1:献身という名の呪縛
「エルゼ、またこれだけか? 先月の予算では足りないと言ったはずだぞ」
王宮の一角、豪華な装飾が施された第二王子の執務室。そこに、苛立たしげな声が響いた。
声の主はカイル・ベルトラン。この国の第二王子であり、私の婚約者だ。彼は手元の分厚い帳簿を忌々しげに叩き、私を睨みつけている。
「カイル様、先月は新しい猟犬の購入に、特注の魔導馬車……それに、夜会で配るためのヴィンテージワインを数百本も発注されましたわね。アドラー公爵家といえど、無限に金貨が湧き出るわけではございませんのよ」
私は努めて穏やかに、優雅な微笑みを崩さずに答えた。
私の名はエルゼ・アドラー。
国内最大の魔石鉱山を所有し、王国の国家予算の三割を支えると言われるアドラー公爵家の長女だ。
「チッ、これだから商売人の娘は。これしきの金、王家の威厳を保つための必要経費だろう? お前は僕の妻になるのだから、僕の顔を立てるのが仕事だろうが」
カイルは忌々しげに舌打ちをし、椅子の背もたれに深く体を預けた。
彼の言う「王家の威厳」とは、酒と博打、そして取り巻きたちへの見栄を張るための資金のことだ。本来、第二王子に割り振られる王宮予算などたかが知れている。それを補っているのは、すべて私の実家からの「援助」……いいえ、実質的な「上納金」だった。
「……承知いたしました。今月の追加予算については、父に相談してみますわ」
「当然だ。さっさと行け、今日はこれからミナと……いや、公務の打ち合わせがあるんだ」
カイルは面倒そうに手を振った。
彼が口にしかけた「ミナ」という名。最近、彼の周囲で頻繁に聞くようになった男爵令嬢の名だ。
私は深く頭を下げ、部屋を辞した。
重厚な扉が閉まった瞬間、私はふう、と小さく溜息をついた。
廊下を歩く私の背筋は、公爵令嬢として完璧に伸びている。だが、その内側では冷めた感情が澱のように溜まっていた。
「お疲れ様でした、エルゼ様」
声をかけてきたのは、廊下の影で待機していた私の侍女、アニカだった。
彼女の顔には隠しきれない憤りが浮かんでいる。
「……あの方、また予算の話を? 先週もお渡ししたばかりではありませんか。それに、あの『ミナ』とかいう女……最近はカイル様の執務室に入り浸っているという噂ですわ」
「アニカ、言葉に気をつけなさい。ここは王宮よ」
「ですが! エルゼ様がどれほど寝る間を惜しんで公爵領の経営を助け、王子の不祥事の火消しに走り回っているか、あの方は何もご存知ないのです!」
アニカの言う通りだった。
カイルは知らない。彼が夜会で「自分が手配した」と自慢げに語る稀少な宝石が、私が隣国の商人と三日三晩交渉して手に入れたものだということを。
彼が酔って騎士団の若手を殴り飛ばした際、その示談金と口止め料を私がどこから捻出したのかを。
私は、彼が「立派な王子」に見えるよう、泥をすべて被り、裏で糸を引いて舞台を整えてきた。
それは、幼い頃に結ばれた婚約への責任感であり、彼への微かな情愛ゆえだった。
しかし、その情愛も、もう限界が近い。
「エルゼ様、あちらを……」
アニカが小声で指し示した先。
中庭の東屋に、二人の人影があった。
金髪をなびかせたカイル王子と、その胸に顔を埋める小柄な少女。
栗色のふわふわとした髪を揺らし、守ってあげたくなるような儚げな雰囲気を纏った少女——ミナ・クラーク男爵令嬢だ。
「……カイル様、やはりエルゼ様がお可哀想ですわ。私のような身分の低い女が、こうしてあなたのお側にいるなんて……」
「何を言うんだ、ミナ。エルゼは冷徹な女だ。あいつには感情なんてない。あるのは数字と家柄のことだけだ。君のような、温かくて守りたくなる女性こそが、僕の真実のパートナーなんだ」
カイルの声は、私に向ける鋭いものとは打って変わって、甘く、とろけるような響きを帯びていた。
彼はミナの頬を撫で、慈しむように抱き寄せている。
「でも、エルゼ様は公爵家のお嬢様。私なんて、彼女に睨まれたら消えてしまいそうで……。昨日も、廊下ですれ違った時に『身の程をわきまえなさい』と、怖い顔で言われてしまったのです」
……あら?
昨日のその時間、私は領地の決算報告書を確認するために、一歩も自室から出ていなかったはずですけれど。
「なんだと? あの女、裏でそんな嫌がらせを……! 許せん。ミナ、安心していい。あんな政略結婚、僕が近いうちに壊してやる。君を必ず、僕の隣に立たせてみせる」
カイルの宣言に、ミナは「嬉しい……」と呟き、彼の胸に顔を埋めた。
その瞬間、彼の肩越しに、ミナの視線がこちらを向いた。
彼女は、私が柱の陰で見ていることに気づいていた。
そして、勝ち誇ったような、歪な笑みを浮かべた。
それは、先ほどまでの「儚げな少女」とは似ても似似つかぬ、蛇のような執念深さを感じさせる表情だった。
「……行きましょう、アニカ」
「エルゼ様、よろしいのですか!? あんな出鱈目を言われて……!」
「ええ。今は、言わせておけばいいわ」
私は踵を返し、静かにその場を離れた。
私の心の中にあった、最後の一欠片の迷いが消えた。
カイル様。あなたは、私が支えることで辛うじて「王子」として立っていられた。
私がその手を離せば、あなたがどれほど高くから転落することになるか……。
どうやら、その想像力すら今のあなたには欠如しているようですわね。
「アニカ。帰ったら、私設の調査員を呼びなさい」
「調査員、ですか?」
「ええ。ミナ様の『身の潔白』と、カイル様がこれまで使い込んだ裏帳簿の写し……すべてを完璧に揃えるの。……それから、第一王子ヴィクトール様へのお手紙の準備も」
私は歩きながら、頭の中で巨大な「清算書」を書き始めた。
貸したものは、すべて返していただく。
金貨一枚、名誉の一つに至るまで、利子を付けて、徹底的に。
カイル様、あなたが望む「自由」と「真実の愛」。
どうぞ、その重みに押し潰される準備をなさってください。




