南へ
「(どうすれば…
どうすれば…
どうすれば…)」
脳内でぐるぐると回り続けるその言葉は、
もはやジャカが何かを考えようとしていることを
表してはいなかった。
ただ回転木馬のように通り過ぎてはまた現れるだけで、
彼の意思で紡がれたわけではなかったからである。
しばらく無我夢中で駆け続けたが五歳の足、
そして人の行動などたかが知れている。
もう町の端まで来るほど走ったのではないかと思ったが、
気づくと先程までレゼルクと話していた公園に立っていた。
そこでは、空の青い光を眺めている者が何人かいた。
しかしジャカは独りきりであるかのような心持ちで
ベンチに腰を下ろした。
それから数分、寒さも忘れ途方に暮れてうつむく。
もう、帰る場所はない。
家に戻っても迎えてくれる家族は亡く、
それどころかあの男が戻って来るかもしれないと
ジャカは思い込んでいた。
今の彼には、泣きぼくろの少女が言ったように
周りの人々に声をかけるなどということは
とてもできない。
見知らぬ人間に近づくのが怖かった。
「…(どうすれば…
どうすればいいんだろう…)」
愁眉の上に、間欠的に繰り返し浮かぶ。
だが、考えても答えなど出るはずはない。
不安と絶望で押しつぶされそうになり、
ジャカは頭の中で癇癪を起こした。
「(どうすれば…
どうすればッ!
答えてよ!教えてよッ!
…父さん…母さん…ミリウ…レゼルク…
…誰でも…誰でもいいから…)」
その時、ジャカの視界が一瞬青く光ったと感じた。
身体が熱くなったようにも。
直後、目の前の景色に重なって文字が見えた気がした。
気がしただけである。
実際に見えているのかはわからないが、
言葉が自分の中に流れ込んで来て、はっきりと認識できた。
「いちばんおおいいけんは『つうほうしろ』」
と。
「…つうほう…
わからない…」
そうつぶやくと、違う言葉が流れ込んで来た。
同時に、先程認識した言葉は頭からも記憶からも消えてしまった。
「にばんめにおおいいけんは『まちをでろ』」
心身ともに疲れ果てたジャカは虚ろな瞳と意識でそれを受けとめ、
己を委ねることにした。
すでに彼にとって、ルフィカは地獄にも等しい場所に
なりつつあったこともある。
何をどうやっても、家族はもう帰って来ないのだ。
ならば、誰かは知らないが誰かの言うとおりだ。
この町を出てしまえばいい。
そう考えた。
「…町を出れば…
あの男に会うこともなくなる…」
最も親しかった友も、明日にはここを離れる。
レゼルクの元に駆け込んで、もしも、もしも
あの男がそれを嗅ぎつけたら。
この上、彼を失うわけにはいかないのだ。
自分の姿は見られていないとは思うが、
万に一つの危険も冒したくはなかった。
「…そうか…そうだ…
出よう、ルフィカを…
ぼくは…ここは、怖いから…」
ふらふらと、ジャカは立ち上がる。
そして、光差す海中のような淡く揺れる青の中、
おぼつかない足取りでゆっくりと歩き始めた。
ウィルスターの騎士、フリード・ウォルケンは
国の南の果てとも言うべき町、シュネールに向かう途中であった。
「シュネール守備隊の一隊を率いるように」との辞令が出たためである。
しかし、それが表向きの任務というのは明らかだった。
シュネールはミラストラ大陸の南岸に位置する町であり、
守備隊とは言っても国家間における大きな争いのない今の時代にあっては
他国を警戒して任に就いているものではない。
いつ頃かも定かでない大昔に、
海を南下すると見えてくるとんでもなく幅広く、恐ろしいほど深い巨大な溝
「グレート・トレンチ」を越えた所にあるという
エルトフィア大陸からの侵入を見張り、防ぐために置かれていた
軍の名残だと言われている。
現在では、そこそこの名門の出ではあるが実力がなく
使いものにならない連中や軍で失態を演じた者、
お偉方の不興を買った者などが送られ禄を食むだけの
辺境の隊であることは、この国の軍に身を置く者なら誰もが知っていた。
王都フェデリエで少しは名の知れていたウォルケンが
シュネールに行くことになったのも、左遷に違いなかったのである。
「結局何もなかったじゃねえか。
光るだけなら魔導灯でも蛍でも光るってんだよ、
大騒ぎしやがって」
馬上のウォルケンは、寝不足も手伝って乱暴な調子で言った。
もともと品行方正な方ではない。
同じく馬で後ろに続く二人の部下、グレイとゼップは
それぞれにあくびをしたり髪をかきむしったりしながら
苦笑いを浮かべた。
「いや、ありゃ驚きますよ。
ウォルケンさんだってあんなの見たことないでしょ」
「オレなんか、星が降って来るんだと思いましたからね。
ああ綺麗だった、で済んで胸を撫で下ろしましたよォ。
今なら大陸の果ての暮らしも謹んで受け入れられそうだ」
三人は新たな赴任先への旅の途中でルフィカの町に立ち寄り、
その夜に空が広範囲に渡って青く輝くという現象に
遭遇したのである。
町の中や周辺を調べるべく走り回る現地の兵たちに
協力しようとしたのだが断られ、深夜になって
光が収まった後に尋ねてみたら
特に異常はなかったと聞かされた。
不測の事態に備え一応待機していたウォルケンたちは、
すっかり寝不足になってしまったのだった。
「何だかカーンへのムカっ腹がよみがえってきちまった。
あのハゲヒゲ野郎、腹の中まで色黒だぞ、ありゃあ」
ウォルケンは、振り返って顔をしかめて見せる。
カーンというのは、十まであるウィルスター軍の隊の
第六部隊隊長ギエン・カーンのことだ。
ウォルケンの上司だった男である。
筋骨隆々な巨躯に加えて浅黒い肌、髪を全て剃り上げた禿頭、口髭という
かなり迫力のある外見の持ち主だった。
ウォルケンは彼の方針に度々異を唱えてきたので、
いよいよ腹に据えかねてシュネール行きを命じたのであろう。
王都さえ出て行けば後は好きにしろということなのか
ウォルケンの人柄を踏まえた上のことか、
他の兵が付けられることもなく三人で放り出された。
「俺は仏心を出してくれたもんだと妙に感心しましたけどね…
あの“鬼将”とか呼ばれているカーン隊長が
何かと逆らうウォルケンさんを処分したってのに、
首と胴体がつながったまんまこうしてお天道様の下を歩けるってんですから」
「斬っちまうと後々面倒もあるからだろ、
俺の方は斬るなら斬れってもんで首代を用意する気なんぞなかったがな。
飛ばすにしろ見張りも付けねえとは、よほど俺たちには
金も手間もかけたくないらしいぜ」
グレイにそう答えた時、ウォルケンは街道から少し離れた場所の地面に
何かが転がっているのを見つけた。
ルフィカを発ってから、まださほど進んでいない時である。
「んん?」
彼は、身を乗り出すようにして目を凝らし、眉をひそめた。
転がっているのは物ではなく、人なのではないか。
そう思えたからだった。
しかも、子供。
町は、すぐ近くだ。
行き倒れるにしては妙な気もするが、すでに息絶えているのだろうか。
考えるが早いか、ウォルケンは馬を止めると同時に飛び降り
走って行く。
グレイとゼップは何事かと思ったがすぐに事態を把握し、
グレイはその場に残ってゼップが主に続いた。
「どうですか、ウォルケンさん」
膝をついて子供を抱え起こしたウォルケンに、
背後からゼップは尋ねた。
覗き込んでみると子供は五、六歳の男の子で、
この時期にしては薄着の上に荷物などは一切持っておらず、
顔色は真っ青だった。
「身体が冷えきっちまっているが、怪我はないようだな。
おい坊主、起きろ!
道端をベッドにするには季節も格好も良かァないと思うぜ」
ウォルケンが軽く頬を叩くと、少年は瞳こそ開けなかったものの
小さく声を出して反応した。
「…うう~ん…」
「お目覚めか。
仕方ねえな、とりあえずルフィカに送っていくか…」
「!」
ウォルケンの言葉に少年は突如目を見開き、激しく首を振った。
その怯えた様子には、ウォルケンもゼップも驚いた。
「いやだ!
ルフィカには戻りたくない!」
「お、おう、落ち着け落ち着け。
一体何があったんだ」
「…」
問いかけに、少年は答えない。
重ねてきいても、態度が軟化しそうな気配もなかった。
彼の身に、どのようなことがあったのかはわからない。
が、幼い少年がこうなってしまうには
余程のことがあったのだろう。
仕方なく、ウォルケンはふっ、と笑った。
「わかった、ルフィカには戻らねえよ。
坊主、一人か?
俺たちは、ここからずっと南のシュネールっていう
町に行くところだ。
のっぴきならない事情があっての訳あり旅だ、
お前の事情もきかねえ。
一緒に来るか?」
「…」
少年はしばらくウォルケンの目をじっと見ていたが、
やがて小さくうなずいてそのまま眠りに落ちた。
再び笑みを漏らし、ウォルケンは少年を抱えて立ち上がる。
そして、ゼップと顔を見合わせた。
「旅は道連れってやつだ。
ジャリの一人くらい、増えたところでどうってことないよな」
「しかし、どう考えてもただの家出少年じゃないですよねェ。
面倒な事情を抱えてなきゃいいんですがね」
「ルフィカから来たのは間違いないようだ。
ゼップ、お前ひとっ走りして捜索願の出てる子供がいないか
確かめて来い」
「わかりました!」
「頼んだぜ。
俺は坊主が起きたら再度事情をきいてみる、
もしこいつが本当にルフィカに戻らねえ方が良さそうなら…
俺らと一緒にシュネールに行きゃいいさ。
あそこは行き場のない連中、脛に傷持つ連中の流れ着く地だ。
どんな身の上だろうと拒みゃしねえ」
ウォルケンは、まだ知らない。
腕の中の少年の名がランディアク・ジャカであることも、
彼がなぜここにいたのかも。
ジャカもまた、知らない。
己を抱える男の名がフリード・ウォルケンであることも、
彼がなぜここにいたのかも。
そして、自分の行く先も、待ち受ける未来も、
自らの選び採る道も。