第三十七 『気づき』
目が覚めると、知らない空間にいた。
いや、ちゃんと言えば知っている。
あいつの領域だ。
「おはよう♡」
俺を見下ろしながら、あの女は挨拶をしてくる。
体を動かそうとするが、動けない。
喋ろうとしても、言葉になることはなく、空気だけを排出する。
「んふふ♡
可愛いわ〜、動けないし、喋れない♡」
暴れたらあぶないもんね〜と言いながら、俺を持ち上げてくる。
今すぐにでもぶん殴りたい。
「きちんと座っててね〜」
椅子に座らされ、体制を整えられる。
そして気づく、視界が微妙に高い。
「あら、今気付いたの〜?
そう、ちゃんと健くんの身体だよ♡」
穂波と七音の身体はどこだ、七音が戻ってきた時に……。
いや、リセットするってこいつは言ってた。
つまり……。
血の気が引く。
俺のその様子を見て、くすくすと笑い始める。
「私、可愛い子が大好きなのよぉ♡
ましてや、自分の契約者を殺すほど、残忍でもないのぉ」
鼻をちょんっと指で突かれる。
触んなと言いたいが、動くことも喋ることも出来ないので目で訴える。
「んふっ……
チワワみたいね♡」
笑いながら、女はいくつか椅子を準備し始めた。
「……怖いことはしないわ、今は」
そう言いながら、女は指をパチンと鳴らす。
すると椅子の上に、みんなが出てくる。
意識はない、いや、会長だけはこちらを睨んでいる。
「健くんと、古味ちゃん、強い子ね♡
…………ちょっと味見しちゃおうかな……♡
でもでも〜、怖いことしないって言っちゃったぁ、我慢我慢♡」
甘い声で恐ろしいことを言う女をよそに、俺は穂波を探す。
いない、いない、どこだ。
コウちゃんも、高菜ちゃんも、旗靡も、会長もいる。
七音と明日、そして穂波がいない。
「——どこでしょうかぁ」
突然視界を遮られる。
あの女の手だ、暗い視界に精神が揺らぐ。
「私の全部を見せたのに♡」
「貴方はあの子たちばっかり♡」
両の耳からあの女の声を拾う。
ねちりねちりと変な音が混じる。
怖い、怖い。
ある日の記憶がフラッシュバックする。
怖い、怖い。
『大丈夫』
大丈夫じゃない。
『大丈夫だよ』
……大丈夫、
『健ちゃんなら、大丈夫』
——穂波、あの時から、お前は。
「アハッ♡」
甲高い声が鼓膜をつんざく。
目から手が離れて、次は頬を掴まれる。
「そう!」
「あの時から、穂波くんは貴方を守るために!」
「私に全てを差し出したのぉ♡」
「健気な子!
とてもとても優しい子!」
「私ぃ、感激しちゃったの♡
だから、私のモノにした♡」
ずっと欲しかったおもちゃを手にして、他の子に自慢をする子供のようにはしゃぐ女を今すぐにでも殺したくなる。
……なぁ、健ちゃんなら、ならってなんだよ。
そりゃ、お前がいなくても生きていけるだろうな。
けど、お前は。
泣き虫で、よわっちくて、俺より小さかったくせに1センチの身長差にドヤ顔かまして、ゲームを一緒にして負けたら悔し泣きして、たかが少し大きいアイスに満面の笑みを浮かべて、お前は。
「健ちゃん無しじゃ生きていけなぁい♡」
目の前の女は、穂波の声を真似る。
似てない、醜い醜い声で。
——くそ。
空気しか排出しない口を必死に動かす。
——殺してやる、殺してやる。
——穂波に手を出してみろ。
——俺はお前の最愛の婚約者もお前も
「それは違うでしょう」
体が無意識に震え始める。
女の雰囲気が変わる。
頬を掴まれたまま、女の顔をじっと見る。
無邪気な子供のような顔はそこにはなく、ただただ、俺を見つめる無の表情がそこにはあった。
「あの人がお前ごときにやられるわけがない。
けれど、それは勝敗の問題じゃない。
手を出すこと。
それは、お前が絶対に違えてはいけない道。
……私のあらすじをお前に見せたのが間違いだったわ、飯岡健。
哀れで、惨めで、醜い、無知蒙昧な人間風情が。」
掴まれた頬に力が入る。
痛い、怖い。
けれど、それ以上に穂波を失いたくない。
俺の大事な、大事な幼馴染なんだよ。
涙で視界がぼやける。
自分勝手なのは分かってる。
手を払いのけたのも、俺自身を守るためだった。
ずっと支えてもらってた。
俺が守る側だったのに、守られてた。
だから、失いたくない。
なのに、俺にそんな力なんてなかった。
無知蒙昧、まさしく俺を表すにはぴったりな言葉だった。
「……喋ってもいいわよ、飯岡健。
きっと貴方は私の望む言葉を言うでしょう。
——それ以外なら、私は貴方を消さなきゃいけなくなるわ。
さぁ、言って」
「ぁ」
空気だけを排出していた口から、声が漏れる。
喋れる。
けど、なにを。
もう心は半分諦めていた。
勝てない、取り戻せない、何も出来ない。
なにも。
「——諦めたくないと貴方が言ったのなら、最後まで足掻きなさい」
会長の声が鮮明に聞こえた。
会長の方を見ると、こちらを睨んでいる。
「貴方が私に言ったのでしょう。
七音たちを取り戻すためと、愚かにも私を利用しようとした。」
女はふらりと会長の方へと向かう。
それを見てもなお、会長はずっとこちらを睨んだまま叫ぶ。
「男なんでしょう!
男なら、なんでもできるんでしょう!?
なら、最後まで諦めるなっ!
——私には、出来なかったことを」
「うるさい」
女は会長の両の頬を片手で掴む、
「きゃっ!」
「女だからと、小崎家に相応しくないと、ずっと言われて、心の奥底から全てを諦めていた貴方。
幼い頃、主人公とした約束を守り続ける貴方。
その希望を胸に、家族から非道いことをされても、今までずっと生きてきたのに、全てを打ち砕かれた。
可哀想、とても可哀想。
——だから、私が愛してあげようとしたのに」
もう片方の手が、会長へと伸びる。
「黒八木柊花!」
俺はあいつの名前を、出来るだけ大きく叫ぶ。




