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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第5章/この目を見つめて(Kakeru Chiaki)
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83.今日は一体どうしたの


 遠くで小鳥の鳴き声らしきものが聞こえて、僕はゆっくり瞼を開いた。小さく唸りながらのそのそと半身を起こす。


 カーテンの隙間から差し込んだ光が布団の上に白線を引いている。

 そうだ、二度寝したんだった。今日は休みだから。やっと思い出した。

 まるでタイムスリップから戻ってきたような不思議な感覚だった。


 ベッドから降り立ち、前で組んだ腕を思いっきり伸ばす。細い手首だと自分でも思う。多分ちょっと痩せたんだろう。


 カーテンを開けて遅めの朝の光を浴びる。顎を引き、眼下の景色を眺める。犬の散歩をしている人が一人通り過ぎていった。


 人事担当に呼ばれたその翌日。

 重要な話はもちろんあった。それは僕に大きな変化をもたらすものだろうと容易に想像がついた。

 なのに今の僕の心は穏やかな空のように、静かだ。



 最近、朝はゼリー飲料、昼はサンドイッチばかりだった。夜はそのときによるけれど、サラダや野菜ジュースで済ませることが多かったな。

 思い返してみると、まるで極端なダイエットメニューみたいだ。


 トマリの食事もこんな感じなのかなと想像した。でも彼女の場合、単に食事に関心がなさそうだった。それはそれで困ったところなんだけど。


 だけど……だけどね。

 今でもしっかり覚えているんだ。


 一緒に働いてた頃、スカウトマンを追っ払った後、一緒にミルフィーユを食べたでしょう。

 しばらくは涙目だった君だけど、上に乗った苺を口にしたとき、顔色がワントーン明るくなったように見えたんだ。頬や唇も桜色に染まって。


 食べにくさに定評のあるミルフィーユだ。僕が盛大に崩したのを見て、子どもみたいに無邪気に笑った。

 その後も夢中で食べていたよね。途中また涙目になっていたのは笑い過ぎたからかな?


 あのとき思ったんだ。美味しいって感じること、ちゃんとあるんだって。

 何かが彼女の余裕を失くす要因になっている。だから自覚しづらいだけで、食べて生きたい本能くらいちゃんと備わってる。


 それを僕に見せてくれた。ほんの短い時間だったけれど。

 ねぇ、知ってる? 大切な時間は心の中の宝箱にしまわれることで永遠になったりするんだよ。


 時を止めているんだよ。僕の中で、今でもずっと。



 テーブルの上に置いてあったスマホを何の気なしに手にとった。

 スリープ画面を解くと、メッセージアプリに一件の通知が来てる。開いてみるとそれは相原さんからのものだった。


『千秋くん、電話をしたいので都合のいい時間を教えてくれる?』


 文面からして、仕事のことではなさそうだ。


 届いたのは大体一時間前。待たせちゃったな。

 申し訳なく思いながら僕は返信した。


「気付くの遅くなってごめんね。今ちょうど時間あるよ。今日は休みだからいつでも大丈夫」


 頭を下げるキャラクターのスタンプをつけようかと思ったけど、結局やめておいた。何か深刻な話かも知れないから。


 数分ほどで彼女から着信があった。


『千秋くん。ごめんなさい急に連絡してしまって。その、大丈夫なのかと気になったものだから』


「大丈夫って?」


『人事担当に呼ばれたのでしょう? こちらにまで噂が回ってきたわ』


「ああ、そのこと。情報早いね」


『驚いた。何故そんなに平然としているの』


 何故と言われても僕にもわからない。それをなんとかもっともらしい言葉に整えようとする。


「しょうがないよ。覚悟はしてたから」


『覚悟ということは……やっぱり』


「本当はまだ言っちゃいけないんだけどね。お察しの通り」


『そう……』


 短い相槌なのに、複雑な感情が凝縮されているように聞こえた。


 相原さんはもうとっくに異動しているし、僕の担当エリアでもないし、頻繁に連絡のやり取りをする訳でもない。離れている時間くらい慣れているだろうにな。ちょっと不思議に思った。


『千秋くん』


 やがて改まったような声が聞こえた。少しの間があったのはなんのためだろう。



『お休みのところ申し訳ないのだけど、今日、何処かで時間作れない?』


「え、時間?」



『少しだけあなたに会いたいわ』



 相原さんはそこから何故か口数が少なくなってしまった。


 もしかして責任を感じてるんだろうか。トマリと最初に噂になったとき、誤解を晴らすために彼女も協力してくれたから。


 もしそうだったら、そんなことない、気にしないでって言わなくちゃ。ちゃんと面と向かって。

 待ち合わせの時間を話し合いながら、僕はクローゼットの扉を開いた。



 薄紫のシャツに黒のベスト、黒のスラックス、上にチャコールグレーのステンカラーコート。それからネイビーのマフラー。メイクも抜かりなく施してきた。


 見た目も大事。なるべくいつも通り。そう心がけたつもりだ。


 そう言えば、ここ最近で会いたいと言われたのは三回目だ。ダニーのときと、飲み会のときと、そして今回。


 まさか相原さんも何処か凄い遠いところに行っちゃうとかじゃないよね。

 二度あることは三度ある。どうしてもその言葉が頭をよぎって心細さを感じてしまう。親しい人ばかりが去っていくから尚更だった。



 気を遣ってくれたのか、待ち合わせ場所は僕の最寄駅近くのカフェになった。


 思えば相原さんと仕事以外で会うのは初めてだ。高校のときでさえ、プライベートで会ったことはなかったから。


 平日の昼過ぎという時間帯もあってなのか、店内はまばらに席が空いていた。僕たちは壁際の席を選び、向かい合って座った。


「急に会いたいなんて言ってごめんなさい。あなたが遠くに行くまでに、どうしても話しておきたいことがあったの」


「凄いね、相原さん。遠い場所だってよくわかったね」


「なんとなく言ったのだけど、やはりそうなのね」


「あ、もしかして鎌かけた? あっさりひっかかっちゃった。駄目だなぁ、僕は」


「いいえ。駄目なんかじゃないわ。私が狡猾なだけよ」


 彼女はうつむく。ブラックコーヒーの入ったカップを見つめたまま。


 僕はカフェモカを少しずつ口に含みながら待った。きっと彼女から何か切り出してくるんだろうと思って。


 だけどおかしい。いつまで経ってもその気配がない。

 相原さん? 僕は彼女の顔を覗き込みながら呼びかける。



「あなたにはそのままでいてほしかったの」


「え?」


「素直なあなたのまま、見たいものを見て、聞きたい言葉を聞いて、それ以外に気を取られてほしくなかった」


「それってどういう……」


「でも私たちくらいの歳の大人って、それが許されないのよね」



 涼しげな顔に哀愁の影が射す。僕をじっと見つめる漆黒の色が何を意味するのかまだわからない。


 なんでだろう。相原さんくらい親しい人の考えてることなら、今まではなんとなく伝わってきたのに。

 ちゃんと汲み取れるだろうか、彼女の気持ち。少しばかり不安に思う。それでもこれは伝えておきたいと思った。


「相原さん。許されないってことはないと思うよ。面白くないと思う人がいるだけで、好きなものを選ぶ権利くらい誰にでもあるんだ。皮肉なことにそれが人を傷付けてしまうこともあるんだけど」


「何かあったの? 千秋くん。最近まともに食事もとれてないと菊川バイヤーから聞いたのだけど」


「菊川さんが? そっか……」


 ああ、なるほど。相原さんはここへ来てからもずっと、僕の心配をしてくれてたんだ。

 彼女が何かつらい思いをしている訳じゃない。そうわかっただけでも緊張がほぐれる。


 ここ最近はいろんなことがありすぎた。

 だけどそうだね、僕自身に起こったことと言ったらやはり……


「今ならもう話せる。詳しいことまでは言えないんだけど、実はね……」


「ええ」


「僕を好きになってくれた人がいたんだ」


「あら」


「でも想いの形が違ってた。僕はそういう目で見れなかった。だから向こうから離れていってしまったんだ」


「あなたにとってはそう珍しくないことに感じるのだけど……高校の頃だってよく告白されていたし」


「僕にとっても特別な人だったんだ。トマリとは違った意味でね」


 相原さんはやっとカップに口をつけた。でも一口飲んだだけですぐ置いてしまう。

 再びこちらを見たとき、その目が少し細まったように見えた。


「まだ桂木さんのことを想っているのね」


「うん。ちゃんと会って話してこようと思うんだ。トマリは恋人とも別れてしまったらしくて、来月地元に帰るんだって。だから僕も予定合わせてそこまで行く」


「それも菊川バイヤーから聞いていたわ。勇気ある決断ね」


「少しの間だけでも彼女の傍にいたい。独りにしたくない。僕なんかで支えになれるかわからないけど」


「私は一緒にいられる時間の長さだけが全てじゃないと考えているわ。あなたと過ごした時間が彼女のこの先の人生で支えになっていくかも知れない。勇気を出すことができたあなただもの。少しは自分を信じてみてほしいわ」


「ありがとう、相原さん」


 絶対上手くいくとか、言わないのが相原さんらしい。トマリの決意を動かすのが簡単でないことも察しがついているんだろうな。


 そこからはとりとめもない雑談が続いた。話したそばから泡のように消えていく、儚くも心地良いやりとり。

 僕が不安に思うようなことはあえて言わない、彼女の気遣いのようにも感じられた。


 話したかったことって、これなのかも知れない。具体的なテーマがある訳ではなく、ただ時間を共有したいときってあるよね。そう納得しかけていた。


 そして気が付くと一時間くらい経っていた。いている方だとはいえ、あまり長居しない方がいいだろう。

 僕はさりげなくスマホを手前に引き寄せる。


「話聞いてもらったし、お会計は僕が持つよ」


「どうして? 私が呼び出したのよ。こんなときまで上司の顔をしなくていいのよ。自分の分くらい自分で払うわ」


「そう? なんかごめんね」


「大丈夫よ。そろそろ行きましょうか」


 彼女もハンドバッグを持って立ち上がる。

 表情は見慣れた涼しげな顔。もう大丈夫そうだと思って安堵した。


 並んでレジカウンターへ歩いて行く途中。


「ねぇ、千秋く……」


「あっ、ごめん! コートとマフラー忘れた」


 自分のうっかりに気が付いた。椅子に掛けっぱなしだったそれを素早く掴み取る。


 彼女に追い着いた後は会計を済ませて店を後にした。ひんやり冷たい空気に震えた。



「晴れてるとはいえやっぱり寒いね。コート中で着てくるんだった。ちょっと待ってね」


「ええ、待ってるわ」


「あれ、何処が袖だっけ? なんか最近要領悪いなぁ、僕。疲れてるのかな」



「千秋くん」



 軽く、腕に何かが当たった。


 見ると相原さんがうつむき加減になっている。僕の腕に触れたまま。

 どうしたんだろう。なんだかこの人も、今日は本調子じゃないように見えるんだけど……。



「お願い、もう少しだけ待ってほしいの」


「相原さん?」



「もう少しだけだから」



 寒いはずなのに、それもよく感じ取れないまま。


 ただ僕は立ち尽くしていた。こんなときに限って予感は働いてくれない。今こそ必要な気がするのに。


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