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不断のジャカ  作者: 吉良 善
声を聞くもの
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青の夜

ジャカは、即座には理解できなかった。

ミリウは、何を言っているのだろう。

しんだ?

しんだとは何だろう。

おとうさんが、しんだ…

「ミリウ!

 外に出なさい!」

呆然としている間に、今度はネリアの声が耳に刺さった。

悲鳴のような響きがあった。

身体中の血が逆流したように、ジャカは全身が痺れたようになって、

足を動かせないままに顔だけを自室の扉に向けた。

硬直した足の下で、何が起こっているのか。

彼がいるのは、生まれてからこれまで過ごしてきた

最も安息できる場所たる自分の家である。

しかし今、扉の向こうに見たこともない異世界が広がっているような

錯覚に陥って、そこへの入口を開こうという気になれなかった。

少し前まであった日常が消え失せ、この家そのものが

魔境になってしまったように思えていた。

「おかあさん!」

が、再び届いた妹の悲痛な叫びに、ジャカは動かざるをえなかった。

その理由が、家族の安否を確かめるためか、

己の生命の危機を感じたからなのかははっきりとしない。

もしかしたら、彼は何が起きているのかおぼろげながら

気づいていたかもしれない。

ただ、理解しないようにしていたのかもしれなかった。

だから無意識の内にではあったが、念じていた。

ミリウ、声を出すんじゃない。

さっさと家を出てくれ。

さもなければ…

「…」

気づくと、下からの物音がやんでいた。

ジャカは恐る恐る扉に近づいて、音が出ないように

慎重にノブを回しゆっくりと開いていく。

自分がやっと通れるくらいの隙間ができると、

まず顔をその隙間に入れるようにし、

眼窩から飛び出そうなほどに前に押し出す気持ちで

目玉をぎょろつかせ、左右を往復させた。

視界に入るのは、いつもの景色である。

廊下と、正面に物置の扉があるだけだ。

一階からの音は、聞こえない。

ジャカは、亀が素早く思えるくらいに

ゆっくりと動くつもりで少しずつ身体を廊下へと進めていく。

そして完全に出てしまうとそろそろと扉を閉め、

部屋から見て右手にある階段へとすり足で近づいた。

果てしなく遠く思える階段の所まで何とかたどり着き、

首を伸ばして下の様子を窺う。

その時、ジャカは心身ともに凍りついた。

一階の廊下、上から見えている範囲の右端から、

ちょうど男が消えていくところだった。

顔は見えなかった。

だが、父ではない。

かなり長身であるように思えた。

一瞬のことで他の特徴を記憶することもできなかったが一つだけ、

右の前腕部分から血が流れているように見えた。

男の目的はわからないが、二階に上がって来ることは十分考えられる。

顔を合わせれば、挨拶するだけでは済まないだろう。

異様な状況と、住み慣れた自宅で見知らぬ男を目にした恐怖で

震える手足を何とか制し、ジャカは部屋の前まで戻り

物置の扉をそっと開いて滑り込んだ。

ここしか隠れる所が思いつかなかった。

自室には、幼い妹とかくれんぼをした時ですら

鬼に見つからずに済むような隠れ場所はなかったのである。

雑然とした物置の、あまり使われなくなったおもちゃや

たまにしか出番の来ない掃除用具が押し込められた箱の後ろ。

そこに身体を詰め込むようにして、ジャカは息を潜めた。





どのくらい時間が過ぎたのだろう。

一時間くらいだろうか?

いや、ひょっとすると一分もたっていないのではないか。

恐れと緊張、暗闇と静寂に感覚が支配され、

見当がつかなかった。

いつ外に出ればいいのか、その判断もできない。

そう考えていると、再び下から音が聞こえた。

ジャカの両手は思わず力がこもり、石ころのように固まった。

「(上がって来る!)」

静けさの中で突然耳に届いたのは、階段が軋む音だった。

それがわかった時、ジャカの頭は真っ白になった。

あの男が物置の扉を開いたとしても、抵抗する術はない。

誰よりもうまく隠れ、見つからないように祈るしか、

できることはないのだ。

一歩一歩、近づいて来る足音。

迫るほどに加速する、早鐘のようなジャカの鼓動。

二つのテンポが脳をかき回し、血流をも乱してしまいそうだった。

やがて階段を登りきった足音は、廊下を進んで

物置とジャカの部屋の前で止まった。

どちらに入る?

そんな問題ではない。

どちらに入ろうとも、残る一方にも入るに決まっている。

ジャカは呼吸を止め、震える身体を縛り付けるように押さえた。

次の瞬間、物置の中が明るくなった。

あの男が、部屋ではなくこちらの扉を開いたのだ!

ジャカは、飛び出しそうな心臓にすら止まれと命じたかった。

男の息遣いが聞こえる。

今、彼との距離は3メートルとない。

それをさらに詰め、男が物置内に一歩足を踏み入れた。

ジャカは、差し込んで来る光を遮るように両目を固く閉じる。

男が、二歩目を踏んだ。

その際足に当たったのか、何かが転がる音がした。

それが、耳元で鳴ったくらいに大きく響いた気がした。

もう一歩、男が進み入って来れば、おそらく見つかる。

不意を突いて勢いよく飛び出せば相手は驚いて、案外逃げられるのではないか。

いや、このままじっとしていれば、見つからずに済むのではないか。

結果的にジャカは動かなかったが、

思い浮かんだ二つの道の一つを選んだわけではない。

どちらかに決められず、心も身体も動かなかっただけであった。

その間に相手が踏み出そうとした運命の一歩は、

直前になって止められた。

外で、人々の騒然となる声が突風のように押し寄せたからだった。

驚きのあまりか、騒ぎに紛れ逃亡しようという算段か、

男は時を移さず走り去った。

物置の扉が閉じられることもなかった。

もう男は戻って来ないと直感したジャカは、大きく息を吐いて

強張っていた全身を弛緩させ、ゆっくりと瞳を開けた。

そして、戻って来ないと感じた男をなぜか警戒しながら

物置を出る。

自分の部屋へ入ることもなく、階段へと歩を進めた。

「…?」

見下ろした階下に、明りに混じって青い光がかすかに見えていた。

窓から入って来ているのだろうか。

不思議な光だった。

人工的なものは感じさせない。

それに導かれるように、ジャカは階段を下り始めた。

やがて一階に立つと、青の中でどす黒く見える物が

壁に飛び散り、床に広がっているのがわかった。

居間を入ってすぐの所に、足が見えている。

わざわざ覗き込まなくてもわかる。

父が倒れているのだ。

凍りついたかのような心はそれを見向きもさせず、

居間の前を通過し台所へと向かった。

そこでは、やはりどす黒い物が至る所に飛散し、

また広がる床に母がうつ伏せで沈んでいた。

その空間に背を向け、ジャカは玄関へと歩いていく。

そして、そこへ通じる廊下の途中に転がる小さな身体を見つけて

その傍らに立った。

身をかがめ、揺すってみる。

ミリウは、微動だにしなかった。

ジャカの手に応じて、力なく身体が揺れただけだった。

目に映った無機的な動きに、ジャカはつい先刻まで

話し、笑い、触れ合っていた家族が魂から切り離され、

一個の物となったことを実感した。

その愛おしい肉塊を両手で掴みながら涙をあふれさせ、

青い光の中でジャカは思考を停止させた。





数刻ののちにジャカの精神は異常をきたし、この場にとどまっては

自分も殺されるという妄想に襲われた。

周囲で次々と物音が聞こえてくるような気がして、

その度にあの男が戻って来たのだと怯えた。

頭の中ではどす黒い血だまりと動かなくなった家族たちの姿が

浮かんでは消え、彼はすぐそばにある玄関の扉から外に飛び出した。

冷たい空気に身を投じてすぐにジャカの目に飛び込んで来たのは、

空に広がる濃く、明るい青。

まばゆくも儚い、命の揺らめきのような青い青い光だった。

「…どうすれば…

 どこへ行けば…

 ぼくは…なにを…!」

何もわからないまま、考えられないままに走る。

あの男の姿は、どこにもない。

通り過ぎる路傍で、広場で、人々が集まり空を見上げていた。

その夜、ルフィカの町は日付が変わる頃まで一面青に染まったという。

「星が爆発でもしたのか…?

 なんだか不吉だな…」

家の扉の前で青い光に気づいたレゼルク。

「まあ、綺麗…

 まるでわたしたちの未来を照らすよう…」

母との帰路の途中で空を眺めた泣きぼくろの少女。

つい先程ジャカと接点のあった彼らも、

現在のジャカがどのような境地にあるかなど、知る由もなかった。

空を見ることなど思い至らない、涙を流しながら駆けるジャカは

己が一瞬あの青い輝きに包まれた気がしたが、

家族を見舞った凶事と自らの前途に横たわる闇にわななき、

ただただ惨劇の現場から離れようとするのみ。

美しく幻想的な光景に見入る人々の中に、

彼の存在に気づく者は誰もいなかった。


寒い日であった。

深まる冬はぐんぐんと気温を下げていき、

昨日よりもずっと冷え込んで

雪が降るのではないかと思わせたくらいである。

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