4頁 空虚な朝は明けて
雪、
粉雪が舞っている。小さく、軽やかな雪が夜の闇の中、舞っている。空気があるかなんて、それこそ息をしていても大して気づかない。だから、こうして雪に満たされでもしない限りそこに大気があるなんて、気づかない。そこに空間があるかなんて気づかない。やがて、その氷の毛糸は地に落ちる。地表をくぐり、溶け落ちて、いずれは永久凍土へと届く。それもやがては岩盤へと。一粒の水滴は、一筋に。深く深く、落ちていく。苦しくはない。また廻り廻って(めぐりめぐって)、戻るから。苦しくはない、けれど,もどかしい。誰かの声が呼んでいる。もっと早くに思い出さなきゃいけないのに。“おはよう”って、僕は一体誰に返せばいい?起きられないよ、今はまだ。だって朝ではないからね。起きられないよ、今はまだ。だって春はまだだろう。
墨を湛えたかのように黒い。それは、色ではなく明暗に拠るもので、底の見えない湖は、まるでそんな風に澄んでいる。表面だけを斜に見れば、無色透明な水が浮かんでいる。そこには、雄蕊と雌蕊になった桜の花が落ちている。一体全体、浮き上がっているのか、沈みこんでいるのか、はたまた中間に位置しているのかは分からない。可能性を絞ることを放棄したといった感じだ。湖の暗鬱さは、そのせいなのか。はたして桜がそうさせられたのかもわからない。いずれにせよどっちが所為かなんて、それこそ無色透明だ。
表面張力が一切働かず、水は少しも隆起することなく破れた。その穴から、少年の姿が浮かんでくる。眼を閉じて、されるがままに、眠っている。しかしやがて起きるだろう。そういう寝顔をしているからね。栗色だったその髪は、沈んだ桜に染められて、淀みのない深紅である。原子一つの隙も無いほどに、光子一つの屈折もないほどに。血が固まった唇、もっとも、もっと無機質的ではあるけれど。
眼を覚ましせば、俺は湖に浮かんでいた。そのまま暫く何も考えないまま、星のない宇宙の様な空を眺めていた。近くにあった小舟に乗り上げる。そのうえで仰向けに寝転がっていたが、まどろむ気持ちにはならなかった。それと不思議なことに服は微塵も濡れていない。さて、潔い気分だが自分が何をしていたのかさしあったって思い出せない。眠りにつく前に何をしていたかとか、その前後に違和感を感じない。唯々思い出せない。分からない。しかし、起きたとたん忘れてしまうレム睡眠の夢の様に、脳裏に微かに響くあの声は一体誰のものだったのだろう。体を起こし、胡坐をかくと船首が薄い霧を切り分けながら対岸との距離を縮めているのが見えた。湿っているであろう、岸辺には湿生植物が濡れた葉を横たえていた。遠くから、濡れた草を踏みながら、駆け寄る軽快な足音が聴こえる。どうしてだろう、水面が揺らいでいる。“たーん”と高らかにひとっ飛びしたと思うと、いきなり小舟に乗り込んで抱き着いてきた。衝撃で押し倒される。荒い息遣いが伝わってくる。黒いローブの様な服を着て、包帯を顔中に巻き、その隙間から金色の神が覗いている。小柄だ、何だろう?道の生物か。
「ハァハァッ、今日だっていうから、今か今かと待ってたんだよぉ。でも、もうじれったくなっちゃって飛び出してきちゃった」
ファンシーな喋り方だ。でも何故だろう...
「えへへ、やっと来たあ、デ、あっ...新入りぃ~。待ちくたびれたよお」
何だ、顔見知りだったのか。いや、
「 “おはよう”新入りッ。今日も朝だよ」
ああ、ようやく言えると、そう思った。
「うん...おはよう」
降りましたね!今日じゃなくてもう昨日だけれど...