嵐の目前にて(上)
——顔が熱い。
違う、熱ではなく痛みだ。
痛い。まるで焼けるように痛む。
ずっとそうだったのだ。
生まれてからずっと、この黒い、痛みに満ちた牢獄に閉じ込められていた。
見えるものと言えば、細く開いた窓の外だけ。それにもすっかり慣れてしまった。
気付けば何かに急きたてられて、見知らぬ宮殿を駆けていた。
かつてあれほど輝いていた大広間。
そこは今や血と瓦礫に塗れ、人間の悲鳴と断末魔が絶え間なく響き渡る。
何かが割れる音がした。
窓が割れる。闇が罅割れる。亀裂から視界が広がっていく。
細い窓枠以外、黒く塗り潰されていた世界が、鮮やかに色づいていく。
がしゃんと、足元で何かが音を鳴らした。
長らく顔の一部と化していたそれが、足元に転がっている。
ああ、仮面だったのだ。
足を持ち上げる。仮面の残骸を踏みにじり、そのまま駆け出した。
かの男は、まだ死んでいない。
理屈ではない。本能で分かる。
痛いほどの疼きが体に走る。耳鳴りがする。
ここにいる、銀の髪を探せ。
見つけたら、殺せ。
「…………?」
そこでシノレは目を覚ました。
寝たはずなのに、何だかぐったりと疲れていた。気怠い体を動かして、支度をする。剣を収めた長櫃は、変わらず部屋の向こうに存在していた。何となく今朝は、不機嫌そうな気配を感じる。
最近……今月に入ってから、だろうか。何故か時々、変な夢を見る。
「……何なんだろ」
シノレは首を傾げた。そして、半ば習慣と化した剣との対話に取り掛かった。
(……おーい、おーい……聞こえてる?朝だけど、調子どう?)
魔力を流しながら、特に意味もなく呼びかけてみる。応答があったことは一度もない。感覚的に、漠然と、機嫌の良しあしのようなものを感じないでもないが……単なる錯覚かもしれない。
「……何なのかなあ」
聖者と出会ってからずっとだ。色々不可解なことが増えて行っている。どうなっていくのかさっぱり分からない。分からないことは考えても仕方がない。
その日もシノレはいつも通り、朝の支度を終えた。
「…………起きたか、シノレ」
「はい、おはようございます。師範」
聖者は未だ静養中とのことなので、シノレは勉強に励むことになった。しかし、今は戦時中である。楽団の侵攻のみならず、北部にも謀反で亀裂が入っている有り様だ。人々が不安を覚えないはずがない。
「……最近は、城内が張り詰めているな。聖者様がいらっしゃる分、他所よりはましなのだろうが」
「そうですね」
ここまで周囲が張り詰めていれば、いつも通り勉強が進むはずもない。教育係もあまり身が入らないようで、
「……一旦現状を整理しておくか。シノレ、これを見ろ」
遂に、地図を広げてそう言い出した。シノレは瞬きをしてから、大人しく「はい」と頷く。
「まずは北からにするか……ここからここまでが、医師団だ。これまでに公に目立った動きは見せていない。まあ恐らく水面下で暗躍しているのだろうが……そして、医師団と接しているのがこのツェレガだ」
教育係の指が、南へと下り、楽団の北端の州を差した。
「ここの前の長は、先だっての白竜の襲来で死んだ。それによって起こった争いによって、今は内部で複数に割れている状態だ。一枚岩ではないからそこまで警戒するには及ばないだろうが……仮に一つの勢力が台頭してきたなら、注意すべきだろう」
「北の地方は、他にない資源があり重要ですからね。氷玉とか魔晶石とか、武器の材料とか」
「そうだ。そして、総帥の統治するオルノーグ。ここもまた、大きな異変や他所への直接的介入は行っていない。息子たちに争わせて、高みの見物といったところか。まあ、敵対関係にないのならそれで良い。そして、その東側にあるのがブラスエガだ」
ツェレガの丁度中央辺りから、東西に分かれるようにして、オルノーグとブラスエガは位置している。そしてブラスエガの東は教団と接する。
「ここは現在、アルデバランとバルジールの争いが起こっている。これは継承戦の一環故、中々収まらないだろうな。下手をすればどちらかが死ぬまで続くだろう。更に、教団の側でも分裂が起こった。ここが、リゼルド様が包囲していたサダンだ。そしてその東にある、このルアードが反乱の拠点と化した。この一帯は現在、ルドガーの手中に落ちている」
とてつもなく忌々しそうなため息混じりで言った教育係に、シノレは質問した。




