聖者の救い
その日、シアレットから軍勢が出立することになった。楽団からの侵攻が予想よりも大規模なものだったので、シアレットからも更に援軍を送ることになったのだ。
エルクはその見送りと激励を任されていた。数日かけて彼なりに覚悟を固め、今日に臨んだつもりだった。そこに一切の偽りはない。本人は間違いなく真剣であったのだ。
しかし、いざ彼らを前にすると、エルクは立ち竦んでしまった。大階段の踊り場に佇む彼に、無数の視線が浴びせられる。
シオンとユミルは、もうシアレットにはいない。事態を伝えるために聖都へ向かった。それとともに、エルクも同行するかを選ぶことになった。安全な場所に逃れるよう、レイグにはそれとなく促されたし、側近にも進言されたが、彼はそれを固辞して留まっていた。
自分が教主に与えられたのはオルシーラへの接遇だ。そのオルシーラがまだここにいて、しかも衝撃を受けて臥せっているというのに、投げ出して行くことはできない。
それに、聖者があんな状態だと言うのに、どうして自分だけ逃げ出せるだろうか。そんな思いもあったのだ。
そして今、自分に何が求められているか、エルクはよくよく理解していた。
ここに集った教徒たちの、誰もが救いを求めている。この先で死ぬとしても、その犠牲に足る救済が必ず齎されると――その保証を与えられたいと。そして、それを与えてやれるのは、現時点ではエルクだけだった。
ワーレン家であるとは、そういうことだった。誰も代われないし、支えられない。ワーレンの名は、唯一無二にして完全無欠の存在でなければならない。
無数の視線を突き刺さる。恐ろしいほどの重圧だった。くらくらして、視界が霞みそうになる。
エレラフでのことを、また繰り返すのかと思った。努力をしても、人は簡単に変われるわけではない。
最初から分かりきっていた。ワーレンという名は、自分には重すぎるのだ。
(どうしよう、やはり、僕では――)
呼吸が乱れる。視界が霞む。意識が薄れそうになる。気力で自分を奮い立たせるにも限界があった。
その時、背後の扉が開かれた音がした。エルクはそれに振り返り、大きく目を見開いた。
「聖者、様……」
白い装束を美しくそよがせて、聖者が階を降りてくる。その姿に、雲間から清い光が差したと、そう感じた。どうして――呆然とする彼に、聖者は微笑みかけた。
「エルク様。お手を貸して下さいますか」
「……どうして」
それは言葉になって零れた。聖者は微笑んだまま、やや困った顔をする。
「まだ少し、調子が悪いのです。手を取って、支えて下さい」
言われてみれば、化粧で隠してはいるが顔色が冴えない。伸ばされた聖者の手を取ると、しっかりと握り返された。その温度に、冷え切っていた指先が熱を取り戻していく。
聖者はエルクよりもやや背が高い。それなのに、その手は細く小さかった。温かかった。何よりも力強く思えた。形式上では聖者を支えるという形だが、其の実支えられているのはエルクの方だった。聖者は階下に向き合って、
「私はこの通り、蘇りました。神の慈悲は、変わらず地に注がれております。何も恐れることはありません」
超然と、慈悲深く、この世のものとも思われないほど神聖に笑う。そして放たれた声も、肉声とは信じ難いほどに神々しく澄明なものだった。
「――神のご加護は、常に貴方がたとともに」




