プロローグはトラック事故ではなく痴漢冤罪?
残業を終えて会社を出たのは、21時を回った頃だった。
最寄りの私鉄駅に着くとちょうど帰宅ラッシュのピークを過ぎた時間帯で、ホームに溢れる人の数は控えめだった。これなら満員電車に揉まれることもないだろう。そう思って、やって来た各駅停車の一番後ろの車両に乗り込むと、案の定車内は七割ほどの埋まり具合で、座席こそすべて埋まっていたものの、つり革にぶら下がる人の間には余裕があった。
満員電車を避けられるのであれば、約3時間の残業も良いものだ。なんなら毎日でもいいと思う。社畜が出来上がってしまったな?
周りを見渡し、男性しかいない空間を捜索。俺と同じように死んだ目で片手で吊り革、片手で携帯をいじっている、俺以上に何がとは言わないが薄くなったおじさんの隣へ移動。目の前の座席も明確な場所は示さないがM字部分が気になる男性のみというベストポジションの発見に安堵のため息が漏れる。もちろん、背面もどこのとは言わないが天辺が心配な男性。完璧すぎる。ハゲしか勝たん。あ、言っちゃった。
リュックサックを胸の前に抱え直し、周囲に目を配る。入ってきたドアの両サイドは、どちらも若い女性で、仏頂面でスマートフォンを覗き込んでいた。絶対近づきたくないし、帰りは違うドアから出ようと心の中で宣誓する。奥の席では初老の男性が目を閉じている。その向かいには、スーツ姿の中年女性。俺と同年代だろうか。化粧っ気のない顔で、疲れたように窓の外を見ていた。まずい。こんなこと考えてたのがバレたらセクハラで訴えられて社会的に殺されてしまう。
冷や汗をかきながら慌てて目を逸らす。よくよく考えればバレるはずもなく、俺はほっと息をついた。危うくちびるとこだったぜ。
満員電車は嫌いだ。特に人の波に揉まれて女性と密着する配置になってしまった場合は恐怖でしかなかった。痴漢と疑われるリスクを常に孕んでいるし、露骨に嫌な顔をされ、睨まれ、中には舌打ちで威嚇もされる。なんならヒールで踏まれるし、痛みを堪えて文句なんてないアピールで笑顔を向けても「きっも。さいあく」と毒づかれる。おじさんに人権などないのだ。
なるべく女性から距離を取ろうとして、反対側の男性とおしくらまんじゅうという筋トレに精を出すも、理解されずにそちらからも睨まれるまでがテンプレだ。
だから、こうして適度に空いた車内で誰にも近づかずに済む状況は、俺にとっては小さな救いだった。
俺は、四十七歳の独身男性である。
年齢を重ねるにつれ世間からの風当たりが強くなっていくのをひしひしと感じてきた。電車で隣に座った若い女性が、俺の存在に気づいた途端露骨に嫌な顔をして席を立つ。コンビニのレジで、店員の女子高生が俺の顔を見て警戒の色を浮かべる。公園のベンチで休んでいれば、近くにいた母親が子どもを抱えてさっと離れていく。
おじさん。ただそれだけの理由で、俺は侮蔑され忌避され、時に憎悪の対象とされる。
「おじさん」というだけで、社会から「加害者予備軍」のレッテルを貼られているような息苦しさ。若い頃から女性には優しく、男性には厳しくあるのが世間の風潮だと感じていたが、アラサーと呼ばれる年齢あたりからおじさんであるという呪縛が合わさり、生きるのが辛くなってきた。
誰にも迷惑かけずに生きてきたつもりだ。
痴漢なんて、一度たりともしたことがない。暴力を振るったこともない。むしろ、俺はどちらかといえば気弱で争い事を避けて生きてきた人間だ。それなのに、おじさんというだけで俺の存在そのものが誰かにとっての脅威になってしまう。
この世は「女尊男卑」だ。女性差別は許されません。LGBTへの偏見やヘイトスピーチも許されません。しかし男性差別や見下しは許される。特におじさん差別は許されるどころか推奨されている。差別じゃなく事実を述べているだけだと反論されること必至だが。
そう思う一方で俺の中にもまた、同じような偏見があることに気づく。正面の座席で端に座る派手な化粧をした若い女性。彼女の前に立とうものなら、今頃俺は罵詈雑言浴びせられていたかもしれないと避けてしまう自分がいる。おそらく、臭いから始まる不潔即死コンボを喰らい、見事なパーフェクト負けを晒す。
コンビニの前でたむろしている女子高生の集団を見れば、目を合わせようものなら迫害されると怯えてしまう。おそらく、ジャンプしてみろよから始まるカツアゲコンボを喰らい、見事に財布の中身10割減となる。
俺は彼女たちを、一人の人間としてではなく「女」というカテゴリで見ている。
愚かだ。俺自身が差別に苦しんでいながら、俺もまた、無数の人間を勝手なレッテルで括っている。その矛盾に気づくたび、自分が嫌になる。でもやめられない。根付いてしまった女性への恐怖は取り外せないし、取り外す勇気も見出せない。
俺は、両手でつり革に掴まったまま目を閉じた。
例え周りがハゲ同盟でも、電車内で手が肩より下にあるのは落ち着かない。お前は禿げてないから同盟に入れないって?……見習いとして同盟入りお願いします見捨てないで!なんでもするから!
疲れていた。今日の残業は急ぎの案件で、上司の機嫌も悪く無駄に気を遣った。胃が重い。明日もまた、同じことの繰り返しだと思うと、気が遠くなる。
電車の揺れが、心地よかった。誰も俺の存在に気づかない。このまま、世界から消えてしまいたい。そう思うほど、疲れていた。そして……パーフェクトな陣形に油断していた。
一瞬。ほんの一瞬だが寝落ちてしまった。
何度か船を漕いだ記憶がある。その度に左手の吊り革を掴む手が少しずつ緩んでいたのだろう。足が前に落ちる感覚に慌てて意識が浮上したが、同時に左手が吊り革から離れ、わずかばかり落下した。左肘が、何か柔らかい物に触れた。そして、若い女性の短い悲鳴と何かの落下音。
俺は、はっと目を開けた。
いつの間にか左隣には、若い女性が立っていた。彼女が持っていたであろうスマートフォンが地面に落ちており、こちらを憤怒の表情で睨みつけている。目があった瞬間、怒鳴り声が車内の静寂を完膚なきまでに破壊する。
「ちょっと、何するんですか!」
甲高い声が車内に響き、一瞬で車内は緊張に包まれる。俺は、心臓が止まるかと思った。
「す、すみません、寝てしまって腕が……」
「触ったでしょ! 今、わざと当たったでしょ!」
「ち、違います……本当にただ眠てしまって……」
「痴漢! この人痴漢です!」
女性の声が、さらに大きくなる。周囲の乗客が、一斉にこちらを向いた。好奇軽蔑、嫌悪、さまざまな感情が混ざり合った視線が、俺に突き刺さる。
「違うんです、誤解で……」
俺は、必死に弁解しようとした。だが、喉が締まって言葉がうまく出てこない。女性の剣幕に、恐怖し、パニックになる。助けを求めて周りを見回すが、ハゲ同盟のメンバーも関わりたくないのか距離を取られており、周囲にはそこはかとなくスペースが生まれていた。女性がなおも叫び続ける。
「気持ち悪い! おっさんに触られるなんてホント最悪!絶対許さないから!」
「本当に、違うんです……」
「まずは謝まれよ! 土下座しろ!」
そこからは罵詈雑言が、雨のように降り注ぐ。俺は体がすくんで、何も言えなくなった。ただ震えることしかできなかった。周りの乗客たちは、誰一人として仲裁に入らない。それどころか、俺を責めるような目で見ている。俺は、完全に「加害者」として扱われていた。
とにかく、この距離はまずい。少し離れなければ二次災害が起きかねない。そうだスマホ!その前にスマホを拾わないと。そして再度謝ろう。当たってしまったのは事実だし、おそらくそのせいでスマホを落としたのだろう。割れてないといいのだが、万が一の時はきちんと弁償しよう。
そうやって誠意を示せば、きっと……きっとわかってもらえるはずだ。意外と冷静に考えられてるじゃないか。大丈夫。とりあえず行動を……。
「触らないで!」
床に膝をつき、奇しくも土下座の形でスマホを拾おうと震える手を伸ばしたが、女性の発したその一言に固まってしまう。まずい。挽回するために彼女を見上げる。それがさらにまずかった。
「……!?今度は覗き!?なにこいつマジでなんなのありえない!」
しまった。確かに一瞬見えてしまった。最悪だ。
慌てて立ち上がり、必死に弁解しようとしたが、なにを言っていいのかわからない。
「あっ、あっ、あっ」
自分から出ている意味をなさない声に気付き、それがさらにパニックに拍車をかける。
謝罪を、謝罪をしなければ!焼き土下座。もう焼き土下座しかないのではないか?
「逃げる気だ!」
誰かが叫んだ。同時に、俺の背後から強い力が加わった。誰かに腕を掴まれ、そしてそのままうつ伏せの状態で押し倒された。おそらく複数人いるのだろう。身体にかかる重圧でそう感じ、息ができなくなる。
逃げるつもりはなかった。ただ、これ以上女性を刺激しないように……これは言い訳か。体が逃げたがっていたのか、数歩後退りしてしまっただけなのだが……その行動がさらなる誤解を生んでいた。
(違う!誤解だ! 不幸な事故だったんだ!)
俺は、叫んだ……つもりだったが、息も出来ない状況で声が出せるわけもなかった。
「ありがとうございます!次の駅まで押さえててもらってもいいですか?」
「もちろんっす。こんな奴がいるから、おっさんは嫌われるのに。年とりたくねぇなマジで」
覆い被さるように俺の体を押さえつけた誰かと女性のが談笑し始めた。まじで息ができない。胸を圧迫され、肺から空気が絞り出される。まずい。社会的立場だけでなく、生命的にもまずい。
(死ぬ……逃げないから……どいてくれ)
俺は、必死に訴えた。だが、声にならない。視界がぼやけていく。談笑する声も遠くなっていく。呼吸ができない。苦しい。苦しい。苦しい。
……ああでも、もう死んだ方がいいのかもしれない。
そう思った瞬間、苦痛がなくなり、意識が遠のいた。
(ごめんなさい……)
なんに対してだったのか、自分でもわからない。
きっと声には出せていないであろうその謝罪を最後に、俺の意識は深い闇に沈んでいった。
……そして。
「っ、――っ、――っ!」
耳元で、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
ああ。まだ死ねないのか。視界はぼんやりしたままだが、音は比較的クリアに聞こえる。
近くに赤ちゃんがいたのか。教育に良くないところを見せてしまったなぁ。まぁもう死ぬし関係ない……あれ。息ができる。多少呼吸しづらい気もするが、死ぬ直前に緩めてもらえたのか?
助かった……のかそうでないのか。すでに死が救済となるレベルだもんな。生き残っちまったかぁ。
そんなことを考えてる間にも体の違和感をひしひしと感じる。
取り押さえられてるはずなのに、その感触がない。
両手両足ともが動くが、非常に動かしづらい。
うつ伏せに組み伏せられていたはずが、今は仰向けな気がする。
そして赤ちゃんの鳴き声、その発生源だが耳元ではなく胸元……でもなく口元じゃないか?
というか、自分の喉から発せられたものだな。これ。
俺は泣いていた。赤ちゃんとして。
目の前に、ぼんやりとした光が見える。誰かの腕に抱かれる感触。そして優しい声が聞こえた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
産まれたばかり……ってコト!?しかも女に!?
理解が追いつかないまま、俺の意識は、再び、深い眠りに落ちていった。




