氷の貯蔵庫
フロイエンが氷玉庫を発明したのが約百七十年前。それまでは雪や氷を切り出す氷室が一般的で、これは超富裕層の特権だった。
莫大な労力と費用を要するため、とても庶民には手が届かない。それに引き換え、氷玉は格段に運搬しやすい上に持ちが良い。
だからこそ、氷玉を使った冷蔵の発明によって、保存技術は飛躍的に発展したわけだ。それに伴って氷玉が求められるようになり、北で大々的に栽培されるようになった。
食品を長く保存できる。画期的な素晴らしい技術だ。温暖な騎士団にこそ必要なものだ。
それなのに、大公家や貴族たちはこれを導入することを嫌った。あくまで伝統と格式にしがみついた。
宮殿の大々的工事も、市井に普及させ食糧事情を改善することも――従来のものを捨てること、変革することを拒んだ。
畢竟、そこに全ての答えがあるのだった。
(……セネロスは、騎士団は、取り残されたのよ)
世界は目まぐるしく変わっていく。死んでは生まれ変わり、そしていつか再び潰える。その繰り返しの中で、自分に何ができるのだろうと、つい考えてしまいそうになる。
案内された氷玉庫は、ため息が出るようなものだった。色んな意味で。
漂う冷気。石段と棚。並べられた氷玉塊。オルシーラはじっとそれを見つめる。
(……やるべきことは、分かり切っている)
どれほど憎まれようと、どれほど汚名を被ろうと、座して滅びを待つわけにはいかないのだ。
(…………探し物を)
胸には今も、青い首飾りがある。使命を思い出させるように、呪縛のように揺れている。その度に兄の苦悶が聞こえてくる気がする。
「…………ですが、最近は少々……」
その声に、意味もなくぎくりとした。表情を変えず聞き返すと、長老は穏やかな、本心の読めない笑顔を見せる。
「いえ、不穏な噂がありましてね。このところ、いくつかの都市で貯蔵庫への侵入があったとか、氷玉が盗まれたとかの報告を受けています。
無論、この街はカドラスの騎士たちが守ってくれておりますから、心配する必要はないでしょうが」
「はい、ご信頼を裏切らぬようこれからも精進します!」
目を向けられ、ユミルが背筋を伸ばした。社交界でも何度も会ったし、彼とはもう顔見知りになっている。
その隣には……オルシーラはシノレの濁りきった目が見える前に、さり気なく目を逸らした。
相手に非はないのは分かっているのだが、生理的に受け付けないと言うか、あまり見たくないと感じてしまう。
「この手の施設の造設や管理は、街の有力者に委ねておりまして……ああ、あちらにいますね」
そしてやってきたのは、見知った顔であった。オルシーラは思わず顔が引きつりそうになった。
「これはこれは、使徒家の皆様。オルシーラ姫まで。どうかなさいましたか?」
それは、以前夜会で面識を持ったクレドアだった。満面の笑みで近づいてきた彼に、オルシーラも丁重に礼をする。
「ご機嫌よう。先日は竪琴をお貸し頂きありがとうございました」
「いえいえ。姫に奏でて下さり望外の誉でありました。氷玉庫へはご見学で?」
「ええ、こういう時でなければ中々見られませんので……」
挨拶を終え、オルシーラは庫内に見入るふりをして、そちらに耳を傾けた。
クレドアたちはあれからも、一族総出で社交界に根を張るため尽力していたようだ。その成果が出始めたのか、最近は格の高い場に呼ばれることが増えているようである。
オルシーラは時折噂に聞くだけだが、そこまで話が上ってくる事自体が上昇を表していた。
実際、使徒家の長老は挨拶だけに留めず、親しげに言葉を送った。
「先日の件ですが、譲って下さりありがとうございました。不祥事があったと言えど、これ以上面子を潰せば望ましからぬ事態を招きそうですので……クレドア殿にご理解を頂き、感謝の念に堪えません」
「いえいえ、当然のことです。教団の秩序を維持することが教徒の使命なのですから」
今話題に上がっているのは、リヴィアの実家の話だろう。つい先日、かの家は寄付額の大きさを認められ、めでたく儀式貢献者となったばかりだった。
数日後に待つ施しの儀式は盛大なものとなる予定だ。それに貢献した家の者には、祭壇近くの特別席が用意されることになる。
少しでも名誉を取り戻し、娘の縁談も守らんとする試みであろう。各方面への細密な根回しと、それを成し遂げる執念なしでは叶わないことだ。
「……もうじき、施しの儀式ですね」
誰かが言ったそんな一言が、妙に胸をざわつかせた。




