82.消えたりなんかしないで(☆)
それから月日が流れ、気がつけば年が変わっていた。
アパレル販売には初売りという一大イベントがある。エリアマネージャーである僕だって忙しく過ごしていたはずなのに、時間の感覚がだいぶ後からついてくるようだった。
ダニーとの話があってから、僕は度々放心状態になった。普段気を張ってあっちへこっちへ駆け回っていても、ちょっと立ち止まると意識が遠くへ飛んでいく。
一月中旬になって、少しだけ安定してきたかに思えた。
お昼どき、本社の外のベンチでサンドイッチを齧ってた。
食欲もちゃんとある。そう思ったのだけど、僕はいつの間にか子どものようにパンくずをポロポロ零していた。
「ダニー……」
晴れた空を仰ぎ小さな声でその名を呼んでも、意外と感情はぶり返さなくて、ただもう戻らない時計の針を思い描いて見つめるだけだった。
「千秋、それだけで腹いっぱいになるのか。そんなに少食だったか、お前」
「菊川さん……」
片手を腰に当てて立つその人を見上げた。逆光で見えづらいけど、なんとなく眉を寄せている感じがする。
僕が戻るの遅かったから、心配かけてしまったのかな。
「大丈夫ですよ。今はこれでも足りるんです」
「やっぱり噂のことが相当こたえてるんじゃないのか。それとも他に何かあったか」
「…………」
返事くらいしなきゃいけないのに、言葉が思うように出てこなかった。
従兄のこととさえ言わなければ、ぼかして伝えれば、言ってしまってもいい。この人になら。
でもどうしても今は言う気になれなかった。
「心配かけてごめんなさい。そのうち、話せたら話しますね」
「そうか……わかった。お前に任せるよ」
「ありがとうございます」
「隣に座っていいか。それ食い終わったら一緒に戻ろう。俺はこの後、催事の準備を手伝いに行く。お前も行かなきゃいけない店舗があるんだろ。気を付けて行ってこい。そんでつらくなったら遠慮なく連絡しろよ」
「はい。本当にありがとうございます。菊川さんもお気を付けて」
冬とは思えないほどの暖かな空気は、ぬるま湯に浸かっているような錯覚をもたらす。
でも僕にはむしろ染みてしまう。額に触れられたあの瞬間、確かに貫かれた。傷が残った。
でもそれがダニーの僕に対する最後の望みだったのなら仕方がない。応えることはできなくても、せめて気持ちだけは受け入れようと思った。
トマリに何かあったのかも知れない。
そんな想像が浮かんだとき、僕の意識はやっと現在という時間軸に戻ってきた。
二十一時半くらい。場所は以前の担当エリアだったショッピングモール近くの居酒屋。
そうだ。ちょうど仕事を終えて帰ろうとしてたとき、菊川さんに呼ばれてここへ来たんだ。
そしたら槇村さんもいて、ちょっとびっくりして。
いろいろ雑談しているうちに、どういう流れだったか思い出せないけど、幼い頃に泊まったあの旅館を紹介された。今度の菊川さんとの旅行でそこに泊まることはできないかって。
槇村さんはどうやら僕が昔からトマリを想い続けていたことを知っているらしい。紹介してきたのも、トマリが近いうちに地元に帰る予定だからだという。
なんで。どうして帰る必要があるの?
帰るって、もう戻ってこないってこと? ダニーみたいに。
心臓がドクドクと忙しくなく脈打った。
今になって焦りの感情が湧いてくるなんて、やはり僕はあの年末の夜からずっと、実感とは遠い場所にいたみたいだ。
「トマリはもう恋人と別れました。文化祭動画のことも知ってます」
槇村さんの口からその言葉が出て、僕は声も出なくなるほどの衝撃を覚えた。
やがて思い浮かんだのは、暗闇の中、こちらに背を向けて立っているトマリの姿。そこへはらり、はらり、と桜の花びららしきものが降りてくる。幻想的なのに何処か悲しい、終わりと孤独の象徴のような光景。
きっと泣いている。そう感じた。
僕にもたまらない悲しみが込み上げる。
だってトマリは心の拠り所を失ったということだろう。そうだろう。
僕は彼女の幸せを一番に願っているつもりだった。でもその未来へ続く道は崩れてしまった。彼女の笑顔などとても思い描けない。
もしかしたら僕のせいかも知れないじゃない。トマリの近くに僕がいるということが別れ話の原因だったとしたら?
旅館に行こうと思えば行けるだろう。そんなに無理のかからない距離だと知っている。
でも僕が現れることで一層彼女の心を掻き乱すんだとしたら?
悪い想像が膨らむあまり、なかなか返事ができなかった。
「迷惑になる。本当にそれだけだと思いますか。トマリはきっと待ってますよ、言えないだけで」
槇村さんはそう言ってくれた。
菊川さんは協力してくれるという。
片桐さんには痺れを切らされた。
ここまでの流れが怒涛の如く感じられて、正直僕の頭の中は処理しきれない情報でいっぱいになっていた。感情もこんがらがって、何が本心なのかもわからなくなっていた。
でもそんなとき、あの言葉がはっきり蘇ったんだ。
――お前の想いがどんな形であろうと、どっちつかずな態度をダラダラ続けるだけじゃ駄目だ。時には責任を持って決着をつけなきゃならねぇ。男として、人としてな――
まるで今、この瞬間のためにあったような言葉。ダニーが未来の僕に手を差し伸べてくれていたのか、そう思ったほどだった。
おかげで僕は決断できた。
最愛の人が幸せへの道を見つける、それを見届けるため、ちゃんと会いに行ってとことん話したいと。散々振り回したり壊したりしたんだ。せめて逃げずに向き合いたいと強く思った。
どんな結果になっても僕は受け入れる。想いが成就しないまま、一生忘れられなくなってもいい。
僕がそう言ったら、菊川さんは目を細めながら「お前は強いな」と返してくれた。
途中まで意識が朧げだったせいで話の内容も詳細までは覚えてないんだけど、だいぶ槇村さんに助けられたと感じた。
トマリをかなり大切に思っているのが伝わってきた。でも何故僕に託すのかはわからない。僕なんて、決して頼りになるタイプでもないだろうに。
飲み会の後。そんなことを考えながら、みんなと一緒に駅まで歩いていた。槇村さんと菊川さんは笑い合いながら何か話してる。
もう少しで着きそうなときだった。片桐さんが横から距離を詰めてくるから一体どうしたのかと思った。
「なぁ、千秋。俺、上に話すから。この間言ったのは全部誤解だったって説明するよ」
「片桐さん、でも……」
「さっきも言ったけど、俺は別に応援してる訳じゃねぇ。ただ、自分のしたことにケジメをつけたいだけだ。わかったか」
「は、はい」
今夜はこの人にも助けられたように思うんだけど、応援ではないと本人が言うのならそうなんだろう。
だけど、そうだとしても、もう以前のような緊張感はない。昔のように仲良くはなれなくても、今はそれで充分だ。
その後、片桐さんとの会話はなかった。駅から先は別々の方向だったし。
僕は途中まで菊川さんと同じ電車に乗っていたけど、さっきの会話のことについては一言も言わなかった。
もう、良かったんだ。僕にとっては。
トマリとの距離感を誤ってしまってから、ずっと思ってた。僕にマネージャーの資格なんて無いんじゃないかって。
だから弁解もしなかった。せめて自分には嘘をつきたくなかったから。
この先は運命に委ねたっていい。誤解されても仕方がないことばかりしてきた。
どんな結果になっても僕の責任だ。
仕事にしてもプライベートにしても、これほど未来が見えない時期もそうそうなかっただろう。なのに不思議と怖くない。
トマリに会ったらこの心境も変わるのかも知れないけれど、そのときのためにも今はできるだけ心を穏やかに整えておきたかった。
翌日の朝。身支度を早めに終えた僕は槇村さんにお礼のメッセージを送った。そしたらすぐに電話がかかってきた。
出勤時間までまだしばらく余裕がある。だから僕もすぐに出ることができた。そこで間髪入れずに怒号が飛び込んできたからびっくりしてしまった。
どうやら槇村さんは僕が弱気になっていると感じたようだ。ちょっと焦りながらもなんとか宥める。
お互いがある程度冷静になったタイミングで、僕はもう一度、気になっていたことを切り出した。
「槇村さん、昨日結局詳しく聞けなかったけど、トマリに何かあったんでしょう。地元に帰らなくちゃならないくらいの事情が。恋人と別れたこともあるのかも知れないけど、いろんな理由が重なっているんじゃない? 違う?」
彼女は一瞬言葉に詰まったんだけど、ここだけの話ということで教えると言ってくれた。
『千秋さん、落ち着いて聞いてほしいんだ』
「う、うん」
『去年の年末近くだったんだけど、トマリの奴、体調不良でもらってた処方薬を飲み間違えたんだ。強い眠気に襲われてなかなか起きなかったのは、過剰に摂取したからなのかも知れねぇ』
体調不良。飲み間違い。
ゾクッという嫌な音を立てて背筋が凍る。
大きく震え出し、スマホを落としそうになった手を咄嗟にもう片方の手で押さえた。
まだ、何も聞いてない。大事なのはここから。なんとか自分に言い聞かす。
「それで……今の体調は? 薬の影響は? もう大丈夫……なんだよね?」
恐る恐る訊いた。
やめて、お願い。でも知りたい。知っておかなきゃ。相反する思いがせめぎ合う。
槇村さんの声が返ってくるまでが、とても長い時間に感じられたくらい。
『薬の影響なら今は大丈夫だと思う。体調不良は続いてるけどな。あの日はなかなか連絡が繋がらなくて、心配になってあいつのアパートまで言ったんだ。そこでなんとか起きてくれたんだけど、部屋に入った後、こんなことを言ったんだよ』
落ち着いて聞いてほしい。そう前置きをしたのも納得する、それは衝撃的な話だった。
身体の芯が握り潰されたように痛んだ後、冷たい真っ暗闇に落とされたような気がした。
トマリ。
ねぇ、トマリ。
目覚めなければ良かったなんて、君は本当にそんなことを思ったの?
君は昔から自分を過小評価していたね。
誰にも必要とされてない、役に立たない人間だって。
そんなことはないって、僕は何度でも言いたかったよ。この先も許されるなら伝え続けたい。
だからお願い。
僕が辿り着く前に消えたりなんかしないで。
この手を払いのけてもいいから、自分の存在を認めて、しっかり抱き締めてあげてよ。
お願いだよ。
どうか、どうか……。
僕の祈りが続く間、槇村さんの声もところどころ震えてた。彼女もよほどショックだったんだろう。
もう取り乱して人に心配かけるのは避けたかったからなるべく平静を装ったけど、何処まで誤魔化せていたかわからない。
電話を切ってから涙が零れた。一人きりのリビングで膝を抱えてうずくまった。嗚咽が止まらなかった。
苦しい。苦しい。もう限界だよ。何処まで僕を追い詰めるの。
誰に向けたものでもない、いや、行き場のない言葉が湧いてくる。
自業自得だけならまだ良かった。なんで彼女まで。彼女が何をしたっていうの。その理不尽な現実に納得がいかなくて、やるせなさに唇を噛み締めた。
テレビから聞こえる明るい声が、僕の気持ちとあまりにも不釣り合いで虚しくさえ思えてくる。
昨日までは何も怖くなんてなかったのに。今は強烈にそれを実感して怯えてる。
トマリのいない世界なんて考えられない。僕の人生の傍にはいなくたって、存在が失くなるなどあってはならない。
役に立たないのは僕の方だ。そう思いかけていた。
だけどそんなとき、あの力強い声が悲しみの渦の中にいる僕の意識を覚ました。
――迷惑になる。本当にそれだけだと思いますか。トマリはきっと待ってますよ、言えないだけで――
「槇村さん……」
思わずその名を呟いていた。彼女もまた僕に勇気をくれた一人。
そうだよね。せめてトマリに会うまでは前を向いていなきゃ。自分の力を信じなきゃ。
僕は涙を拭って立ち上がった。そろそろ仕事に向かう時間だ。メイク取れちゃった。ちょっと直して行かなきゃ。
今できることをしっかりやるのも未来へ進む第一歩。そんな基本的なことを思い出した。
でもこの日、僕はもう一つ、思いがけない事態に見舞われた。
出勤してすぐのこと。
ガン、と何かにぶつかるような音がした後、片桐さんが息を切らして僕の元へ駆け込んできたんだ。周囲のみんなが彼と僕に注目しているように見えた。
遠くのデスクがずれてる。片桐さん、痛くなかったんだろうか。
「大丈夫ですか、片桐さん」
心配になって顔を覗き込もうとした。
しばらくして、丸まった背中から苦しそうな声がした。
「すまない、千秋。間に合わなかったかも知れねぇ」
その言葉でなんとなく予感した。
だって覚悟はしていたから。僕にとって予想外だったのは、片桐さんがこんな泣きそうな顔をしていることだ。
応援じゃないって言ったのに。どうでもいいって、ただケジメをつけたいだけだって、言ったじゃない。
片桐さんの手が僕の腕を強く掴んだ。
「説明したんだ、ちゃんと。だけどまともに取り合ってもらえなくて……」
「はい」
「人事担当がお前に話があるって。そう伝えてこいって言われたんだ」
「……わかりました」
実感が迫るほどに、何故かすうっと心が鎮まっていく。波打ち際の潮が沖へ引いていくように。
僕はそっと片桐さんの手をほどいた。
かぶりを振る彼へ微笑み、大丈夫ですよと。そんな気休めの言葉くらいしかかけられなかった。




