サフォリアの元首のつぶやき
「ブラスエガにて、内乱が発生しました」
「へえ。誰が誰に?」
「弟バルジールが、兄アルデバランに対してです。……更にその北。長を失い、戦乱状態にあったツェレガにおいても、一つの勢力が拡大しつつあります」
「ほう。ブラスエガの兄弟が、遂に決裂しましたか。まあそうですよね」
書類の山の向こうで、目に隈をつけたマルセロが笑った。へーレックはそこに淡々と報告を続ける。
「…………教団にとっては、つい先日まで争っていた相手。内部分裂は本来、喜ばしいのでしょうが」
「ですが、教団はそこにつけ込むどころではないでしょう。南部が大変なんですから。状況って変わるものですねえ」
へーレックは報告事項をまとめた書類を捲った。
「――以上が先日までの流れでございます、元首様」
「止めて下さいその呼び方。好きではないので」
それを聞かされたマルセロは、早朝だと言うのにあからさまに憔悴していた。そもそも元首なんて呼称がわざとらしい。正統な領主から奪い取ったことを正当化したかったのかもしれないが、正直悪足掻きというか、逆効果に思える。マルセロは嘆息した。その頭には、つい先程齎された報告が巡っている。
「…………教団が崩れ始めましたか。まあ、端っこが少しだけですけどね」
教団の法は極めて厳しい。だが庇護は厚い。楽団を恐れればこそ、教徒たちはその苛烈さに不満はあっても不平は言えない。それはそうだ。しかし、そんな理屈がいつでも誰にでも通じるわけではない。
目先の損得、自分の利益しか考えられない人間というのはそれなりに多い。むしろ多数派だ。平時ならば強力な戒律と相互的な監視の仕組みが機能するが、戦乱時であればどうなるか。
元々ベウガン地方は教団領になって日が浅い。当然統治も生易しいものではなく、それなりに不満は蓄積する。そんなベウガンでは、楽団に呼応する街も出始めている。有力者たちが楽団を引き入れたり、逃げ遅れた官僚たちが吊し上げられた都市すら出た。
「まあクライドが逃げられたんなら良かったです。最悪の場合巻き込まれてもやむなしと思いましたが。教団への義理立てに、親族の命を犠牲にするのもねえ……」
「その協定も、『虚月』の稼働がなされれば意味を失います。起動の日は近いそうですから、それまでのご辛抱です」
宿将からの久しぶりの慰めだった。だが、マルセロは黙り込んだ。何とも言えない顔で、
「しかしねえ……『虚月』ったらあの『虚月』でしょう?そもそもまともに動くのやら……壮絶な遺産であるのは認めますが、千年超えの骨董なのも確か。そんなものに命運を託すなんて、何とも頼りない話ですねえ」
「術具が経年劣化しないのはご存知でしょう。セネロスの使者曰く、破損も一切なく、純度の高い魔晶銀七つで動く計算とのこと。医師団の方からもお墨付きがあったとか」
「へえそうなんですか。医師団。うさんくさい連中ですよねー」
「その言葉、人前ではくれぐれもお口になさいませんよう。特にセネロスの方々には」
「分かってますって。続けて下さい」
そう言いながらもマルセロは、気力が枯渇しかけて机の上に突っ伏してしまっていた。精神的にも忙しさ的にも、かれこれ半年近く熟睡できてない。割と限界が近い。
ああせめて三百年前に生まれたかった――マルセロは過労死しそうな気分で、日課の現実逃避を始めた。
凋落の陰りは出始めていたが、あの頃はまだギリギリ、騎士団の貴族は昔日の繁栄の端っこに引っかかるように優雅に暮らせていたのだ。しかし満ち足りているというのも考えもので、そういう時人はろくなことを考えない。
「その結果が今なんですよねえ……」
できるものならば時間を遡行して、馬鹿な野心を出して裏切りに走った祖先を全力で止めに行くのに。止めたい。切実に伝えたい。ろくなことにならないからやめとけと。
「……一時期はここも大賑わいだったのに、閑散としたもんですよねえ。まあ気楽でいいですけど」
教団からサフォリアに来ていた使者や密偵の類も、ほぼ全てが引き上げていた。当然だ。この状況で人材の無駄遣いはできない。ワリアンド一つだけで教団領全てに匹敵する力を持ち、撃退するには総力を結集する必要があるのだから。
人ばかりではない。各都市が有する戦力、物資、その多くが西の侵攻に対処すべく吐き出される。これが何を意味するかというと、重心が移るのだ。教団は南西向きの姿勢になる。そうそう他を見れない状態に入る。それをこそ待っていた。そうでないと安心できない。
こんなことをしなくてはいけないのは、サフォリアが置かれた位置的問題故であった。この辺りは平原が多く、ろくな要塞もなく、逃げ場がないのだ。
セネロスにしろ教団にしろ、有する戦力はサフォリアよりも大きい。片方が激昂して襲ってきたのなら、その力は一都市にどうこうできるものではない。どちらかが自棄を起こして攻め込んできたら、一発で消し飛ぶだろう。まして両方に攻められたら目も当てられないことになる。
マルセロは領地の被害を最小に抑える義務があり、そのためならば綱渡りもしなくてはならない。サフォリアはその位置関係上、完全決着の瞬間まで、どちらにもいい顔をし続けなければいけないのだ。
楽団の矢先はじわじわと、確実に食い込んでいっている。フィアレス川を越えた先。そこまで達すれば、教団のサフォリアへの報復はほぼ不可能になる。そこまで行けば、何とか一息つけるのだ。だから――
「どうかお願いしますよ、ベルガルム殿」
遠い北西に向けて、彼はそう呟いた。




