人が真面目に国語のプリントの話をしているのに、脳内の義妹は見せ場を作ろうとしてくる
『結衣先輩、今! 袖! 制服の袖をちょっとだけ引っ張って「……バカ」って言って!』
頭の真ん中にこびりつくような甲高い声に耐えかねて、私――高校二年生の白川結衣は、持っていたシャープペンの芯をボキリと折った。
(言うわけないでしょ。なんで私がそんなくっさい少女漫画ムーブしなきゃいけないのよ)
『くっさくないもん! 王道だもん! お兄ちゃんああいうの絶対弱いはずなんだから!』
頭蓋骨の内側でぎゃあぎゃあ騒ぎ立てているのは、葵ちゃんという名の女の子だ。
死んだ幽霊、ではない。彼女は今、市内の総合病院のICUで眠り続けている、れっきとした生きた人間。同じ高校の一年生で――そして、目の前で使い古した単語帳をめくっているクラスメイト、成瀬総司郎の義理の妹だった。
二週間前の交通事故。そこから一週間遅れて、私の頭の中に突然彼女の意識が割り込んできた。
最初の二日は幻聴を疑って脳神経外科の予約サイトを睨み続けたけれど、三日目の朝、葵ちゃんが『お兄ちゃん、私の事故からずっと寝てない。今日も目の下にクマ作って、ネクタイ曲がってるはず』と泣きそうに呟いた直後、引き戸を開けて入ってきた成瀬くんがまったくその通りの姿だったことで、私はこの不条理を受け入れるしかなかった。
成瀬くんに「お前の妹が私の頭の中にいる」なんて言えるはずもない。
ただでさえ憔悴している相手にそんなオカルトを信じてもらえるわけがないし、それに――口が裂けても言えない理由が、私にはもうひとつあった。だから何も言い出せないまま、隣でこうしてノートを貸し出すことしかできないでいる。
「……おい、白川? どうした。さっきから芯折りすぎだろ」
不審そうに視線を上げてきた成瀬くんは、やっぱり今日も目の下に濃い影を落としていた。
事故の前は無愛想でもどこか飄々としていたのに、今は誰とも群れず、教室では完全に孤立している。それなのに、ノートの貸し借りだけはなぜか決まって私に声をかけてくるのだ。放課後は毎日病院へ通っているのを、私は葵ちゃんを通して知っている。
「あ、いや。なんでもない。ちょっと手が滑っただけ」
「そうか? ……で、この前の現国のプリント、問三の記述ってどう書いた。俺、あの日病院行ってて丸ごと写し忘れてて」
「ああ、問三ね。ええと――」
『結衣先輩、チャンス!!』
葵ちゃんが鼓膜の裏を直接引っぱたくような勢いで叫んだ。
『ちょっと机乗り出して上目遣い! 「教えてあげてもいいけど……放課後、アイス奢って?」って甘えて!』
(殺す気!? なんでただの国語のプリントで見せ場作ろうとしてんのよ)
『いいからやって! お兄ちゃんはね、無愛想に見えて頼られると断れないタイプなの! ほら、体貸して、私が――』
(ちょっ、勝手に動かそうとすんな!)
葵ちゃんが無理やり私の右腕の筋肉を引っ張る。意志とは無関係に腕がピクンと奇妙に跳ね上がり、机の上にあった筆箱を弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
「うわっ!? 白川、どうした!?」
成瀬くんが目を丸くして身を乗り出してくる。
近い。葵ちゃんが『ひゃあああっ! お兄ちゃんいい匂い! 家の洗剤変えてない!』と大騒ぎを始めた。
(葵ちゃん、落ち着きなさいって! 私と成瀬くんはただのクラスメイトなんだから!)
『ただのクラスメイトで終わらせないでよ! 私……病院のベッドから戻れないかもしれないんだよ!? だったら、せめてお兄ちゃんには幸せになってほしいの! ……先輩がなんで私を追い出さないのか、私、知ってるんだから!』
(なっ……!?)
息が詰まる。
声も出ないまま固まる私を、成瀬くんが眉をひそめて覗き込んできた。
「……白川? お前、さっきから変だぞ。熱でもあるのか? 保健室行くか?」
「だ、大丈夫! 平気だから!」
動揺をごまかそうと勢いよく椅子を引いた瞬間、葵ちゃんが私の体重を前へぐいっと押し出した。
完全に足がもつれる。
「わっ!?」
「おっと、危ねえ!」
ガタッと激しい音を立てて倒れそうになった私の手首を、成瀬くんが咄嗟に掴んだ。
強い力で引き戻され、鼻先が彼の制服の胸元に触れる寸前で止まる。
前の席の男子が「うおっ、なんだ?」と驚いて振り返り、教室内のざわめきが一瞬だけこちらを向いた。
手首に残る、乾いた骨張った感触と、熱。
至近距離で目が合う。いつも疲れを滲ませていた成瀬くんの目が、珍しく焦ったように見開かれていた。
「……悪ぃ。怪我、してねえか?」
「う、うん……ありが、とう……」
ドクン、と胸の奥が跳ねた。
私の思考が真っ白になって立ち尽くすあいだ、頭の奥から、いつもの茶化した調子ではない声がすっと落ちてきた。
『……やっぱり、お兄ちゃんの手、あったかいな』
泣き出しそうな、あまりに静かな独り言だった。
けれどその余韻を噛みしめる間もなく、数秒置いてから、葵ちゃんは無理に明るい声を作ってまくしたてた。
『よ、よしっ! 接触成功! 撃破率四十パーセント! 結衣先輩、そのまま「責任取ってよね」って言いながら服の裾ぎゅってして!!』
「……するわけないでしょ、バカ」
思わず声に出して吐き捨てていた。
「え?」
手を離した成瀬くんが、ぽかんと口を開けて固まる。
「あ、いや……成瀬くんじゃなくて」
「俺じゃないって……誰に言ってんだよ」
「独り言! 気にしないで!」
私はノートを雑に鞄へ押し込み、成瀬くんの怪訝な視線から逃げるように席を立った。
休み時間のざわめきが戻った教室を足早に出て、渡り廊下の隅、人気のない手洗い場まで歩く。
蛇口をひねり、冷たい水で両手を洗った。鏡に映る自分の顔は、まだ情けないほど赤い。
水を止め、鏡の中の自分に向かって、私は声を出さずに問いかけた。
(……ねえ、葵ちゃん)
『なーに? 作戦会議の続き?』
脳内の声は、いつものおどけた調子を装っていた。
私はペーパータオルで手を拭きながら、胸の奥に引っかかっていた疑問を落とす。
(あんた、本当に私に成瀬くんを押しつけて……それでいいと思ってるの?)
返事は、来なかった。
さっきまであれほど騒がしかった頭の奥が、水を打ったように静まり返る。
チャイムの予鈴が、誰もいない渡り廊下に遠く響いていた。




