第一話:アドヴァとエドヴァ
ポリティコ都市、リバー・ノース霊安室、早朝。
・・・
「間違いなく、私の息子だ。」
ネドヴァ・戸座・スミス騎士団長は、日常会話と思しき声音で、狭い観覧スペースに立ち並ぶ男達に告げた。
ネドヴァが片腕で持ち上げたカーテンの隙間から、石台に寝る裸体がのぞいている。
その筋肉質な胸はびくともせず、何度瞬きをしようとも、間違いなく死んでいた。
父があまりにも無関心に話すものだから、アドヴァは彼の言葉が処理できず、ただただ冷えた弟の体を眺めていた。
上下とも騎士団の黒を纏った父は、皮肉にも息子の死を悔いているように錯覚するが、アドヴァは父にそんな慈悲を期待しないようにしていた。
今朝、父に普段より早く寝床を引っ張り出された時、数日前に剣術訓練をサボった報いを受ける覚悟をしたのだが、予想外にも訓練場からは少し離れた霊安室へ連れられた。
アドヴァは父に悟られない声量で愚痴をこぼしながら、父の背中を追って地下施設へと続く石造りの階段を下った。
訓練でないならば、これは父が、体力では他の訓練生に劣る自分に精進を促すため、時折課す『人生問題』の一つではないだろうか。
死について考えろ。死を恐れるでない。こんなところか。
しかしアドヴァにとって死なんて考えるだけ無駄だった。
なんたって自分は、前線に行って国のために身を滅ぼす趣味はない。
脳筋の弟は最年少で騎士となって戦っているし、自分までもが才能のないことに時間を割く必要はない。
そう、数分前までは高を括っていたのだ。
今では、眠気なんて吹っ飛び、人を舐めたような半笑いはぴくぴくと引き攣っていた。
何寝てんだよ。
弟に言葉をかけようにも、喉が窮屈に引き締まって声が出ない。
今すぐにでも大きな父の背中を蹴飛ばして、弟の元へ駆け寄りたかった。
しかし、鉛のように重くなった体は小刻みに震えるばかりで、動こうとしなかった。
アドヴァは弟の首筋に刺さった茶色い物体を眺めた。
それは、人差し指ほどのサイズの木の破片だった。
雑草共か。
歪んだ視界の中で、弟の抉れた首元から胸の青黒い打撲跡を辿り、おかしな角度に歪んだ右足まで見る。
アドヴァは弟が巨大な木の変異体と殴り合う姿を思い浮かべた。
いや、これは俺の弟じゃない。
アドヴァは自分に言い聞かせた。
だって、弟は木なんて雑魚に負けるような器じゃないはずだ。
これはきっと弟の信者の一人だ。
あいつは人気者で、あいつの友達はいつもあいつの真似事をした。
鍛え方とか、髪型とか全部似せたんだ。
アドヴァは、光を失ったその瞳が、父から授かった漆黒の色であることを見て見ぬ振りした。
アドヴァは、彼の耳たぶに、初めて訓練をした時につけてしまった桃色の傷跡があることを見て見ぬ振りした。
アドヴァは、
「エドヴァ・戸座・スミス。身元確認完了。5時36分。245年6月26日。」
男の一人によって、事務的に言い放たれた一言。
強張っていたアドヴァの体から力が抜け、彼は地面に崩れ落ちた。
書類に書き込むペンの音や、男たちの囁き声が瞬時に止み、全ての視線は騎士団長の足元に力なく座り込んだアドヴァに集まった。
「今すぐ立て。みっともない」
終始無表情な父の眉間に薄い皺が寄り、息子の醜態と周囲の男たちの様子を伺うように、その鋭い視線が交互に動く。
騎士団長の息子らしからぬ精神の弱さを見せてしまうのは恥ずべき行為だ。
しかし、そんなことすら考えられないほどアドヴァの頭は空っぽになっていた。
「繰り返させるな。立ちなさい」
ネドヴァは、アドヴァの制服の首襟を掴み、片手で軽々と持ち上げた。
立たせられたはいいものの、足はまだガクガクと震え、アドヴァは揺らぐ体を冷たい壁に預けてなんとか持ち堪えた。
その時、アドヴァの胸を焦がす感情は悲しみでも哀れみでもなく、業火のように燃える怒りだった。
父親に対してどんな感情をぶつけようと無駄だと言うことはわかっている。
だから、これは弟の死に少しの敬意も示そうとしない卑劣な父親への怒りではない。
これは、エドヴァの命を父に託した兄である自分自身への怒りと憎悪だった。
アドヴァは理解しているつもりだった。
弟は、ネドヴァ騎士団長の子供ではなく、命を雑に浪費する騎士団員の一人となってしまったのだ。
父に、弟に対する家族愛という名の優遇を期待した自分が迂闊だった。
父ではなく、アドヴァが弟を最重要危険区域である南西の前線に送り出してしまったんだ。
母が他界して以来、運動を忌み嫌うアドヴァから活気を全て吸い取ったかのように、エドヴァは取り憑かれたように訓練に熱中するようになった。
入団が確約されてからは、寝る間も惜しんで剣を振っていた。
時折、そこに母が立っているかのように空虚に話しかける弟を見かけることもあった。
それが薄気味悪くて、アドヴァは見て見ぬふりを続けた。
まだ生まれて間もなかった弟は、アドヴァよりもずっと母の死に囚われていたのだ。
彼は、ヴェールの奥に潜む母親の素顔を見たのだから。
・・・
「父さん、僕を南西に派遣してください。」
一ヶ月前の夜、家から抜け出そうと廊下を忍び足で歩いていると、父親の寝室から弟の声がした。
「お前はまだ入団間もないひよっこだ。まだ早い。」
「僕は他のどの団員よりも優秀です。父上だってわかっているでしょう?」
「寝言は寝ていて。お前にリフトの警備が務まるか。」
わずかな沈黙。
アドヴァは息を潜め、寝室のドアに耳を押し当てた。
「父上。これだけは譲れません。僕は誰よりも早く強くなる必要があります。貴方の息子なのですから。」
アドヴァは弟の姿を見なくてもわかった。
彼が、後ろで握った手がそわそわと動いていることを。
エドヴァは嘘をついている。
またもや、わずかな沈黙が流れた後、ネドヴァの呆れた嘆息が聞こえた。
「後悔するなよ。お前を南西へ派遣するということは、私がお前の命よりも戸座・スミスの名誉を優先したということになる。わかるな?」
「承知しております、父上。」
・・・
アドヴァは自分の愚かさを悔やんだ。
弟が南西に執着すること自体、明らかにおかしかったのだ。
力で叶うはずがないとわかっていても、弟がいつぞやの元気な少年に戻るまで、地下牢へ軟禁してでも行かせるべきではなかった。
でも、アドヴァは見て見ぬふりを貫き通した。
家を連れ出された母はまだ生きているのではないかと、15歳になった今でもどこか期待している自分がいる。
だからこそ真実を解き明かそうと努力する弟の姿が、もう母の死を認めてしまった弟の姿が、とても憎かったのだ。
足元を見ると、ワックスのかかった黒いブーツに反射する自分と目が合う。
西洋出身の母から授かった赤髪を、騎士団の規則通り刈り上げた頭。
相反して今時珍しい、純日本人の父とお揃いの漆黒の瞳。
亡き弟のように、瞳からは光が失われ、まるで死人のようだった。
ネドヴァは弟に背を向けて、壁沿いに並ぶ男たちに話しかけた。
「エドヴァの死因は?」
ネドヴァにも劣らない、頑丈な体つきの男性が一歩前に出る。
「はい。エドヴァ君はリフト南西部の監視業務から逸脱し、教会の加護なく山に侵入しました。山神様の怒りを買ってしまったのでしょう。」
父は考え込むように胸の前で腕を組む。
「だが、死体が回収されている。雑草どもに襲われたのならどうやって?」
「近隣のカモ沿い村の住民は、リフターがエドヴァの体を抱えて山から降りてくるところを目撃したと申告しています。」
アドヴァは、伊藤・ジョーンズ少佐の言葉に息を呑んだ。
「リフター?」
数分ぶりに言葉を発したアドヴァを父が睨みつける。
少佐は父の態度に気付かず、わずかばかりアドヴァに体を傾けて話を続けた。
「ええ。今は応急処置として、教会の地下牢に監禁しています。ドクター・ロザリア、エドヴァ君は山のどこまで登ったのでしょうか?」
少佐の声かけと共に、男たちの影に隠れていた女性が姿を現した。栗色のロングヘアーをポニーテールにまとめたグラマラスな体つきの女性が白衣を揺らしながら弟の遺体に歩み寄った。
彼女に似合わない堅苦しい顔で、アドヴァの視線を意図的に避けているようだった。
いつものように細い髪の毛を絡めて遊ぶ指先が、心なしか震えている。
「エド・・・エドヴァさんはRDL3まで到達したと考えられます。その・・・彼の・・・」
ロザリアは少し言葉に詰まってから続ける。
「状態からして。」
彼女の言葉に、アドヴァ含む一同は目を見開いた。
「RDL3まで自力で行ったっていうのか?」
男たちが困惑のあまり声を荒げる。
「たとえ、戸座・スミス家の息子であっても不可能だろ!」
放射能危険線(RDL)は、放射能の濃度によって変化する生物の変異体の凶暴性を基準に、ニュー・キョートを囲む山々を垂直に区切ったものである。
山の麓が危険度RDL1とし、山の頂点は危険度最大のRDL5。
それ以降は遠隔でも目視できないため、未知の領域である。
平均的なニュー・キョート人はRDL1への耐性しか持ち合わせていない。
しかし、戸座・スミス家は放射能に極めて強い免疫を持つ後継を産むために、何世代にもわたって綿密な遺伝子操作を行ってきた。
エドヴァももちろん例外ではない。
それにしてもだ。
戸座・スミス家の当主であるネドヴァ騎士団長でさえ、無事に生還する限界はRDL2までである。
「惜しい人材を亡くしてしまったものです。」
少佐の『人材』という一言に体がカッと熱くなるが、なんとか殴りかかろうとする拳を抑える。
父は全く気に留めておらず、ただ弟の遺体を見下ろし続けた。
「変異した人間の遺体を目撃したという事例もある。今日中に燃やせ。」
父はロザリアに向き直り命じた。
彼女をよく知るアドヴァは、穏和な彼女がここまで憤慨している姿を初めて見た。
フクロウのようにクルリと丸い目は線のように細められ、毛先をいじる指が痙攣している。
「しかし騎士団長、今日中ですと葬儀の準備が・・・」
父はロザリアの消え入るような声を遮る。
「騎士一人一人に葬儀をやってる暇があるわけないだろう。今晩、教会の広場で火葬しろ。」
そう言い放った父は弟を振り返ることもなく、群衆を引き連れて霊安室を後にした。
アドヴァとロザリア、二人だけ取り残された寒い個室に沈黙が訪れる。
二人の目が合った途端、アドヴァはロザリアの方に駆け寄っていた。
腕を広げたロザリアの瞳から、ずっと溜め込んでいたのか、大粒の涙が溢れた。
小さい頃は見上げていたロザリアの涙に濡れた頬が、今ではアドヴァの肩に蹲る。
「あたし・・・ミツキちゃんにあんたらの面倒見るようにって・・・」
ロザリアが嗚咽を漏らす。
しかし、アドヴァの目は乾き切っていた。
悲しみと、怒りと、空虚。醜く混ぜ合わさった感情が胸元を渦巻き、強烈な吐き気を覚える。
「ごめんね。アド、ごめんね。」
アドヴァはロザリアに回した腕を緩め、首を左右に振る。
「謝んないで。ロザリアさんはなんも悪くない。俺が・・・」
アドヴァは横目で弟の体を隠すカーテンを一瞥する。
俺がエドヴァの心の混沌を野放しにしていたのがいけなかったんだ。
俺が父上なんかに弟を託したのがいけなかったんだ。
俺が見て見ぬ振りをしたのがいけなかったんだ。
「俺・・・」
「葬儀もさせてくれないなんて、あの人はどこまで落ちれば気が済むの?」
アドヴァの胸に額を押し当てていたロザリアの声が怒りで震える。
「実の息子をああも簡単に・・・。リフターの子も」
「リフターが何?」
考えるより先に声が出ていた。
アドヴァはロザリアの肩を掴み、自分の胸から引き剥がした。
顔を覗き込むと、彼女は少し困惑したように眉根を寄せた。
「えっと・・・騎士団長が焦って火葬を促したのは、リフターの侵入を許してしまったことを隠蔽するためだと思うの。」
「隠蔽?」
アドヴァは重たい首を傾げる。
「リフターの存在が国民に露呈する前に、エドと一緒に燃やすのよ。」
その時、アドヴァの胸には渦巻く嫌悪感だけでなく、何か新しい感情が宿っていた。
母の突然死。弟の真実への執着。そして、南のリフトから這い出てきたリフター。
アドヴァはもう動き出していた。
ロザリアを通り越して、麻のカーテンを押し上げる。
そして初めて、アドヴァは息絶えた弟の目前に立ってその姿を見下ろした。
「エド、ごめんな。俺は兄貴失格だ。」
アドヴァは石台から無造作に投げ出された弟の腕を掴んで、その胸元の上で交差させる。
「お前が追い求めてきたもの、俺が肩代わりしてやる。」
最後に、兄は亡き弟の瞼をそっと閉じてあげた。
「大丈夫。だから、もう眠れ。」




