは少しだけ考えて——言った。「ゲームマスターだよ。この世界を、壊したやつ」
リリィの目が鋭くなる。「……あんた、知ってるの?」
ネオは空を見る。「いや」——そして笑った。「でも、なんとなく分かる」
少し離れた場所で。男がその様子を見ていた。無表情で。ほんの一瞬——その目に、微かな「理解」が宿る。だがすぐに消える。
夜が来る。世界は、ひとまず静かになった。だが——ログアウトは、できないまま。
そして、どこかで——
「……楽しくなってきた」
誰かが、呟いた。
エピローグ 第一巻・了
モニターの前。
「大規模イベント、収束」
「だがログアウト不能は継続」
「原因は依然不明」
沈黙。
画面には、黒猫——ネオの姿。
「この個体……」
「何者だ」
誰も答えない。ただ一つ。ログだけが残る。
「もう少し」
*
壊れた世界で、黒猫は眠っている。
取り返した鍵は、まだほんの一欠片に過ぎない。マスター魔法は散らばり、世界のルールは書き換えられたまま。ログアウト不能の夜が続く。
だが——巨大な黒猫の口元は、わずかに笑っていた。
「全部、取り戻すよ」
「寝込んでなんていられない」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
それでも。
壊れた世界のどこかで——誰かが、それを聞いていた。
―― 第一巻・完 ――




