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第1章:鬼ヶ島からの脱出Ⅶ『二人目』


   ― Ⅲ ―


 廊下には他に二つほど扉があったが、どちらも中は空であった。


 仕方なくもう一本の通路へ移動した時、奥の小部屋から物騒な物音が響いた。扉ごしに、なにやら興奮した男のだみ声が漏れ聞こえる。


「おらッ! そこだっ、潰せ潰せ!」


 息を殺しながら中を覗けば、大量の木箱や樽が積まれた小汚い部屋の中央に、二人の赤鬼がいた。

 そのうち一人は木箱に腰かけながら耳ざわりな喚声(かんせい)をあげ、もう一人は巨大な金棒を振りまわし、何度も床に叩きつけている。


 なにをしているのかと思えば、彼らの足もとには、縦横無尽に駆けまわる小さな影があった。


 ――ネズミだ。


 日ノ本のネズミよりもずいぶんと大きい、飴色(あめいろ)の毛をもつ仔犬ほどの獣が、短い手足を駆使して懸命に鬼の鈍器から逃れていた。


 醜悪な笑みを浮かべる鬼の表情から察するに、どうやらこの小さな獣をいたぶりながら叩き潰す〝遊び〟をしているらしい。


 ネズミの胴には頑丈な鉄輪がはめられ、長く伸びた鎖の先にはネズミと同じくらいの大きさの鉄球がついている。なんとも悪趣味な絵面だ。

 東雲はそれらの様子を白けた視線で眺めた。


 人間の腕力では持ちあげるのもやっとであろう大振りな金棒を、片手で軽々とあつかう鬼の剛腕には戦慄を覚えるが……。

 どうにもやっていることが下劣で幼稚なため、素直に恐怖する気分になれない。


(それにひきかえ……)


 ネズミの身のこなしはなかなかのものである。圧倒的に不利な条件下にも関わらず、襲いくる凶器をすべて紙一重でかわすさまは、獣ながら天晴(あっぱれ)と言わざるをえない。


 次第に獣の不規則な動きに翻弄されて、赤鬼の方が肩で息をしはじめた。観戦している片割れのあざけるような野次もあいまって、相当イラだっているのが見てとれる。


 ネズミの走りを追うようにジャラジャラと蛇行する長い鎖部分をつかまえれば手っ取り早いものを、そうする素振りがないということは、やはり娯楽の側面が強いのだろう。


 おおかた仕掛けたのは鬼の方であろうに、思うようにいかぬと腹をたてようとは、ずうたいに似合わずみみっちい懐の浅さである。


 ついには、文字通り足もとにもおよばない矮小(わいしょう)な獣にむかって、口汚く喚き散らしだした。



「ちょこまかしやがって! 調子こいてんじゃねーぞ、クソ汚ぇドブネズミが!!」


「ドブネズミではない!!」




(――……あ?)


 しゃべった……。



 東雲はぎょっとネズミを凝視した。――……聞き間違いだろうか?

 驚きのあまり硬直する東雲の目の前で、ネズミは鬼相手に臆することなく胸を張り、高らかに名乗りをあげた。



「我こそは、誇り高きチミー族の戦士トト! 弱きを虐げ、暴利をむさぼるしか能のないデクの坊どもに、決して屈しはせぬ!!」


 凛としたその声は、磨きあげられた一本鎗を想わせる鋭さをもって、よどんだ空気を切り裂いた。


 屈辱的な窮地にありながら威風堂々たるその姿は、(からだ)こそ小さくとも歴としたひとかどの勇士である。


 目を奪われるとはまさにこのこと。

 東雲だけではない――鬼ですら、この小さき者の雄々しい覇気に呑まれた。



 その一瞬の隙を獣は見逃さなかった。


 雷光のように駆け抜け、荷の山に躍りあがると、積み上げられた樽のひとつに長い鎖を引っかけた。ごろりと樽が倒れ、したたかに床へとぶつかる。

 木蓋がはねとび、中から琥珀色の液体が飛散した。――油だ。

 ぶちまかれた薄い波が、瞬く間に床全体へと広がった。


「っ、積み荷を!? よくもッ!」


 慌てて伸ばされた手をひらりとかいくぐり、そのまま下へ飛び降りると、鬼の足首へ長い鎖を絡ませる。

 体勢を崩した鬼は、油で滑る床へもんどりうって倒れた。


 流れるような見事な策である。


 たたみかけるように、ネズミは倒れた鬼の太い首へ鎖を巻きつけるや、そのでっぷりとした赤黒い脇腹に思いっきり噛みついた。

 皮膚を食い破る痛みに飛びあがった鬼の動きにつられ、鎖の先端につけられた鉄球が、重力という助けを得てその首を絞めあげる。


(――……入ったッ)


 狙ったのか、はたまた偶然か。

 鎖が食い込んだ位置は、ちょうど太い血管が通る人体の急所であった。あそこを圧迫されると、脳への血流が遮断され、人間ならばものの数秒で落ちる。

 どうやらその点は鬼も変わらないらしかった。


 みるみるうちに瞳の焦点があわなくなり、混乱極まった赤鬼は、的外れにも食らいついたネズミをひっぺがそうと奮闘した。

 しかし暴れれば暴れるほど、鉄球がギリギリと首を絞めつけ――ついには泡を吹いて失神した。


 鬼の巨躯が倒れゆく刹那の光景が、東雲の眼に、やけにゆっくりと焼きついた。




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