オルシーラの来訪
「……お邪魔致します、聖者様」
「いいえ、オルシーラ姫。お越し下さりありがとうございます。お身体の調子も万全ではないでしょうに……この前のことは、私からもお詫び申し上げます」
そして顔を見せたのは、オルシーラだった。いつもつけている青い首飾りを揺らし、美しく礼をする。人払いで一旦下がっていた侍従や護衛たちも入ってきて定位置に控えた。
「いいえ、寧ろ不甲斐ないところをお見せし、皆様に多大なるご迷惑をかけてしまい、申し訳なく思っております。私などのことよりも、聖者様のお加減は……あら……」
オルシーラは一瞬だけシノレに目を留めたが、すぐに関心を失った風に視線を切った。予後や気分を丁重に尋ねる姫君に、聖者は穏やかに受け答えていく。
「先日の兵たちへのお声がけは、素晴らしかったとお聞きしました。聖者様のお姿、お慈悲こそ神の恩寵、聖なる光そのものだったと……私は立ち会うことができませんでしたが」
「……お恥ずかしいことです。当然の務めを果たしただけですが……きっと大袈裟に伝わってしまったのでしょうね」
「大袈裟などではありませんわ。教団には、聖者様がいらっしゃる。その意味は、何よりも大きいのでしょう。……教徒の方々は、どんなにかお心丈夫なことでしょう」
オルシーラは束の間、ふっと顔を曇らせた。けれどそれもすぐに拭い去られ、再び優雅な微笑が戻る。
「騎士団には飢え乾き、貧困に喘ぐ者が多くおりますわ。……ほんの一握りの貴族以外、総じてその状態だと言っても良い。私は教団との友好の証として遣わされましたが……その務めを果たしきれば、彼らが救われる日も来るでしょうか」
(……騎士団か……)
シノレも短期間で学んだ程度のことしか知らないが……かの地は一応法が機能しているため、楽団ほど狂ってはいない。だが、ところによっては楽団よりも悲惨だという。ひたすら畑を耕し、外敵と戦わされ、楽団に売り払われ、多くが若くして死んでいく。
持つ者は富み栄え、持たぬ者は死ぬまで搾取される。その構造自体を改革することも難しい。様々な利権や経緯、意地や尊厳が複雑に絡み合いすぎている。歴史の長さが齎す弊害だ。貴族は納税を拒み、下民に門戸を開くことを拒んだ。
下民の救済などのために、石貨一枚たりとも払ってなるものか――そう、ある貴族は言ったそうだ。
オルシーラがここに来てから、もう三ヶ月にもなる。沈みゆく騎士団を他山の石とする教団の姿に、彼女は何を思ったのだろうか。
「聖者様のお慈悲の深さには、私も大変感じ入りました。教徒のお一人を庇って負傷されたこと、今では街中に広まっているとか。誰もが聖者様の御光に震え、心を一つにしています」
そうだろうなと、聞いているだけのシノレは思った。聖者の前では全てが平伏す。教徒も奴隷も区別なく、同じ顔をして同じ方向を向くのだ。初対面の時もそうだった。シノレはそれに、何とも言えない不気味さと異質さを感じたものだった。
「あの方……リヴィア様でしたか。あの方は、聖者様から見て特別な、天命を担った方だったのでしょうか。だからこそ聖者様は彼女をお守りになったし、傷も早々と癒えたのだと……そういう噂も立ち込めているのですが……」
「この地上に生きていることを天命と言うのならそうでしょう。私はただ、助けられる者を助けたいだけです。使命の軽重も、身分の高低も関係はありません」
「……そうなのですか。……聖者様は、その御心を、騎士団の民にも向けて下さいますか?」
そう聞くオルシーラの声はどこか頼りなく、寄る辺を求めてさまよう幼子のように聞こえた。聖者は少し戸惑いながら頷いた。
「……ええ、そうですね。それはきっと……、……っ」
話していて気分が悪くなったのか、聖者が息を詰まらせる。咄嗟にシノレは壁際を離れ、その上体を支えた。
「大丈夫ですか?聖者様、ご無理はせずに……」
「い、いいえ。大したことでは……ただ、まだ少し貧血気味のようです……」
目眩を堪えるように、目元に指先を押し付ける。そこから感じる魔力の流れは妙に早い。普段よりも激しく循環しているのは先程から感じていた。そして、それがあまり良いものではないとも感じる。これが、回復力の代償なのだろうか――そんなことをふと考えた。
「申し訳ありません、お見苦しいところを……。……オルシーラ姫?どうかなさいましたか?」
やがて顔を上げた聖者がどこか困惑したように、シノレの肩越しに問いかける。シノレも振り返り視線を向けると、
「……………」
オルシーラは何故か、シノレを凝視してわなわな震えていた。その動揺振りはシノレにも分かるほどで、そこから絞り出した声も引っくり返っていた。
「……わ、わたっ、ワタクシ、少々気分が優れず……押しかけて早々に申し訳ないのですが、そっ、そろそろ失礼しても……?」
「ええ。まだ本調子ではないでしょう。ご足労をかけてしまい、申し訳ございません。どうぞごゆっくり養生なさって下さい」
「え、ええ、こちらこそ申し訳ありません……せ、聖者様こそくれぐれもお身体をお大事に……」
オルシーラは動揺の残る早口で挨拶を告げる。そして来た時とは比べようもないほど早足で、忙しなく退散していった。




