姫君の修行
――幼い頃、オルシーラは鏡が嫌いだった。特に、宮殿にある鏡張り広間が嫌いだった。
四方を取り巻く磨き抜かれたそれは、あまりにも容赦なく、自分の粗や不足を突きつけてくるからだ。次々と放たれる駄目出しやお小言もあって、そこでの時間が嫌でたまらなかった。
けれどどんなに嫌でも、己の欠陥を直視しなければ何も始まらないのだと――黙殺したからといって、欠点が消えて無くなるわけではないのだと――そう気づいたのはいつ頃だったか。
「『技』を披露するには、まず注目を集めねばなりません。誰にも気づかれない悲嘆なぞ、無意味も良いところです」
微笑む貴婦人が、ゆるりと指先で扇を弄ぶ。彼女は名家の貴婦人で、何年もの間オルシーラに礼儀作法を教えていた。
「姫様、ご注意なさいませ。気絶する時、我らは倒れるのではなく、落ちるのです。落花の如く儚く、されど計算された優雅さをもって。まずは、扇子を落とす練習から」
白い指が扇子をそっと開き、軽く振る。次の瞬間、扇子が手を離れ、空中を舞いながら床へと落ちた。驚くほど繊細な動きだったが、扇子が床を打つ音は、心地よい余韻を残すような絶妙な響きを生んだ。
「……ただ落とすのではない。注意を惹きつけるが、下品ではない。重すぎず、軽すぎず、扇子の素材と床の響きを計算し、最も美しい音を奏でること。さあ、今の音の再現をやってごらんなさい」
幼いオルシーラは息を整え、同じように扇子を落とした。だが、音が軽すぎる。
「まだ躊躇いがありますね。肩から手首まで流れるように、力を均等に抜きなさい。もう一度。……まあまあですね。それでは、お泣きなさい?」
慈母の微笑みでそう促され、いよいよ鍛錬は本番に突入する。ここまではただの準備運動のようなものだ。
深呼吸して、オルシーラは目元を指で押さえる。何度も繰り返した技術。鏡に映るのは、眉を歪め、涙をにじませようと必死になる少女の顔だ。
「ふ、うえぇ……」
段々と水分が眼球に集まり、同時に喉が震えるが――それでは駄目なのだ。途端に「下品です」と鋭く声が飛んでくる。
「泣く時、声を乱してはいけません。涙は沈黙の中でこそ輝く。崩れた声を漏らせば、すべて茶番に堕ちます」
「……は、はい」
「目元だけを潤ませ、頬を一筋。そう、まるで花びらから落ちる朝露のように……。おやりなさい」
オルシーラは懸命に涙腺を刺激し、かつ表情は極力歪めずに美しく保つ。あどけない少女の頬に、すうっと細く涙が伝い落ちた。
「……よろしいでしょう。ですが姫様、涙は乱発するものではありません。ここぞという時まで取っておくべきです。必要だと分かっていれば、数日前から目を擦り、体調を崩しておくのも技の内。……次は気絶です」
そして、最も肉体的に過酷な時間が始まる。気絶にも色々と手管があって、全てで一定水準を満たさなければ合格が貰えないのだ。
「足首の柔軟性が命です。足首、膝、腰、上体。その全てを流れるように、背筋は一分も乱してはなりません。裾と袖口は抑え、なるべく美しく広げるように」
二十回を超えると、筋肉がこわばり始めた。
「痛みや疲れを表に出してはなりません。姫君たるもの、いつ何時も粗雑な振る舞いは許されません。表情も声音も全てが武器。鳥が飛ぶが如く、魚が泳ぐが如く、高貴な者が優雅であることは当然であるのです。さあ、もう一度」
五十回を超えると手が震え、爪先から血が滲んだ。
「これは護身であり、同時に演目です。観測されて初めて意味が生まれる。姫君が『気絶』する時は、衆目の前で、誰よりも儚く、守られるべき存在とならなければならない」
百回に迫った時には、もう自分の状態も良く分からない。
「それでは、仕上げと参りましょう。終わりなき修練の果てに、歴史を動かす一瞬が生まれることを願って」
(いやーーー本当あの練習きつかった……足の爪剥がれるかと思った……)
寝台に運ばれたオルシーラは天蓋の模様を眺めながら、しみじみそんなことを思い出していた。咄嗟の判断で負担をかけたせいで、全身、特に下半身の筋肉がじくじくと痛む。




