壊れても朝は来る
「最近、ちゃんと笑えてる?」
いつ、誰に聞かれたのかは覚えていない。
ただ、その言葉だけがずっと頭に残っていた。
ちゃんと笑えているか。
そんなこと、考えたこともなかった。
笑うことは仕事だった。
楽しいから笑うのではなく、笑うことが当たり前になっていた。
だから、本当に笑っているのかどうか、自分でも分からなくなっていた。
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朝が来るのが怖かった。
目が覚めるたびに、現実が始まる。
大学。
アルバイト。
支払い。
返さなければならないお金。
やらなければならないこと。
考えなくてもいいように眠っていたのに、目を開けた瞬間、全部が戻ってくる。
布団から出られない日があった。
身体が重いわけじゃない。
熱があるわけでもない。
それなのに、指一本動かすことさえ難しかった。
天井を見つめながら、時計の針だけが進んでいく。
一限は終わった。
二限も始まる。
私はまだ、布団の中にいる。
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「何やってるんだろう。」
そんな言葉ばかり浮かんだ。
頑張らなきゃ。
ちゃんとしなきゃ。
みんなできているのに。
どうして私はできないんだろう。
責める相手は、いつも自分だった。
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泣く理由も分からなかった。
テレビを見ていても。
ご飯を食べていても。
お風呂に入っていても。
急に涙が出る。
止めようとしても止まらない。
「大丈夫。」
そう何度も言ってみる。
でも、一番その言葉を信じていないのは自分だった。
⸻
ある日、勇気を出して心療内科へ行った。
待合室は静かだった。
雑誌を読んでいる人。
目を閉じて座っている人。
誰も話さない。
誰も笑わない。
その空気が少しだけ安心できた。
ここでは無理に元気なふりをしなくていい。
そう思えたから。
名前を呼ばれ、診察室へ入る。
白衣の先生は穏やかな声で言った。
「今日はどうされましたか?」
その一言で、涙があふれた。
話そうと思っていたことは全部消えてしまった。
「苦しくて……」
それしか言えなかった。
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先生は急かさなかった。
静かに頷きながら話を聞いてくれた。
学校のこと。
夜の仕事のこと。
眠れないこと。
朝起きられないこと。
何もやる気が起きないこと。
話しているうちに、自分でも気づいていなかった疲れが少しずつ言葉になっていった。
「少し休むことも必要かもしれませんね。」
先生はそう言った。
休む。
その言葉が怖かった。
休んだら置いていかれる。
単位を落とす。
夢が遠ざかる。
収入が減る。
私には休む資格なんてないと思っていた。
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処方された薬を手に帰る。
小さな錠剤だった。
こんな小さなもので、本当に変われるのだろうか。
半信半疑で飲み始めた。
すぐには何も変わらなかった。
朝は相変わらず苦しかった。
涙も止まらなかった。
でも、「治りたい」と思えたことだけは、少しだけ救いだった。
⸻
時間が経つにつれ、周りとの距離を感じるようになった。
友達のSNSには楽しそうな写真が並ぶ。
旅行。
飲み会。
大学祭。
笑顔。
私は「いいね」を押して、画面を閉じる。
羨ましかった。
でも、その輪に入りたいとは思えなかった。
今の自分を見られたくなかった。
「最近どう?」
そう聞かれることが怖かった。
「元気だよ。」
また嘘をつく自分が嫌だった。
⸻
夜の仕事だけは休めなかった。
生活がある。
家賃がある。
支払いがある。
店へ行けば、私はまた笑う。
「こんばんは。」
その声は、昼間の私とは別人だった。
お客さんに「いつも元気だね」と言われるたび、心の中で苦笑いする。
もし本当の私を見たら、同じことを言えるのだろうか。
⸻
ある日の帰り道。
始発前の静かな駅を歩いていた。
街は眠っている。
鳥の声だけが聞こえる。
空が少しずつ明るくなっていく。
朝だった。
私は夜を越えたのに、少しも達成感はなかった。
むしろ、「また今日が始まる」という絶望の方が大きかった。
朝日が眩しかった。
きれいだとは思えなかった。
⸻
部屋へ帰る。
カーテンを閉める。
朝なのに、部屋だけが夜になる。
布団へ潜り込む。
眠れる日は眠る。
眠れない日は天井を見つめる。
時計の秒針だけが、規則正しく音を立てていた。
その音だけが、「時間は進んでいる」と教えてくる。
私だけが止まっている気がした。
⸻
それでも、不思議なことがあった。
どんなにつらい日でも。
どれだけ泣いた夜でも。
朝は必ず来る。
望んでいなくても。
準備ができていなくても。
太陽は昇る。
世界は動き続ける。
そのことが残酷であり、同時に少しだけ救いでもあった。
今日を越えられなかったとしても、明日はまた来る。
昨日できなかったことが、明日もできないとは限らない。
そう思える日は、まだ少なかった。
それでも、ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
「生きてみようかな。」
そんな気持ちが、心の奥の奥で、小さな灯のように残っていた。
壊れたままでも、人は朝を迎える。
そして朝は、壊れた人を置き去りにはしない。
何度でも、静かに訪れる。
まるで、「今日からやり直してもいい」と言ってくれているように。




