ヴェンリル家の跡継ぎ
聖都に聳える、ヴェンリル家の館の朝は早い。女主人の起床が早いからだ。朝の身嗜み終えたリシカは、真っ先に執務室の机に歩み寄った。
毎月この日は、起きてから最初に月初めの報告に目を通す。それはリシカにとって、数年続けてきた慣習であった。使用人を呼びつけ、朝一番で催促する。相手も心得たもので、盆に一通の書状を掲げ持ち恭しく馳せ参じた。
彼女にとっては、先月舞い込んだ地境の異変などどうでもいいことだ。下劣な楽団の襲撃など、カドラスの連中が勝手に片付けるだろう。そんなことよりも息子のことの方が余程重大だった。
「……リゼルドの様子は、今何と?」
「ベルナー殿から、新たな定期報告が届いてございます。今のところ大きな変化はないようです。詳細はこちらにまとめてあるとのこと……どうぞこちらを」
「そう……良いでしょう。それより庶子どもが、また何か仕出かしていないでしょうね?」
リシカは天鵞絨張りの椅子に傲然と掛けたまま、捧げられた書状を手に取る。それを優雅に開封した彼女は静かに、しかし抑えきれない憎しみを込めて呟いた。庶子は教団において、どこまでも影の存在である。彼らの意義とは言ってしまえば、嫡流に万一のことがあった場合の予備であり、血脈的にはそれ以上の存在ではない。そして庶子とその母は嫡子と正妻への絶対服従が求められ、正妻はそれらを率いて家内を統率し、家の未来を支える責任を担う。そしてそんな正妻の権威を支えるものは、偏に嫡子の存在なのだ。
教団では、結婚は非常に重い意味を持つ。特に名門であればあるほど、そこにこぎつけるまでには何重もの慎重な審議と交渉が必要になる。そして一度結婚すれば、愛が冷めようが不祥事を起こそうが、基本離婚は認められない。文字通り、死が二人を分かつまで続けられる契約だ。
ただし、離婚が成立しやすい事例が一つだけある。それが、「正妻に男子が生まれない場合」である。
跡取りを生むのは正妻でなければならない。まず第一に正妻を迎え、嫡子を儲け、それを基盤に家内秩序を築いていくのが鉄則である。
婚姻を聖なる契約と称し、生半可なことでは離縁が認められない教団でも、これはかなり離婚事由として認められやすい。しかし、リシカの場合は事情が違った。
リシカは使徒家同士の結束を強めるため、ワーレン家から迎えた花嫁だ。低く見られやすかったヴェンリル家にとっては初の快挙とも言えた。それを、「跡取りが作れないから」という理由で離縁するなぞ体裁が悪すぎた。下手をすればワーレンとの間にも亀裂が入りかねない。こうした政略的事情から離婚に至ることはなく――リシカは五年間、針の筵の上に置かれ続けたのである。
家に跡継ぎを与え、未来を与えることは正妻にのみ許された特権であり、同時に逃れ得ない使命――呪縛でもある。男子出産が至上命題である以上、子を産めない女はそれだけで欠陥品扱いされるのだ。
リシカは嫁して五年、子に恵まれなかった。結婚してから一年の間、懐妊の兆しすら現れなかった。追い打ちをかけるように、夫が妾を取り、庶子が生まれた。庶子の誕生は、彼女の不妊が夫側の問題ではないと証明されたのと同義であり――そして彼女にとっての地獄が幕を開けた。
あの日々の屈辱は、今でも夢に見る。姑から受けた難詰、罵倒の数々は彼女の矜持をいたく傷つけた。のみならず実家からも非難され、問責された。彼女の味方をする者は誰もいなかった。如何に彼女がワーレン家の令嬢であっても――子を産めぬこと、それは教団の秩序においては致命的な落ち度であったのだ。
ましてその間に、血を分けた妹が先代教主の弟に嫁ぎ、命と引換えに男児の出産を成し遂げた。それによって教団に現教主レイノスを齎したのだ。妹には何ら非がないとは言え、その事実もまた彼女に重圧として伸し掛かった。
だから――だから、やっと懐妊の兆しが現れた時、彼女は全ての覚悟を決めたのである。それまで一向に妊娠の予兆すらなかったところへの、この奇蹟である。これが生涯最初で最後の機会と、彼女が思い詰めたのは自然の成り行きであった。難産に縺れ込み不帰の客となった妹の事例も頭にあったから、万が一の際の下準備も万全に済ませていた。彼女は周囲の者たちに、何重にも言い含めた。
「何があろうと、母体ではなく子を優先しなさい。何としても無事に我が子を取り上げなさい。産室で我が身に与えるあらゆる不敬を許します」
高慢な言いようであるが、気位の高い彼女にとってそれは懇願に他ならなかった。出産に携わる産婆や侍女、小間使いに至るまで、何があろうと我が子の命を優先しろと厳命し、遺書まで書いて、彼女は文字通り死を覚悟して産室に入ったのである。そして生まれてきたのが健康な男児、完璧な跡取りであった。
生まれた我が子を見た瞬間、彼女は咽び泣いて神の慈悲に感謝し、残る全生涯を息子へ捧げる決意をした。そして、跡継ぎを生んだ彼女の権威は確固たるものとなった。卑しい女に奪われ、踏み躙られてきた尊厳も立場も、全てを取り戻すことができた。それに報いるためにも、あらゆるものから我が子を守り通そうと誓った。
それなのに――その誓いは果たされなかったのだ。鼓動が早まり、視界が霞んでくる。体が冷たくなり、心臓だけが狂ったようにざわめく。いつも決まってこうだ。「あの時のこと」を思い出すだけで、彼女は意識が遠くなる。
「ああ――……やはり殺さなければ。一刻も早く、すぐに――……」
呻くような声がまろび出る。その処理を、我が子に求めるのは酷であろう。害虫同然の危険因子とはいえ、リゼルドと血の繋がった兄姉であることも間違いないのだ。少なくともあの子はそう信じている。それを無情に処分するなど、優しいあの子には辛いことだろう。
ただでさえ若くして当主の重責を担っているのだ。雑事を代わって片付けるのもまた、母たる身の務めであろう。愛する息子の桎梏となるものなど、何一つ必要ではないのだから。改めて呼び鈴を鳴らし、使用人に言いつけた。
「庶子どもに、新たに影を遣わします。早急に手配をなさい」




