後編
デビューの日が近い。それを花自身も理解していた。美味しい蜜の為だと言って、絡新婦直々に身体を解してもらいながら、花はそっと問いかけた。
「絡新婦様、いよいよ胡蝶を捕まえる日が近いのですね?」
「ああ、そうだ。いきなり胡蝶が手に入るなんて期待はしていないけれどね。お前には期待しているよ」
「お任せください」
ここしばらくの日々の中で、花はだいぶ蜘蛛たちへ心を開いてきていた。
世話をしてくれる絡新婦やその手下たちに感謝の言葉を述べることも増えてきている。それに、取るに足らない雑談をして楽しむということまであった。
ただの囮のはずではあったが、花はとっくにこの屋敷の一員になっていたのだ。
絡新婦にとっても、それは同じだった。
「怖くはないか? 胡蝶は特に花にとっては凶暴だというが」
捕まえた当初よりもだいぶ優しい口調で、絡新婦は問いかけた。
すると、花は少しだけ寂しそうな顔をして答えた。
「勿論、怖いです。けれど、ちょっとだけわくわくしているんです。胡蝶が怖いのは生きるも死ぬも彼ら次第になってしまうから。それに、生き死になんてどうでもよくなるくらい、彼らとの関係が魅惑的だからなんです。それを彼らも分かっているから、わたしたちを見下してくるんです。でも、わたしには絡新婦様がついている。いざとなったら、助けて下さる。だから、怖いけれど楽しみなんです」
「そうか、それならよかった」
小さく笑いながら絡新婦は花を撫でてやった。
ほっとしつつも、心には少しだけ不安が残る。助けてやるとは言ったが、絶対に助けられるような保証は何処にもない。一歩間違えれば、蜜だけではなく命すらも食い荒らされることもあるだろう。
そうなった時のことを想像すると、何故だか胸が痛んだのだ。けれど、ここまで順調に来たのだ。作戦をやめるという選択肢はなかった。
そして、とうとうその日はやってきた。
狩り場として作った部屋のなかで、絡新婦は花を自由にさせた。頑丈な糸の壁で阻まれてはいるが、ちょうど蜜食妖精がひとりだけ通れるような穴が一つだけ空いている。うっかりと出来てしまった隙間のようなそれこそが、彼らの好奇心を擽る罠だった。
絡新婦は屋敷の離れた場所からその透明な部屋を見守っていた。
糸は彼女の意に沿って動く。蜜食妖精が花に手を出して食事を始めたら、さり気なく糸を操って出口を塞ぎ、花が危険な状態に陥る前に獲物を捕まえるというのが手順だ。
失敗は許されない。緊張を覚えつつ、絡新婦は頭の中でその手順を何度も想像した。冷静に行えば、花の身を守りつつ新鮮な肉が手に入るだろう。
だが、その一方で、絡新婦の心の中には期待とも不安とも違うもう一つの感情が顔を覗かせ始めていた。
これより目撃するのは、ここしばらくせっせと育てた大切な花が蜜食妖精たちの食欲に曝される瞬間だ。確実に捕らえるためにも、その光景をしばし見つめなければならない。
あれだけ世話をしてやったのも、それが理由のはずだった。おいしい蜜をご馳走となる獲物たちへの餞別に。
だが、この気持ちはどうしてだろう。
絡新婦は知っていた。獲物たちにとって花の妖精との関係は食事に過ぎないが、花にとってはそうではない。蜜食妖精たちの食欲に身体で応じることは、年頃の花たちが本能的に望んでいることであり、そのために花たちは蜜食妖精たちに時折恋をするのだという。
蜜を吸われることは先祖代々受け継いできたその血が求めていることでもあり、それゆえに色気だって生まれる。
あの花だって、同じ。いつもは無邪気にすら思えるが、蜜食妖精に捕食されれば雌花としての姿を存分に見せてくれるだろう。
その様子を具体的に想像したとき、何故だか絡新婦は不快感を覚えたのだ。
端からそのつもりで捕まえたはずなのに。
どうしてこんな気持ちになっているのだろう。
そんな時だった。
「絡新婦様」
共に見張っていた召使いが小さな声で絡新婦に告げた。
「御覧ください。あれは――」
息を呑むその声に絡新婦ははっとした。
気づけば、花の妖精が待機している狩り部屋に獲物が忍び込んでいた。その姿をひと目見て、絡新婦は惚けてしまった。
胡蝶だ。
年頃の娘で、健康的な肌色と艶めかしい顔立ちをしている。好奇心旺盛と分かるその目はぎらぎら輝いており、逃げ場のない場所で寛ぐ花を真っすぐ見つめている。
目的は蜜に違いない。
まさか、いきなり大物――それも、胡蝶だなんて。絡新婦の心に喜びがとっさに浮かんだものの、すぐさま別の感情で覆われていく。
だが、ここからは時間との勝負だ。獲物が花に食いついた時に入り口を塞ぐ。
その過程を頭に何度も浮かばせて、彼らの様子を見守った。
「怖がらないで。気持ちよくしてあげるから」
胡蝶の囁く声が糸を通して伝わってきた。次いで、花がごくりと息を飲むその音も。
その様子を黙って見守りながら、手下たちは興奮を必死に抑えている。だが、絡新婦は、もやもやした気持ちを抱え始めていた。どこにも解放できないその気持ちが急速に増大していっている。
そんな絡新婦の焦りを強めるように、胡蝶の甘い声色が伝わってきた。
「良い香り。きっと美味しい蜜をたっぷりと秘めているのね。待っていて。いま、綺麗に咲かせてあげるわ」
狩り部屋の中で胡蝶は花を遠慮なく抱きしめ、そのまま唇を奪おうとした。
その瞬間、絡新婦はとうとう耐えきれなくなってしまった。不意に動き出す主人の姿に、召使いたちは驚いた。だが、絡新婦は全く気にせずに、まっすぐ狩り場へ近寄っていった。
そして、糸を操って壁を取り払うと、大声で怒鳴り込んだのだ。
「お待ち!」
突然現れた絡新婦の姿に、胡蝶は目を丸くした。屋敷の主人だ。見つかってしまった。飼われている花に手を出せばどうなるかなんて考えるまでもない。
慌てて逃げようとする胡蝶を、花は慌てて捕まえようとした。だが、絡新婦は糸を使って胡蝶ではなく花の方を拘束したのだ。その隙に、胡蝶は侵入した穴から逃げていってしまった。
「そんな、絡新婦様!」
何が起こったか分からず狼狽える花に、絡新婦は近づいていった。
胡蝶が通っていった狩り場の出入り口を塞いでしまうと、床に座り込んでいる花を見つめ、その身体を強く抱きしめたのだった。
「やっぱり駄目だ」
「何が駄目なんです?」
おそるおそる問い返す花に、絡新婦は唸った。
「駄目だ、駄目だ! あんな淫らなやつにくれてやるものか!」
「絡新婦様……?」
美味しい胡蝶を捕らえるのは楽しみのはずだった。
けれど、あれ以上見ていられなかったのも確かだった。
自分でも訳が分からない中で、絡新婦は心の底から叫んだ。
「あれだけ手塩にかけて育てたお前をあんな奴に!」
「で、でも、胡蝶をお食べになりたかったのでは?」
「もういい。獲物なんて誰でもいいんだ。それよりも、あんな思いをしてまで胡蝶なんて食いたくはないわ」
腕に力を込めて、絡新婦は花を抱え込んだ。
捕まえた時は生餌にするつもりでしかなかったというのに、育てているうちに変な情でも湧いてしまったのだろう。だからって、何のために花を捕らえたのか。自分でもおかしいと思いつつも、こうなってしまえばもう花の妖精を蜜食妖精どもの玩具にするなど考えられなくなってしまった。
絡新婦はただ感情のままに花の妖精に命じたのだった。
「今日よりお前は私のために咲く花となれ」
拒否など許さないような口調で、静かに、そして力強く言った。
「その蜜の一滴たりとも蜜食妖精どもにくれてはやらん」
そんな主人の姿に、花の妖精はしばし茫然としていた。
だが、時間と共に段々と冷静さを取り戻してくると、彼女はどこか退屈そうな溜息と共に、自らも絡新婦にしがみついてそっと訊ねた。
「わたしに貞操を守れとおっしゃるの?」
「そうだ」
短く肯く絡新婦を見つめ、花の妖精は再び息を吐いた。
「分かりました。絡新婦様がそうおっしゃるのなら。……ですが、ひとつだけ」
「なんだ?」
訊ねてくる絡新婦の顔を、花の妖精は上目遣いでじっと見つめた。
「責任を取ってください」
何処か鋭さすらあるその一言に、絡新婦は察した。
身体は熱り、甘い香りも深まっている。あと少しで胡蝶の食事に付き合おうとしていた心身がそこにあった。
花の妖精の蜜は、絡新婦の好物というわけではない。けれど、そう責任だ。胡蝶を追い出した以上、責任は取らないと。
静かに自分を納得させてから、絡新婦は花を見つめ返した。
「分かった」
短く肯いて、絡新婦はそれに応じてやった。
その日から絡新婦のお屋敷に囚われた花の役目はがらりと変わった。生餌として飼われていたはずの花がただの愛玩に。美味しい蜜を作るための努力は終わってしまったが、身体の健康を保つための世話自体は疎かにならなかった。ただ、絡新婦の心を癒すためだけの存在として、花の妖精は過ごすこととなったのだ。
この変化に屋敷で暮らす召使いたちはがっかりした。何のためにあれだけ苦労して捕まえ、育ててきたのやら。
それでも、彼らは絡新婦を崇拝していたので、不満を吐きつつも従い続けた。屋敷の主人がそれでいいというのならば、彼らにだって反対するだけの理由はなかった。
それに、花の存在が役に立たないわけでもなかった。
初めての狩りで逃がしたあの胡蝶が仲間たちにその恐ろしい体験を話し回ったらしく、絡新婦に愛される花の妖精の噂がまたたくまに広まっていったのだ。
命からがら逃げだした胡蝶自身が、少しだけ対面できた花の妖精の理想的な花の蜜の香りの良さを語り、同時に、一滴も吸えなかった悔しさまで語ったので、他の妖精たちの好奇心に火をつけたのだ。
おかげで、絡新婦の罠には次々に無謀な蜜食妖精たちが引っかかるようになっていった。
その上、彼らは仲間が捕まってしまっても、その末路を知っているはずなのに、花への興味を捨てようとしなかった。そのため、次から次に食材が手に入り、飢えの心配もしなくてよさそうだ。
このことに屋敷の者たちは皆よろこび、花の不満を漏らす蜘蛛の数も減っていった。
理想とは少し違ったが、絡新婦の計画は達成されたのだ。
だが、当の絡新婦はあまり喜んではいなかった。
どういうわけか脅しても脅しても蜜食妖精たちがやってくる。そのほぼ全てが大切な花への興味からだというのだから気が気でなかったのだ。
己の中の独占欲を自覚して以来、絡新婦にとっての恐怖は大事な花に手を出されることになっていた。今は罠にかかるような間抜けしか来ないが、そのうちに全ての罠を掻い潜り、糸の防壁すらも突破してしまうような厄介者が来ないとも限らない。
そう思うと不安で仕方なかったのだ。
そのため、絡新婦は常に花の妖精を自分の隣に置くようになり、勝手気ままに歩かせるようなこともしなくなった。
代わりに少しでも嫌われないようにと花の願いを聞き、蜜食妖精たちの代わりに蜜を吸ってやるようになったのだ。
その姿があまりに不思議で、神秘的だったものだから、絡新婦の大切にする箱入り花の噂はどんどん広まっていき、ついには屋敷から遥か遠くにある町で暮らす人間にまで届くようになり、あらゆる創作のネタとして愛好されるようになってしまった。
そんな人間たちの噂など関係なく、絡新婦と花は共に暮らし続けた。
求めるのはただ純粋なる欲望と安らぎのみ。独占欲を剥き出しにする絡新婦を恐れず、むしろ操って、花もまた欲望を満たしながらその心に寄り添った。
恋人のように、家族のように、あるいはそれ以上の何かのように。
糸で造られた屋敷の奥深くで、ふたりはこの特別な関係の虜であり続けたのだった。