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艦が完全に惰性を失った瞬間、ブリッジは張り詰めた静寂に包まれた。
計器の針が揺れ、推進器の回転数を示すランプがゆっくりと落ちていく。
「……なぜ停止した? 状況を報告せよ」
副長の問いに、通信士が受話器を押さえながら答える。
「補機区画より――“故障発生、修理中”とのことです!」
副長は眉間に深い皺を刻んだまま、現在地を示す海図の上に視線を落とした。
そこには、トルコ沿岸の等深線がくっきりと浮かんでいる。
「……やはり、“計画”は生きていたようだな。どうするつもりだ、曹長?」
フリンツはしばらく黙っていた。
艦内の振動が消えたことで、ブリッジは異様なほど静かだった。
やがて、彼は短く告げた。
「手の空いている乗員を全員、ブリッジへ」
数分後、狭いブリッジに十数名の乗員が肩を寄せ合うように整列した。
その列の後ろから、二人の衛兵に挟まれたヴァルターが引き出される。
手錠の鎖が、静寂を切り裂くように冷たく鳴った。
フリンツはゆっくりと歩み寄り、ヴァルターの正面に立つ。
「これより国防軍刑法に基づき、
指揮官代理フリンツ・ヴェーバー曹長を裁判長として、臨時軍法会議を開廷する」
ブリッジの空気が凍りついた。
「被疑者、ヴァルター・グレーべ伍長。
国防軍刑法第69条――“敵前逃亡・亡命企図”。
同第91条――“上官殺害”。
以上二件の重大犯罪により、貴官を起訴する」
フリンツの声は、感情を押し殺した機械のように響く。
「伍長、弁明はあるか」
ヴァルターは答えなかった。
ただ、深く沈んだ瞳で見つめ返している。
フリンツは短く息を吐いた。
「……ならば、このまま判決を言い渡す」
乗員たちの間にざわめきが走る。
「被疑者ヴァルター・グレーべを、
国防軍刑法第69条および第91条に基づき、
銃殺刑に処す。
判決は即時執行とする」
フリンツは腰のホルスターからルガーを引き抜き、迷いのない動作でヴァルターの眉間に突きつけた。
ヴァルターは微動だにせず、ただフリンツの目を見つめる。
引き金にかけたフリンツの指が、わずかに震える。
「曹長!」
しびれを切らした副長が、一歩踏み出そうとした、その時――
「うっ……!」
整列していた乗員の一人が、突如として喉を掻きむしり、膝から崩れ落ちた。
続いて別の者が激しく咳き込み、鼻を突く強烈な刺激臭がブリッジを支配した。
「な、なんだ……? ガス漏れか……!」
「蓄電池だ! バッテリー室が浸水してる!」
空気が急速に刺激臭を帯び、視界が揺らぎ始める。
- その場に伏せる→P.113
- フリンツの銃を奪う→P.114
- 目立つ動きはしない→P.115




