壊れた礼拝堂
●
AS-665とツェツィーリアは、〈小大陸〉南端からの移動を始める。
いつ追手がかかるとも知れない以上、一つ所に留まるのはリスクでしかない。
それでも、帝国軍も王国軍もおいそれとは近づけぬ立地──亜人連合国家の所領であることは、功を奏した。
亜人連合は、いまでこそ帝国憎しの一念で王国に支援を惜しまないが、それでも、国家としての体裁としては、両国の関係は必ずしも良いものではなかった。人間が亜人を差別する風潮にあったのは勿論のこと、亜人側も人間への差別意識については同等の価値観を持つ。『耳なし』だの『毛なし』だのという別称ないし蔑称を亜人は用いる──亜人の多くは獣人種であり、彼らには動物野的な大きな耳と、外気温から体温を守る分厚い毛皮に覆われ、獣眼や爪牙の保有者である。ちなみに、エルフェの細長い耳や森の英知については一目置いており、そちらの二国の関係は良好といってよいだろう。
「がんばって、あの峠を越えたら街につく──そこで休める場所を探しましょ?」
亜人連たちの生活圏は地図にしか記されていない。大尉はそれを握りしめ、山間や谷間を縫うようにして、AS-665を伴って逃亡を続ける。
AS-665は、もはやツェツィーリアに対する全幅の信頼を寄せるまでになっていたが、それだけに、自分というお荷物の存在が気に入らない。
普段であれば仮眠する程度で疲れなど吹きとぶ人間爆弾であるが、正規のメンテナンスを受けていない以上は、どうしても疲労は蓄積し、体力は損耗していくばかり。おまけに、なけなしの食事まで嘔吐感に堪え切れず吐き出してしまい台無しにしてしまったことは、本当に申し訳なく思った。
|元『・』大尉は、明朗闊達な声でAS-665の背中をさすってくれた。
「大丈夫。無理はしなくていいから」
食料と水は残り僅か。それまでには補給の目途を立てておきたい。
不毛の岩山地帯を超え、街にたどりついたころには、AS-665は足を引きずるしかなくなっていた。
「大尉。ここは、コイレ語──亜人言語が話せないと」
「そこは大丈夫。私、亜人言語の教科も一等だったから」
大尉は木陰にS-655を寝かせ休ませると、「街に薬がないか確認してくる」といって、耳付きのフード──亜人たちの街中では目立たなくなる服装に着かえ、行ってしまった。
「…………」
AS-665は、自分が終わりに近づいていることを肉体の深部から感じ取っていた。おそらく、薬があってもなかろうとも、自分に残された時間は……もって一週間かそこらだと思われる。
一時間後。
大尉が無事に戻ってきた時には、食料と水、そして微量ながら薬品も手に入ったそうだ。おまけに、
「街はずれに、誰も使ってない古い礼拝堂があるみたい。そこで休憩しましょう」
今のところは順調と言える脱走生活であったが、死相の浮き出たAS-665は、なんとか笑ってみせることができた。
●
朽ちた礼拝堂は長年堆積した埃の舞う空間ではあったが、太陽光と雨風をしのぐのには十分だった。
一部の天井は崩落し、祭壇も寄進台も、信徒席も無残な有様だったが、携帯していた毛布を使えば寝床にすることは可能だった。
「よし」
金髪の大尉は簡易ベッドの様子を確かめ、ひとつ頷いた。
AS-665は謝罪を繰り返しつつ横になる。呼吸を整える。
「ありがとう、ございます、大尉」
「いいのよ、これぐらい──」
何かを言いかけて、ツェツィーリアは薬品の残量を確認しに行った。空母でかっぱらったものと、街で手に入れた粗悪品とでは天地ほどの効能差があったが、ないよりはマシだろう。
AS-665に強壮剤を打って、ツェツィーリアは自分の空腹を満たすことにした。
「ツェツィーリア、大尉」
「んー、なんです?」
地図を広げ、、とりあえず第一安全圏にまでたどり着けたことを喜ぶ大尉。
「まだ、聞いてませんでしたよね……どうして、自分を」
AS-665だけを救って、艦から逃げたのか。
「君には個人的に借りがある──そう思ってくれればいいから」
はぁ、曖昧に相槌を打つ少年は瞼を落とした。極度の疲労と、整備不良が重なった結果だ。
すぅ、という寝息を立ててくれる人間爆弾の少年。大尉は彼の暗灰色の髪に指を添わせる。
「絶対、君をこのまま死なせたりなんてしないから」
そう誰にでもなく誓うツェツィーリア。
日が落ちる中、彼女の苦難に満ちた決意を、礼拝堂奥の壊れた石の祭壇のみが聞いていた。