芸術の時間
シノレが良く分からない怒りに駆られている間にも、話は勝手に進んでいく。エルクが思い切った様子で、
「あの、聖者様……!」
「はい?」
「ぼ、僕たちは今、写生の課題に取り組んでいたのですが……どうか、聖者様を描かせて頂くことはできないでしょうか?」
(落ち着けーー!!)
そんなシノレの、言葉にならない叫びなど届くはずもなく。エルクは必死に言葉を重ねる。
「聖者様の絵を描くため画家たちが筆をとり、その多くが挫折したことは存じております。僕如きがおこがましいのは分かっています。今がそんな状況でないことも、重々。ですが、どうしても諦めきれなくて……少しだけお付き合い下さいませんか?」
聖者はそれに瞬きをし、戸惑いの色を浮かべたものの、「それは……はい。構いません」と、嫌がる様子もなく頷いた。そして静かに、柔らかく笑みを滲ませた。
「それでは……急ですが、今からでも良いでしょうか?これからお互い、自由に使える時間は経る一方でしょうし……」
「……えっ」
「…………」
——それから一時間もしない内に、急遽聖者を被写体とした描画の時間が始まった。画布やら画材やらが揃えられて即席の美術室となっており、それらはシノレの前にも何故かある。
(…………何、これ?いや本当、何この流れ……)
何か流れで巻き込まれたシノレは、どうして良いか分からず固まっていた。いや、本当に何だこれ。
その隣で、エルクは真剣に聖者を見ていた。悪寒は強まる一方だ。凄まじい面倒ごとの予感がする。エルクを止めなければ大事になりそうな、そんな悪寒がするのだが……何だろう。決定的な瞬間を逃してしまったような気がしてならない。
「このまま動かずにいれば、良いのでしょうか?」
「は、はい。どうかお願いします……病み上がりのところ、本当に申し訳ないのですが」
「いいえ。私がこうして差し上げたいのです。……エルク様こそ、お嫌ではありませんか」
「そんな、とんでもないことです!」
「…………」
もういいや、なるようになれとシノレは自暴自棄の境地に入り始めた。現実逃避とも言う。
シノレは心ここにあらずで、ただざかざかと手を動かす。エルクはそちらに目を向けず、黙々と作業に没頭する。元々、芸術分野には関心があった。
(…………ああ)
過去に聖者を描こうとした者たちが、何故挫折したのか——その理由を噛み締める。
形は正しく取れる。線にして紙面に落とすこともできる。だが、それだけだ。
紙面の像は、線は、確かに過不足なく描けていた。正確で、視覚的に取り零しのない表現だと思う。けれど違う。これはただの、普通に美しい少女でしかない。
聖者は、もっと遠い。目に映る像はあるのに、核心に手が届かない。形にして落とした瞬間、抜け殻のように消え去る魂。
「光に照らされたものは描けても、光そのものを描くことはできない」
聖者を描こうとして挫折したガルシラスは、ある時そう零したと聞いたことがある。
言葉も筆も無力だった。あまりにも眩く、もどかしく、畏れ多く――心の震えの断片すら、描き写すことができないのだ。
これは、神の御業なのだ。人間に切り取れる瞬間など、どこにもない。ガルシラス始め天才画家と謳われた人々が次々に挑戦し、しかし力及ばず筆を折った気持ちが、その本当の理由が今なら分かる。
藻掻く手は虚しく、ただの美少女の素描だけを何枚も仕上げていく。聖者はその一枚を手に取り、じっと見つめた。
「……申し訳ありません。やはり僕の技量では、どうにもならないようです。こんなものは聖者様ではない」
「……いいえ。とんでもありません。描きたいと言って下さって、嬉しかった。私の昔のことはご存じでしょうに」
二人は微笑みあう。シノレは距離を取ってぼんやりしていた。
「…………」
そして、シノレが描いた方はと言えば、元々の素質のなさと集中を欠いたことが合わさって、見るに堪えない代物となっていた。
聖者を描く難しさがどうとか、そんな話ですらなく、そもそも人間にすら見えない。ただ瀕死の長虫のような線が、紙の上で絡まってのたうっている。
これを見て被写体が聖者だと分かる者はいないだろうし、分かったら最悪異端審問にかけられそうだ。
まあ、別に良いのだ。こんなもの誰の眼中にも無いのだし。教育係にはこれを出して、被写体については適当に言い繕っておこう。シノレはすっかり投げやりな気分になって考えた。
(けど、何か……)
ただ、何か引っ掛かるものがあった。こっそり画架越しに聖者の方を見る。
描画のために観察していたからか、これまでの付き合いからか、もしくはその両方か。何となく、聖者の様子におかしなものを感じる。
そもそも、あっさりこういう話に乗るのも、聖者らしくはない気がする。いくらエルクが相手とは言っても——
(聖者様、何か…………悩んでる?)




