姫君の闘争
社交界には様々な罠と陰謀と、その対処法が存在し、貴族の子女はそれを教え込まれて育つ。
中には緊急時、決定的に不利な場面で追及を逃れるための技も存在する。それが嘘泣きと気絶技である。オルシーラは今回、咄嗟の判断で後者を選んだ。
顔を青褪めさせ、衝撃に耐えかねた風情で崩れ落ちる。これを優雅に美しく、ゆっくりと行うのは大変な柔軟性と筋力が必要だ。
特に受け身は絶対に失敗できない。頭を打ち付けて痛がったりしようものなら、一瞬で喜劇に成り下がる。全身鍛え抜いて初めて成立する、高い難易度を誇る離れ技だった。
しかし、使いこなせれば場を強制終了することも、矛先を逸らすことも可能になる。
(ちょうど近くにエルク様がいたのも幸運だったわ……あの方に気遣って頂ければ、まず滅多なことにはならないでしょうし)
気絶による矛先反らしを成功させるには、細心の肉体制御と重心の調整、平衡感覚が不可欠だ。それもこれも有力者を狙い撃ちし、庇ってくれる相手(主に男)を作り出すためである。
優雅に崩れながらも足先で体重を支え、受け手への負担を最小限に抑える。軽く、弱々しく、今にも砕け散ってしまいそうな儚さを演出する。可能ならば何らかの方法で、体温を下げておければ完璧だ。オルシーラは、厳しすぎる師の教えを思い出す。
(……あの鏡張りの広間で、朝から晩まで。散々叱られながら嘘泣き気絶の練習をした日々も、これで報われるってものよね……)
あくまでも非常時の技だ。乱発しては安っぽい喜劇になる。ここぞという時にしか使えない離れ技、実践で役立つ機会は人生で数度あるかどうか――だが、やれなければ話にならない。決定的な局面で使えなければ詰む、そんな裏技であった。
(あそこで容疑者になるわけにはいかなかったもの……)
あの襲撃をオルシーラが手引き、或いは誘引したとでも思われたら。所詮人質の身だ、彼女の立場も待遇も変わる可能性があった。あの場ではそれを防ぎ、我が身を守るのが最優先だった。
幸い首尾よく行き、エルクに心配してもらえた。これで、そう厳しく追及されることはないだろう。良心は痛むがこれも異境で上手く立ち回るためだ、やむを得ない。
もう、あまり時間は無いのだし。ある意味これは好機かもしれない。
「…………」
紫の瞳が曇り、幼気な美貌に苦々しいものが浮かぶ。寸時唇を噛む。かねてから、彼女が抱え続ける後ろめたさがそうさせた。けれど、それ以上感情を見せることはしなかった。
たとえ部屋に誰もおらずとも、常に心を鎧うこと。それが姫として生い立った彼女に課せられた教えであった。やがてやって来た侍女たち相手にも、彼女は完璧に仮面を被って見せる。
「姫様、お加減は如何ですか?お夕食は少しでも召し上がれそうでしょうか?」
「……ありがとう。少し良くなりました。でもお食事は……ごめんなさい、まだ調子が悪くて……」
多くは教団に来てからつけられた、教団出身の侍女だ。だが数名、騎士団からついてきてくれた者たちもいる。その数名こそが鍵なのだ。
さあ、ここからが本番だ。侍女たちに弱く微笑み返しながら、頭を切り替えようとした時だ。
「お疲れのところ失礼します、オルシーラ姫」
この数ヶ月で耳慣れた、低い、涼やかなほどの声とともに、レイグが入ってきた。その気配だけで、オルシーラは背中に冷たいものが這い上がるのを感じた。
凄惨な襲撃に見舞われたばかりで、その後処理にも追われているだろうに、その顔に疲れは見えず、身なりに一部の隙もない。端正な顔は柔らかく、穏やかで、物憂げにすら見える。だがそこには、断ることを許さない何かがあった。
「このような時に押しかけてしまい申し訳ありません。大公家の御方を恐ろしい目に遭わせてしまい、我が身の不徳を恥じ入るばかりです。……例の件に対する姫のご心痛は重々承知ですが、どうしても内密にお話したいことがあるのです」
お人払いを願えますか?有無を言わせぬ笑みで、使徒家の当主はそう言い切った。




