第1話 ジャスティス・リーグ その5
俺は女に手を引かれるまま夜の街を歩いた。先ほどから女は泣き通しで、誰かに見られたら通報されてもおかしくない光景だったが、幸いなことにすれ違う人はいなかった。
しかし、何故この女はここまで泣いているのだろう。怪我をしている人を見るのが初めてなのか。それとも、血を見るのがよほど苦手なのだろうか。
そんなことを考えていると、女はふいに「天道ひよりです」とだけ呟く。それが自己紹介だと俺が気づくのは、言われてから十数秒後のことだった。
俺は慌てて「本郷翔太朗です」と名乗ったが、天道の方からは何も返ってこなかった。天道の住むマンションまで歩く5分間で、俺達の間に交わされた言葉はそれだけだった。
天道の部屋は高層マンション最上階の角部屋だった。玄関にはやたら大きな観葉植物。廊下の壁に掛かっているのは水彩の風景画。玄関に入った瞬間に理解した。この女は、俺なんかとは住む世界が違う。
俺はよほど「もう結構です」と言って帰りたくなったが、ここまで来てしまった以上そういうわけにもいかず、案内されるままリビングへと足を踏み入れた。
大きな窓から入り込む月明かりと、暖色の間接照明で優しく照らされたその世界は、どこからともなく聞こえてくるクラシック音楽で満ちている。あちらを見れば壁に埋め込まれたテレビ。こちらを見ればやたら大きなソファー。向こうを見ればシックではあるが明らかに高級そうなダイニングテーブル。足元を見れば細かい刺繍があしらわれた絨毯。その他諸々。まるでモデルルームみたいな部屋だ。こんなところに住んでいて気疲れしないのだろうか。
促されるままソファーに座ると、天道は「少しそちらでお待ちください」と言ってその場を離れ、何かを取りにリビングを出ていく。ただ座っているだけで落ち着きが無くなってきて、手持ち無沙汰になった俺は、ソファーに置いてあった読みかけの雑誌に手を伸ばす。開いてみるとそこにあったのは、百白がキザに笑った不快なピンナップ。表紙を改めて確認すれば、それは来華も愛読するヒーロー専門誌――〝Hero,s〟だった。
あの女、タマフクローと会った時は「ヒーローなんて嫌いです」みたいな顔していやがったくせに。雑誌に載るようなヒーローは大好きで、俺みたいな無名ヒーローは顔も見たくないってわけだ。慣れたものだが、やはりどこか虚しく感じてしまうのが人情というものだろう。
「――ヒーローはお好きですか?」
いつの間にか救急箱を手にリビングに戻っていた天道がそう問いかけてくるのを聞いて、俺は慌てて雑誌を伏せる。ちらりと顔を見てみれば、目を赤く泣きはらしていたものの、涙自体は既に止まっていた。
「すいません。そういうわけではないんですけど、つい手に取ってしまって」
「そうですか」
「そうなんです。天道さんはヒーローがお好きなんですね」
「ええ。兄の影響で」と短く答えた天道は、それから俺の傷の手当てを始めた。こびりついた血を丁寧にふき取り、消毒液を含ませた脱脂綿で傷をなぞり、傷口にガーゼを当てて、大げさにも包帯までぐるぐるに巻いた天道は、どこか安心したように息を吐き、それから「そこに座っていてください」と俺に指示した。
「いま、ココアでも入れてきますから」
「いや、そんなお構いなく」と俺は慌てて腰を浮かすが、「座っていなさい」と強く言われれば、浮かした腰を落ち着かせざるを得ない。
「あなたは怪我人なんです。お願いですから、わたしの言うことを聞いてください」
そう言い残してリビングを出て行った天道は、5分ほど後、ふたつのカップを持って戻って来た。そのうちのひとつを「どうぞ」と差し出し、自分はもうひとつを持って、何故か天道は俺の横に腰かける。「これだけ広い家なんだから、もっと離れたところに座ればいいだろうに」とは、思っていても口には出せなかった。
居心地の悪さを感じながらも、じっと黙って甘いココアをすすっていると、天道はふいに口を開いた。
「……本郷さん。喧嘩が弱いのに、あんなことしちゃだめです」
まあそれが仕事なものでなどと言うわけにもいかず、俺はとりあえず「すいません」と謝った。「でも、どうしても天道さんを助けたかったんです」
すると今度は向こうが「すいません」と謝ってきて、それからはまた気まずい沈黙の時間が流れた。
ココアを飲み終え、俺に来客用の寝室を案内した天道は、「お先に失礼します」と言って自分の寝室に引っ込んだ。30分ほど待って、天道の寝室から寝息が聞こえてくるのを扉越しに確認した俺は、手当への礼を書いた手紙をテーブルに残し、朝日が昇るよりも先にマンションを後にした。
〇
テスト期間終了日の昼過ぎ。司は学校帰りにわざわざ俺の家までやってきて、ファントムハートの現場復帰を堂々宣言した。クソが付くほど真面目なヤツだ。せっかくだから、もう少し休めばいいだろうに。
それだけ伝えに来たのかと思いきや、どうやらそうではないらしく、司は「邪魔するぞ」のひと言もなく俺の家へ上がり込む。自分の定位置であるソファーに座り、ふんぞり返って「まあ貴様も座れ」と言われれば、どちらが家の主だかわからない。
言われたままにソファーへ座ると、司は「復帰するに当たって」と話を切り出した。
「引継ぎが必要だろう。私が休んでいる間、この街に何があった?」
「特に何もねぇよ。いつもの通り平和だった」
「馬鹿がひとりも出なかったわけでもあるまい。迷惑をかける酔っ払いはいなかったのか? 若者同士の喧嘩は? あのヒーローの紛い物連中は性懲りもなく現れなかったか?」
「面倒くせぇヤツだな」という喉まで出かかった言葉を寸前のところで呑み込む。そんなことを言えばまた喧嘩になるのは目に見えているからだ。
適当な報告と並行して、このクソ真面目ヒーローをどうやって追い返そうかと思案していると、丁度いいところで俺の携帯が鳴ってくれた。ディスプレイを見れば、八兵衛からの電話だ。これで家を出なければならない理由をでっち上げられそうだ。
一本立てた人差し指を唇の前に持っていって、「黙ってろ」というジェスチャーを司に送り通話を繋げる。『やあタマフクロー!』という八兵衛の声はすぐに返ってきた。
『この前は悪かったね。せっかく店まで来てもらったっていうのに、スーツのメンテナンスをしてあげられなくって』
「いいんだ。それより、そっちが構わないなら今から行ってもいいか? なんだかスーツの動きが悪い気がしてな」
『構わないよ。それに、こっちも君に用事があったんだ。君にお客さんが来ててサ』
「誰だ、その客ってのは」
『たいしたことのない人だよ』
八兵衛はあっけらかんとした調子で言った。
『〝元〟アージェンナイトの百白が来てるんだ。君に頼みたいことがあるってね』
〇
マスクドライドの硝子扉を押して開けると、紫煙渦巻く店内には本当に百白がいた。よく自分をボコボコにした相手と再び会おうなんて考えるものだ。胆が据わっているのか、何も考えていないのか、それともよほど困っているのか。
俺が店に入ってきたのを横目に見た百白は、「待ってたよ!」と言いながらさも嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきて、俺の手を取り固く握りしめてきた。あまりに友好的過ぎて気味が悪い。何か悪いものでも食ったのだろうか。
「元気そうで何よりだよ、本郷クン。いや、本当に」
「挨拶はいい。さっさと用件を言え」
「そうだね。そうする」
ふたり並んでカウンター席に座ると、キッチンの奥から八兵衛と愛宕が遠巻きにこちらを眺めているのが視界に映る。ここが一応喫茶店なら、せめてコーヒーくらい運んできたらどうなんだ。
「それで、キミに来てもらった理由なんだけどさ」と百白は話を切り出す。その表情はやけに沈んでいた。
「お願いがあるんだ。……ボクの、専属ボディーガードになってくれないかな?」
「……なんだそりゃ」
詳しい話を聞いたところによると――先日、百白の元へ一通の手紙が届いたらしい。新聞の切り抜きを使って文面が作られたそれには、『生きているのが嫌になるほど痛い目に遭わせてやる』といった内容のことが書かれていたとのことだ。
百白だって有名人だ。〝過激なファンレター〟に慣れていないわけではなかったが、ファンには知られていないはずの実家にも同じ内容の手紙が届いたことや、行きつけのレストランのいつも座る席に手紙が置いてあったこと。何より、その手紙の差出人を見て気が気でなくなった。
「その手紙にはね……〝バランサーより〟って書いてあったんだ」
バランサーというのは、例の〝ヒーロー狩り〟のことだ。もうヒーローじゃないコイツを狙うなんて、存外暇なヤツらしい。
「そんなの、警察に相談すりゃいいだけの話だろ」
「だ、ダメだよ! 警察沙汰なんかになったらボクのイメージに傷がつくじゃないか!」
「それならお前の取り巻きに頼め」
「ヒーローを辞めたらみんなボクの周りから離れていったよ。薄情なものだよね」
「だったらご自慢のスーツを着て返り討ちにしろよ。出来んだろ、それくらい」
「ボクが眠ってる時に襲われたらどうするのさ!」
「…………生きてるのが嫌になるほど痛い目に遭え」
「そんな冷たいこと言わなくたっていいだろう?! こんなこと頼める友達はキミくらいしかいないんだよぉ!」
俺はいつからお前と友達になったんだ。懐疑の視線を向けてみるが百白は知らぬ顔だ。面の皮の厚さは、ヒーローを辞めて今もなお健在らしい。
ここでコイツを見捨てることは簡単だ。「勝手にしろ」と言って帰ってしまえばそれで終わる。別に俺にはコイツを助ける義理は無いし、ヒーロー狩りに襲われたとしても人から恨みを買う生き方をしているコイツが悪いだけの話だ。
……でも、俺が何もしなかったせいでコイツが怪我でもすれば、きっと寝覚めが悪くなる。それは避けたい。ヒーローにとって寝不足は大敵だ。
「……わかったよ。何とかしてやる」
「本当かい?!」と百白が俺の手を握る。俺はそれを軽く振り払いながら、「ただし」と続けた。
「条件がある。俺の言うことは絶対だ」




