5:泥沼の果てと、真実の愛
断罪の夜会から数ヶ月が経ちました。
季節は巡り、王都には厳しい冬を越えた芽吹きの香りが漂っています。
あの日を境に、私の世界は一変しました。
カイル様……いえ、もはや王族の籍を剥奪された「カイル・ベルトラン」と、スパイとしての本性を現したミナの末路は、社交界の語り草となっています。
「……それで、あのお二人は今、どうされているの?」
私は、執務の合間に温かい紅茶を運んできてくれたアニカに尋ねました。
アニカは少しだけ困ったような、それでいてどこか清々しい顔をして答えました。
「カイル様は、王国の最北端にある魔石採掘場に送られました。かつてエルゼ様の実家が管理していた場所ですが、今は重罪人たちの強制労働施設となっています。彼は毎日、泥にまみれて硬い岩盤を穿っているそうですよ。……あんなに嫌っていた『数字』と『石』だけが友だちの生活ですね」
カイルは、公爵家から請求された天文学的な額の負債を返済するため、死ぬまでその場所で働かされることになります。彼がかつて浪費した金貨一枚が、今の彼にとっては一生かけても稼げないほどの重みを持っていることに、ようやく気づいたことでしょう。
「ミナ様の方は?」
「彼女は国家反逆罪として終身刑となりました。ただ……隣国のスパイ組織からも、情報を漏らした無能として切り捨てられたようです。監獄の中では、カイル様から贈られたあのブレスレット……今はただの鉄くずとなったそれを、狂ったように磨きながら、毎日カイル様の呪詛を吐いているとか」
愛を誓ったはずの二人は、今や互いを「人生を破滅させた元凶」として憎み合っている。
私を裏切り、甘い蜜を吸おうとした報いは、あまりにも重く、そして皮肉な形となって彼らに刻まれました。
「……エルゼ。また仕事の話か?」
不意に、部屋の扉が開きました。
現れたのは、第一王子——いえ、現在は「王太子」の地位に就かれたヴィクトール様です。
彼は私の肩に優しく手を置き、手元の書類を覗き込みました。
「ヴィクトール様。次期の魔石流通ルートの見直しをしていたのです。公爵家を継ぐ身として、疎かにはできませんわ」
「君の勤勉さには頭が下がるが、今日はもう休む時間だ。……約束していただろう? 私の戴冠式の後に、二人でゆっくりと庭園を散歩すると」
ヴィクトール様は、カイルとは正反対の男でした。
彼は私の知識を「冷徹」とは呼ばず、「知性」と呼びました。
私の献身を「当然」とは言わず、「献身に値する愛を返したい」と言ってくれました。
私がカイルに尽くしていたあの時間は、確かに無駄だったのかもしれません。
けれど、その無駄な時間の中で培った知識と冷徹な判断力が、今、この国を支え、そしてヴィクトール様の隣に立つための力になっています。
「エルゼ。私は君を、二度と誰かの『貢ぎ物』にはさせない。君の知性がこの国を照らし、君の笑顔が私を支える。……これからも、私の隣にいてくれるか?」
ヴィクトール様が膝をつき、私の手を取ります。
あの日、カイルが愛を囁いたときには感じなかった、胸の奥が熱くなるような、確かな鼓動を感じました。
「ええ。……ただし、ヴィクトール様。私はとても欲張りですわよ? 私を繋ぎ止めておきたいのなら、この国を最高の形に導いていただかなくては」
「ああ、望むところだ。君という厳しい教師がいれば、私は名君にならざるを得ないな」
二人の笑い声が、春の柔らかな風に乗って窓の外へと流れていきました。
かつて、私は誰かの影でした。
誰かを輝かせるために、自分の色を消し、泥を被り、ただ耐えてきました。
けれど、今は違います。
私は私のために笑い、私のために怒り、そして愛する人のためにその力を使います。
窓の外では、アドラー公爵家の「鷹」と、王家の「獅子」の旗が並んで風にたなびいています。
その光景は、新しい時代の始まりを告げているようでした。
「さあ、行きましょうか。ヴィクトール様」
私は彼の腕にそっと手を添え、光に満ちた庭園へと踏み出しました。
過去の鎖はもうありません。
私の手の中にあるのは、私自身が選び、勝ち取った、輝かしい未来だけなのですから。
(完)




