青き夜の底で
今日は、どんな日だっただろう。どこか覚め切らない頭で思い出したのは、リシカの叫び声だった。
(そうだ……私……奥方様に呼ばれて……)
散々怒鳴られ、詰問され続けて――疲労困憊して、帰るなりふつりと意識の糸が切れてしまったのだ。
異母兄のルドガーが反旗を翻し、蜂起した。そのごたごたで兄が負傷した。この上更に何か起これば、教団が本当に瓦解しかねない。
こんなことを母に聞かせるわけにいかない。長年自分たち兄妹を守ってくれた母に、これ以上の心労をかけるわけにいかなかった。
「…………ひどい顔」
何気なく硝子窓を見ると、虚ろな目の黒髪の少女が映っている。無理矢理口角を上げて、ため息をついた。ぼんやりと空を見て、今夜は満月だったと思い出した。
「……日が沈むのも、早くなりましたね……」
空は既に暗くなっていた。それに何故か、酷い疲労を覚えて目を閉じた。
――……これから、どうなるのだろうか。鈍痛を訴える頭を抑えて、自室の前へと戻って来た。
とにかく、一度きちんと眠ろう。うたた寝では、大して疲れも取れない。そう思って扉を開けたレアナを出迎えたのは、信じがたい光景だった。
慣れ親しんだ自室。その中は、空っぽだった。
長年使ってきた寝台も、長椅子も机も鏡台も――
何も、ない。カーテンも取り払われて、窓枠が剥き出しになっている。その天辺には既に満月が昇り、夜の室内に光を投げかけていた。だからそこは、不自然なほどに明るい、青い月光に満たされていた。
ただひとつ、中央に椅子が置かれて、そこに誰かが座っている。顔が見えなくても、それが誰かなど分かりきっていた。ここはヴェンリル家の館だ。こんなことができる者など一人しかいない。
この光景が実現した以上、誰の意思が働いたかは明白だった。だからこそ、信じたくなかった。
「………………っ」
嗚咽のような呻きが、刹那零れる。震えそうになる喉を叱咤して、必死に声を絞り出した。
「…………と、当主様……?どうしてこちらに。べ、ベウガン地方へお行きになったと聞きましたが、一体いつお戻りに……」
「…………」
「申し訳ありません、お、奥方様からは何も伺っておらず……な、何かご用命でもお有りなのでしょうか」
「…………」
リゼルドは何も言わない。逆光で顔も良く見えない。けれど、笑っているのが分かった。
「な、何か……仰って下さいませんか。ご不興を覚えることがあったのなら、どうぞ何なりと……償いの機会をどうか……」
何を言っても、リゼルドは黙り込んだままだった。どうすれば良いのか分からない。
焦りはから回るだけで、レアナは散々言葉を尽くした後、とうとう何も言えなくなった。彼女は崩れそうな足元を叱咤し、肩で息をする。全力疾走した後のように疲労していた。
極度の緊張で、重力が何倍にもなった気すらする。疲弊しきった喉から絞り出した声は、我ながら、絞め殺される寸前の家畜の如きものだった。
「…………当主様。お許し下さい……」
「………………」
小さな笑いが、声にもならない吐息が空気に溶けた。リゼルドが立ち、歩み寄ってくる。無意識に足は後退し、背中が扉にぶつかった。それ以上体が動かなかった。リゼルドがすぐ前に立ち、指先がレアナに触れる。手袋はしていなかった。その手がゆっくりと背後に回され、やがて抱きしめるような形になる。
目線の高さは殆ど同じだった。床に落ちる影も似た形で、それだけ見れば分身のように見える。
片手で頬を包まれ、至近距離から覗き込まれる。笑っていた。狂気と激情を混淆させた、過ぎた夏の日よりも苛烈なその光が、笑みに崩れる。
そこでレアナは、やっとリゼルドの——弟の声を聞いた。
「…………………………ついてきて」
伽藍洞の部屋の空白が、虚ろに胸に染み渡る。もう戻って来れる場所などどこにもないことを思い知り、レアナは唇を噛み締めた。




