抑圧された聖女と騎士団長は求め合う。
【登場人物】
彼女――聖女
神殿で祈るだけの日々に疑問を抱く若き聖女。戦場で自分を守り続けた彼を深く求めている。
彼――騎士団長
王国騎士団を率いる寡黙な男。彼女を愛しているが、自分はいつ死ぬか分からないと距離を置いている。
白いブラインドは下ろされていた。
隙間から差し込む夕陽が、壁に細い縞をつくっている。
明日の朝、彼女は神殿へ戻る。
彼は再び戦場へ向かう。
二人は黒いソファに並んで座っていた。
触れてはいない。
けれど、少し身じろぎすれば肩が重なるほど近かった。
「支度は済んだのか」
彼が尋ねた。
「いいえ」
「夜明けには迎えが来る」
「分かっています」
戦場では迷わず命令を下す人が、今は彼女を見ようともしない。
その横顔を見つめているうちに、胸の奥で何かが切れた。
「帰りたくありません」
彼の指がわずかに動いた。
「神殿へ戻れ」
「嫌です」
彼がようやく彼女を見る。
これまで一度も命令に背かなかった聖女が、初めて彼の言葉を拒んだ。
「神殿なら安全だ」
「安全な場所で、祈り続けるだけです」
「それがお前の務めだろう」
「朝も夜も、国のために祈ります。傷ついた人々のために祈ります。そして、戦場にいる貴方が生きて帰るように祈ります」
彼女は膝の上で両手を握った。
「次の日も、その次の日も同じです。いつか使者が来て、貴方の訃報を告げるまで」
「やめろ」
低い声だった。
「貴方は、いつ死ぬか分からない」
「戦う者は皆そうだ」
「私だって、明日まで生きている保証はありません」
彼女は彼へ向き直った。
「それなのに私は、何も選ばず、何も求めず、祈って一日を終えるのですか」
彼は答えない。
「そんな人生は嫌です」
彼女は立ち上がった。
帰るためではない。
彼の正面に立つために。
「今夜のことを忘れて、神殿へ戻れ」
「できません」
「俺の命令だ」
「今夜だけは従いません」
彼女は自ら、彼の膝へ腰を下ろした。
彼の瞳が揺れる。
腰へ添えられた手は、抱き寄せることも、押し返すこともしなかった。
「降りろ」
「嫌です」
両腕を彼の首へ回す。
戦場で誰よりも冷静だった騎士団長の呼吸が、わずかに乱れた。
この人も自分を求めている。
ずっと同じものを抑えてきたのだ。
「貴方に求められたいだけではありません」
彼女は彼の額に、自分の額を重ねた。
「私が、貴方を欲しいのです」
彼の手に力が入る。
「自分が何を言っているのか分かっているのか」
「分かっています」
「今夜ここに残れば、以前のお前には戻れない」
「戻りたくありません」
迷いのない答えだった。
「聖女としてではなく、一人の女として見てください」
「そんなことをすれば、もう手放せない」
「手放さないでください」
彼女が唇を重ねようとした瞬間、手首をつかまれた。
少しだけ強い力だった。
「勝手に動くな」
叱るような低い声に、彼女の肩が震える。
彼はすぐに力を緩めようとした。
だが彼女は逃げず、つかまれた手首を彼の掌へ預け直した。
「……離さないでください」
潤んだ瞳で彼を見上げる。
長い睫毛の縁に、薄く涙が滲んでいた。
悲しいのではない。
自由を奪われ、胸の奥へ隠してきた欲望まで見抜かれる羞恥が、彼女の瞳を濡らしていた。
「泣くほど嫌なのか」
彼女は小さく首を横へ振る。
「違います」
「では、なぜ泣く」
答えを求める声がさらに低くなり、頬が熱を持つ。
「貴方にこうされると……もっと命令してほしくなるからです」
彼の瞳が鋭くなる。
彼女は身を縮めながらも、その視線から逃げなかった。
「命令されるのが好きなのか」
「分かりません」
「嘘をつくな」
彼女は目を伏せかけ、思い直したように彼を見上げた。
「……貴方にだけです」
かすかに震える声だった。
けれど、その答えには迷いがない。
「貴方に逆らえないと思うと、安心するのです。少し怖い声で命じられると……もっと従いたくなります」
「俺が止めろと命じても?」
彼女の瞳が揺れた。
「それは、嫌です」
「都合がいいな」
「はい」
恥じらいながら、それでも彼女は微笑んだ。
「だから、叱ってほしいのかもしれません」
彼の親指が、滲んだ涙を拭った。
優しい指先だった。
「俺は、お前を傷つけたいわけではない」
「分かっています」
「嫌なら必ず言え」
「はい」
「声が小さい」
「必ず言います」
彼はしばらく彼女の目を見つめ、つかんでいた手首を自分の肩へ導いた。
「では、今は動くな」
彼女は従った。
彼の手が後頭部へ回る。
逃げ道を塞がれたまま、唇を重ねられた。
深く、熱く、彼が長く押し殺してきたものが滲む口づけだった。
彼女は命じられた通り動かなかった。
ただ、彼の肩をつかむ指先だけが震えている。
唇が離れた。
「よくできた」
耳元で囁かれた瞬間、彼女の瞳へ再び涙が浮かんだ。
「なぜ泣く」
「嬉しいからです」
「褒められる方が好きなのか」
彼女は迷ってから、小さく答えた。
「叱られた後なら」
彼の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
その表情を見て、彼女はもう逃げられないことを知った。
逃げたいとは、少しも思わなかった。
「もう一度、口づけてください」
「頼み方が違う」
彼女は息を詰めた。
何を求められているのか分かっていた。
それを言葉にさせられることさえ、胸を甘く疼かせる。
「命令してください」
「俺に口づけを求めろ」
涙で揺れる瞳が彼を見上げる。
「私に口づけてください。もっと深く……何も考えられなくなるくらい」
今度は、彼女が言い終える前に唇を塞がれた。
彼の腕が腰へ回り、身体を強く引き寄せる。
彼女も自由になった腕を首へ絡め、夢中で応えた。
息を継ぐために顔が離れる。
口づけは頬から耳の下へ移り、首筋へ落ちた。
彼女の背が小さく反る。
「声を抑えるな」
「でも……」
「誰にも聞こえない」
白いカーテンの向こうに、人の気配はない。
この部屋だけが、世界から切り離されている。
もう一度、首筋へ唇が触れた。
今度は隠せなかった。
漏れた声を恥じて顔を伏せようとすると、顎を持ち上げられる。
「隠すな」
「恥ずかしいのです」
「俺に見られるのが?」
彼女は首を横へ振った。
「見られて嬉しいと思っていることが……恥ずかしいのです」
「もっと触れてほしいか」
彼女は頷く。
「声で答えろ」
「もっと、触れてください」
「どこに」
意地の悪い問いだった。
けれど彼女は、もう命令の陰に隠れなかった。
彼の手を取り、自分の胸元へ導く。
衣装の上から、その掌を重ねた。
「私が貴方を求めていると、分かるところに」
彼の息が止まった。
「震えている」
「貴方のせいです」
彼女は彼の手袋をゆっくり外した。
現れた手には、剣を握り続けた傷がいくつも刻まれている。
その手を両手で包み、一つひとつの傷へ唇を触れさせる。
「この手が好きです」
「傷だらけだ」
「私を守ってくれた手です」
彼女はその掌を、自分の頬へ寄せた。
「でも今夜は、守るためだけに使わないでください」
素手の指が頬を包む。
親指が下唇をなぞり、首筋へ下りていく。
衣装の縁へ届いたところで、動きが止まった。
「戻れなくなるぞ」
「戻るつもりはありません」
彼女は背中の留め具へ手を伸ばし、自ら一つ外した。
白い布が肩からわずかに滑る。
露わになった肌へ、彼の視線が落ちた。
思わず身体を隠しかけた彼女を、低い声が止める。
「手を下ろせ」
彼女は従った。
潤んだ瞳で彼を見上げながら、両手を膝の上へ戻す。
隠すことを許されない羞恥に、身体が熱くなった。
「見てください」
彼女は囁く。
「聖女ではなく、一人の女として」
彼の指が、露わになった肩へ触れた。
肩から鎖骨へ。
素肌の輪郭を確かめるように、ゆっくりとなぞる。
彼女はその感触を追うように背を反らした。
「もっと……」
「命令を忘れたのか」
彼女は動きを止める。
「勝手に動くなと言った」
「ごめんなさい」
「謝るだけか」
彼女の瞳が、期待と羞恥に濡れた。
「叱ってください」
その告白に、彼の理性が揺らぐ。
彼は彼女の腰を抱き、一息に引き寄せた。
胸と胸の間に残っていた隙間が消える。
「俺以外の前で、そんな顔をするな」
「しません」
「その涙も、その声も、すべて俺の前だけにしろ」
彼女は上目遣いに彼を見つめた。
「はい」
「よくできた」
褒められた瞬間、頬を一筋の涙が伝った。
彼はそれを唇で拭う。
頬へ。
瞼へ。
そして再び、唇へ。
彼女も彼の上着の留め具へ指をかけた。
一つ。
もう一つ。
黒い衣服の下から、戦いで鍛えられた胸元が覗く。
そこへ掌を当てると、彼の鼓動もまた速くなっていた。
「貴方も震えている」
「お前のせいだ」
「嬉しいです」
彼女はその胸へ口づけた。
次の瞬間、身体が持ち上がる。
彼に抱き上げられ、反射的に首へ腕を回した。
「最後に聞く」
彼は彼女を抱いたまま、真っ直ぐに見つめる。
「本当に、俺を選ぶのか」
彼女は迷わなかった。
「神殿で貴方の無事を祈る人生ではなく、貴方の隣で明日を恐れる人生を選びます」
「後悔しても戻れない」
「後悔するなら、貴方を求めずに帰ったときです」
彼女は彼の頬へ手を添えた。
涙で濡れた瞳には、もう迷いはなかった。
「命令してください」
「何を」
「もう二度と、祈るだけの人生へ戻るなと」
彼は彼女をソファへ静かに横たえた。
覆いかぶさることはせず、最後の許可を待つように動きを止める。
彼女は自ら腕を伸ばし、彼を引き寄せた。
「命令だ」
唇が触れる寸前で、彼が囁く。
「俺のそばで生きろ」
彼女は涙目のまま、幸せそうに微笑んだ。
「はい」
その返事とともに、残っていた留め具が外された。
白い衣装が静かにほどけ、彼の黒い上着が床へ落ちる。
カーテンの隙間から差していた最後の光が消えた。
暗くなった部屋の中で、彼女はもう祈らなかった。
命じられるたびに彼を求め、褒められるたびに涙を浮かべながら、ただ一人の男へ自分のすべてを委ねていった。




