第5話 ②
前回の続きです。
律子のもやもや、継続中です。
そして、暫く桐矢不在のパートが続きます。
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テスト期間が始まったその日から早速、律子は、珠里と共に試験勉強に取り組むことになった。
当初はどこで勉強しようか話し合っていたが、部室を借りれば何かと都合がいいのではないかというところに落ち着いた。
期間中の活動が停止になっても、部室への立ち入りが禁止されるわけではない。そのため、漫研部に限らず、各部室を学習スペース代わりに利用する生徒も間々おり、教師側もある程度は黙認していたりする。
教室や図書室は他の生徒もいたりして何となく気になるし、かといって、外でどこか勉強できそうな施設やスペースを探すにしても、他校もテスト期間中なのでそもそも混んでいる可能性がある。結局、静かで気楽に勉強できる場所として、活動停止中の部室が最も合理的だという判断だった。
それで、珠里と二人、漫研部の部室で勉強していると、居場所を教えてもいないのに後から北上がやってきた。
珠里をつけ回していた執念はやはり伊達ではないのか、とにかくその勘の鋭さに、律子は呆れるやら感心するやらだった。
北上は前日の宣言を実行すべく、政経のテキストや資料集等一式を持ち込んで、律子の隣の席に腰かけた。おかげで、普段は部員達がぐるりと囲んでいる作業スペースだというのに、律子を挟んで三人横並びの形で座ることになり、何だか滑稽な位置取りになる。
「おい律子、やるぞ」
恐らく北上は、本当に律子に勉強を教えるつもりでいるのだろうが、如何せん誘い方がガキ大将のそれである。
とはいえ、それまで珠里に教えてもらっていた律子の立場からすると、急には応じづらいものがあった。
珠里も、北上の強引な割り込みは不愉快に感じたようで、非難する。
「邪魔しないで、北上。律子は私と勉強してたんだから」
それが気に入らないからなのだろうが、北上は、何故か律子に向かって凄むように問うた。
「は? 律子、せっかく教えてやるっていってるのに、お前は俺よりも珠里の方がいいっていうのかよ?」
「私に聞いて望む答えが得られると思うの?」
八つ当たりのように話を振られ、しかもどうにも答えにくいような質問を投げかけられたのがかちんときて、律子はつい棘のある返答をしてしまった。
しかし、北上の反応は意外にも物分かりのいいようなものだった。
「まあ、確かにな」
北上はそう言うなり、政経のテキスト類を一端脇に寄せ、代わりに英単語帳を取り出して確認に取り組む準備をしていた。
「とりあえず、珠里とやってりゃいいさ。で、困ったら俺を呼べばいい。どうせ珠里は、ろくに教えられねえだろうからな」
「何なんだ、本当に。感じ悪い」
北上は律子の方を見ているが、嫌味の内容は珠里に関するものである。
一応その言葉を拾った珠里が、ほどほどに反応して、律子に向き直る。
「律子。放っといて、続きしよう」
そう言われてはそちらに応えるしかなく、律子は首を縦に振った。
「どうぞご自由に」
と、何故か北上が返答した。
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それからかれこれ二十分ほど珠里と共に勉強していると、北上の雑言もあながち嘘ではないかもしれないと、律子は感じ始めていて、悩ましかった。
政経という教科の性質上、憲法だったり選挙制度だったり経済理論だったりに関する事実があって、それを覚えるしかないので教えようがないというのもあるのだが、珠里の話ぶりが、既に基礎学力が十分に身についている人向けといった感じで、律子には今一つ頭に入ってこないのだった。
勉強の仕方も、珠里が問題を出し律子が答える、一問一答で知識を確認していく形式だが、その知識を試験当日には忘れてしまうからいつも困っているのだというのを、律子は言い出せずにもどかしい思いを抱えていた。俗にいう「これじゃない感」というものだろう。
とはいえ、わざわざ自分なんかのために付き合ってくれているのだと思うと、そんなことを考えていること自体がおこがましい気がして、律子のジレンマは募る。
出題と回答を繰り返す珠里とのやりとりも、徐々に形だけのものになって、お互いに退屈な空気になってきた頃、北上が英単語帳を捲る手を止めて顔を上げ、にやにやしながら話しかけてきた。
「さっきから、何のためのクイズごっこだよ。そんなことしたって、明日には忘れちまうぞ」
「何でそういう失礼なことばかりいうんだ、北上は」
北上の野次めいた言葉に珠里は心外な顔をしていたが、律子はおずおずと彼に同意した。
「でも北上君のいう通り、せっかくこれだけ復習しても、私は、すぐに忘れちゃうんだよね……頭が悪いから」
とりあえず自分を卑下しておけば、不満を表明しても責められないだろうという、ある種の牽制だった。
珠里には申し訳ないが、事実なのである。
「頭のせいにすんな。勉強の仕方が悪いんだっつーの」
北上の指摘は率直だった。
「ついでにいえば、珠里の教え方も悪い」
「お前は、いちいち波風を立てなきゃ、ものが言えないのか」
むっとする珠里を他所に、北上は律子に問う。
「おい律子、『経済活動』って何だ。説明しろ」
「え!?」
唐突に尋ねられて、律子は動揺を隠せなかった。
しかも、答える前に、北上が更にたたみかける。
「じゃあ『市場』って何? 『財』と『サービス』の違いは?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。急にそんなに説明できない……!」
律子が答えに窮していると、北上はふんと鼻を鳴らした。
「ほらな、そういうことなんだよ。せっかく知識入れても、説明できなきゃ意味ねえだろ」
きつい言い方には萎縮させられるが、尤もではある。
律子はぐうの音も出ず、しょげるより他なかった。
北上は、漸く自分に番が回ってきたとばかりに得意げな顔をして、これまでの珠里と律子のやりとりを論いながら、言う。
「お前らはさっきから、珠里が意味を出題して、律子が用語を答えていた。『商品の生産と消費を繰り返す営みを何という?』『経済活動』みたいな具合に、だ。でもそのやり方じゃ、律子は用語を覚えたとしても、意味は答えられねえし、根本的に理解もできねえ」
悔しいが大方その通りだった。
今回は珠里と一緒に勉強していたが、一人で勉強に取り組む時も、そうやって一問一答で知識を詰め込むようにした挙句、結局試験当日には何も残らないというのが、毎回のパターンだった。律子がこの教科を苦手としていた所以でもある。
歴史ならばいくらか好きで興味があるので、そういう取り組み方でもいくらかは身につくのだが、政経はどうにも興味が持てず、テキストを復習うだけでも苦痛でしかなかった。
「だから、二人で問題出し合って勉強するなら、せめて律子が意味を答えるようにしろ。説明できるようなら、用語は黙っていてもセットになっているだろうから」
北上は言う。
要するに、覚える順番、労力の使い方を変えろということらしい。
だが、律子には懸念することがあった。
「そりゃ意味を覚えなくちゃいけないのは分かるんだけど、正直、テキストの内容が何いってるか全然頭に入らないの。だから、用語を拾うだけで精一杯になっちゃうんだ」
「頭に入るも入らないも、政経なんて普段の生活の話だろ。普通に考えりゃいいんだよ」
それは所謂「できる人」の考え方で、何とも不親切な言い方だと律子は思ったが、北上の言い分としてはこういうことだった。
「今回のテスト範囲は経済理論だから、自分が買い物する時のことでも考えてみりゃいいんだ。服でも食べ物でも、何か買う時には『商品』があって、それを『生産』する人がいて、『消費』する人がいる。それ自体が『経済活動』という、みたいに。教科書で字面だけ追っていると、しち面倒臭い話のように感じるけど、身近なものに当てはめながら具体的にイメージすると何てことないだろ」
「ん……まあ、確かに」
今程の北上のざっとした説明を聞くと、図らずも、経済に関する理論や用語に対して「何だそういうことか」と敷居が下がるのを感じた。
「それで『商品』は、形のある『財』と形のない『サービス』に分けられるわけだ。具体的にいうと、食べ物とか日用品とかは『財』で、病院で治療したり、床屋で髪を切ってもらったりするのが『サービス』だ」
「おー、なるほど」
「といった具合に考えれば、説明問題とか選択問題は大体対応できると思うぞ」
そんな気がしてきた。
塾や家庭教師のCMではないのだから、そんな変わり身の早さには自分でも抵抗するところはあるが、それでも本当に、少しはハードルを下げて勉強に取り組めるかもしれないと思ったのである。
意外にも、北上は他人に教えるのが上手い。
律子は率直に思ったし、純粋に尊敬できた。
一言でいいから、それを伝えたかった。
日頃、彼のがさつさだったり横暴な態度だったりに、こちらも憎まれ口を叩いてばかりだったので、たまにはいいことも言いたいという、律子の胸の内である。
しかし、どうだろうか。
北上と珠里、対立する人間が同一の場にいるこの状況。
この場で北上を肯定するようなことを言ったら、珠里がどう思うだろうかと考えると、律子は仕方なく口を噤んでいるしかなかった。
あっちもこっちも顔色を覗ってしまうのは、律子の損な性格だった。
そもそも遡れば、二人がこんな面倒臭い因縁に囚われていなければ、律子だってもっと気楽でいられたのだと思うと、恨めしい気持ちにならざるを得なかった。
律子は、元々北上のことが嫌いなわけではない。顔はどストライクに好みだし、性格はまあ、唯我独尊な部分には度々驚かされるが、だからといって彼のことを否定する理由は何もないのである。
ところが、律子は珠里と友達なので、彼女が北上から執拗な攻撃を受け、それを庇っているうちに、自分の身の振り方が分からなくなってしまったのだった。対立する二人と親交を深めようとすると、律子は、片方を立てれば片方が気分を害するだろうなどと要らぬ気を回してしまい、結局自分の感情に変な偏りが出てきて、そのうちに振る舞いまで何だか自分の思うようにいかなくなってきて、現在に至る。
今も、たった一言「教えるの、上手だね」とでも言えばいいところを、喉に引っかかったものを無理矢理流し込むように、やり過ごす。
だが、この気苦労は一体誰の何のためなのだろうという、やるせない思いも顔を覗かせる。
そんななか、律子を挟んで北上の解説を聞いていた珠里が、あっけらかんとした声で言った。
「何だ、北上。教えるの上手いじゃん」
「え……?」
律子は思わず低く声を出してしまったが、幸いそれは拾われずに、珠里は言葉を続けた。
「だったら、律子と一緒に私にも教えてよ。私は、市場経済の話が、いまいちごちゃごちゃしていて分からないんだ。需要曲線とか、供給曲線とか」
「は? しょうがねえな。教えてやってもいいけど、これ、貸しだからな」
口調だけは渋々といった感じだが、表情や声の様子から、北上の方もまんざらではないようだった。持ち上げられるのが好きな、彼らしい反応ではある。
あ、そうなっちゃうのね。
と、律子は思わず拍子抜けした。
もっとぎすぎすしたことになるのかと思いきや、珠里は至って素直に、北上の良さを認めていた。
だからこそ、律子はいよいよ本当に、自分が神経をすり減らして気を回していたことへの意味が見出せなくなり、虚無感を覚える。
それ、私が言いたかった言葉だし。
だったら多少出遅れてでも、自分も続けばいいのだが、後出しは嫌だというまた何とも厄介な自己都合で躊躇して、結局言わずじまいだ。
どうにもしようがなくて、律子は、誰に向けてともつかないような愛想笑いをした。
そのくらいしか、できることがなかったのである。




