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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第5章/この目を見つめて(Kakeru Chiaki)
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81.もう戻れなくても(☆)


 ゆっくり、ゆっくり、僕はダニーに近付いていった。


 おぼつかない足取り、何度ももつれそうになったからか、やがてダニーの方がこちらへ歩み寄ってくれた。介抱するみたいに僕の両肩を支えて。


 さらりと流れたアッシュブロンドの髪の隙間から、心配そうな表情が見える。


「カケル。大丈夫か」


「ダニー、やっと会えた。元気にしてた?」


「なんだよ。たまに連絡取り合ってたじゃねぇか」


「そうだけど……」


 触れられたら身体が疼いて、震えて、立っているのもやっとだから、ついしがみ付きたくなってしまう。

 でもそんな振る舞いは身勝手だ。ダニーの気持ちを考えてみろ。僕の理性はギリギリのところで働いてくれていた。


「ねぇ、ダニー。ここは寒いからとりあえず部屋に入ろう? コーヒーでも淹れるよ。あっ、ココアの方がいい?」


「カケル」


「お腹空いてる? またテイクアウトで何か買う? 配達も始めたんだって、あのレストラン。ドラマも観ようよ。ダニーが気に入ってるあの話、僕まだ二話しか観てなくて……」


「カケル。お前な、無防備すぎるだろ。俺の気持ちを知っていながら部屋に入れるとか」


「…………っ」


 思わずうつむいた。しばらく言葉を失くしてた。


 駄目だ、僕、ダニーに配慮しようとしてるはずなのに、自分の願望ばかりが溢れ出る。

 だってあのときみたいに予感があるから。聞きたくない。今夜はただ、くだらない話とかしながら気楽な時間を過ごしたい。


 それがいつまでも続くものじゃないとわかっていても。


 風がびゅうと強く吹き付けた。図ったようなタイミングでダニーがくしゃみをした。


「ほら、やっぱりこのままじゃダニーが風邪引いちゃう。馬鹿だね。どうしてもっと厚着してこなかったの」


「わかった、ちょっとだけだぞ」


「いいよ。いいに決まってるじゃない。ダニーのことは信用してるんだから」


「……ありがとな」


 僕は鍵を取り出したんだけど、暗くて手元が見えづらい。どうして大事なときほど要領が悪くなるんだろう。


 自分に苛立っていた途中、背中にこつ、と硬い感触が当たった。そのまま動かない。

 なんとなくわかった。ダニーが僕に額を預けているんだと。


「お前は本当に……」


「ダニー?」



「…………」


 ダニーはそこから喋らなかった。やっと開いたドア。僕たちは微妙に身体が触れた状態のまま玄関に入った。



「今エアコンつけるね。ソファに座ってゆっくりしてて」


「ああ」


「コートは悪いんだけど、その辺の椅子にでもかけといて。この間ハンガーの整理をしたから今いてるのが無くて」


「わかった」


 ダニーはそう返事するけれど、座りもしなければコートも脱がない。リビングの中央で立ち尽くしたままだ。

 冬なのに、服の内側で汗が吹き出る。何を言えばいい。考えれば考えるほどよくわからなくなって、気がつけば僕も彼に向き合ったまま動きを止めていた。


「ダニー、話って……?」


 そしてついに観念した。

 どう足掻いたって、ダニーが今夜ここに来た目的はそれなんだ。僕の力で覆せる訳もない。


「カケル、俺は自分の気持ち、はっきり言葉にはしていない。でもお前はすぐにわかったんだよな。あのとき、お前の泣きそうな顔を見て気付いた」


「うん……」


「むしろ泣いてただろ。俺が帰った後に」


「うん」


 視界が揺らぐ。駄目だよ、ちゃんと聞かなきゃ。今こうしている間だけでも持ち堪えて。何度も何度も自分に言い聞かせた。


 ダニーは僕を見つめながら薄く微笑む。

 そんな儚い雰囲気を出さないで。心が悲鳴を上げそうになった。



「俺、また転勤することになった。自分から話に乗った。ちょうど良いタイミングだと思ったんだ。仕事自体にも興味あるし」


「え……」


「今度はかなり遠い。なんたってフィンランドだからな。来年の三月には出発する。母国とは言え長いこと日本で暮らしてたから、あっちの生活に慣れるまでそれなりにかかるだろう。言語には困らなそうだけど」


「でもまた日本に戻ってくるんだよね? ちょっとの間、とかなんでしょう?」


「いや、そのままあっちで生活することになると思う。俺もそれを考えてたから」



 僕の中で、ガラスが砕けるような音がした。膝に力が入らなくて今にも崩れ落ちそう。


 なのにダニーの表情は落ち着いたものだ。気持ちの整理がついた。その言葉の本当の意味を今更に知る。



「俺たち遠く離れて暮らしてた時期もあっただろ。お前の方が早く日本に来てるんだから。大して変わらねぇよ、そのときと」


「なんで……」


 視界は一層揺らぎ、限界に達した感情は熱い雫となって一つ、二つと零れ落ちた。


 奥歯に力を込めても、もう耐えられない。思わずダニーを睨んでしまった。顔にたまらない熱を持ったまま。


「なんで! 別れの言葉を聞きたかったんじゃないよ、僕は!」


「カケル……」


「酷いよ、ダニー。どうして一人で決めちゃうの!? 相談くらいしてくれてもいいじゃない。僕は従弟なんだよ。それも兄弟同然に育ってきた仲だ。ダニーの僕に対する信頼はその程度だったの!?」


「わかってくれ、カケル。前向きに考えた結果なんだ。俺にとってお前が大切であることに変わりはない」


 ダニーの声は、優しい。心を直接撫でてもらっているようなくすぐったい感覚さえ覚える。



挿絵(By みてみん)



 でも僕の涙は止まらなかった。むしろ一層量が増した。零れ落ちてはカーペットにシミができる。その虚しい繰り返しを為す術もなく眺めていただけ。


 ダニーは昔と大して変わらないっていうけどそんなことない。ダニーの気持ちを知ってからでは訳が違う。全然違うよ!


「だけど従兄弟としての想いはとっくに超えてしまってた。ずっと前からだった。せっかく上手くいってる関係を壊したくなくて、誤魔化しながらここまで来てしまった。もうこれくらいしか俺にできることはない。お前だってずっと想い続けてきた女がいるんだろ」


「それは……そうなんだけど、でも……」


「離れていた方がお前を大切にできる。そう確信してる」


「本当にやり直せないの? 僕たち、昔みたいに、また兄弟みたいにさ」


「悪いな」


 ダニーの決心はもう動かない。そうわかった。

 いつの間にか縋り付いていたこの胸がどんなに温かくても。


 仮に元に戻れたとしても、それは結局形だけなんじゃないのか。僕が居心地いいだけで、ダニーの気持ちは犠牲になる。無理をさせる。それでいい訳がない。


 僕だって頭では理解してるんだ。でも押し潰されそうな心の悲鳴を他にぶつける場所もなくて。


 よりによって一番つらいはずのダニーに当たってしまった。今は自分が情けなくて泣いている。


 僕はダニーから身体を離した。手で涙を拭ったけれど、数秒もしないでまた溢れ出す。干からびてしまいそうだ。


「ごめん、ダニー。僕が我儘だった。僕のせいなのに、その事実を受け入れる勇気がなかった。せっかく来てくれたのに、応援の言葉の一つもかけられないなんて……本当に僕はどうしようもない」


 鼻を啜りながらそんなことを言った。今更だ。ダニーは取り乱した僕を見て酷く心を痛めただろう。とても優しい男だから。


 もう自分を責めることしか考えられなくなっていた。そんなとき、ダニーの手が伸びてきて僕の頭をそっと撫でてくれた。目を細めながら、何度も、何度も。僕は再び縋り付きたい気持ちをなんとか抑えてた。


「我儘、か。昔からお前の口癖だったな。特に人間関係で上手くいかないことがあると、自分が我儘だったせいだって落ち込んでさ」


「だって本当のことだから」


「あまり気にするな。そもそも人間って生き物が我儘に出来てるんだから。でもお前はきっと何度でも気にしちまう。だってお前は誰よりも感受性が強くて、優しくて、繊細で……」


 ダニーはしばらくうつむいた。何かを飲み込むように唇を結んだ。

 それでもやがては顔を上げて、まだ憂いの残る笑みで僕に言う。



「そんなお前だから好きになった」



 僕はもう、何も返せない。その言葉が持つ意味はきっと海よりも深いから。


 ダニーが長い年月独りで抱えていた切ない想いが詰まっている。それをこんなにも優しい言葉にしてくれた。


 なかなか素直になれなかったけど、僕はダニーが好きで、大好きで、日本に来ることが決まったときも、近くに引っ越してきたときも、本当はすっごく嬉しくて。


 だけど僕の持つ気持ちのどれもこれもがダニーにとっては痛みになってしまう。想いの形が違うばかりに。

 僕はまた、自分の無力を感じていた。


 ダニーの温かい手が、僕の頭のてっぺんから後ろ髪へと緩やかに移動した。

 潤んだ目で僕を見つめた。


「なぁ、カケル。お前の我儘を許すから、俺の我儘も一つ聞いてもらってもいいか」


「いいよ。言ってよ。僕にできることだったら力になるから」


「お前はじっとしていればいい。少しだけお前に触りたい」


「何言ってるの、もう触ってるじゃ……」



 本当に一瞬のことだった。



 頭ごと引き寄せられたかと思ったら、額のあたりに柔らかいものが当たった。前髪の上からでもわかった。そこに吐息が混じっていたこと。



挿絵(By みてみん)



 胸に細い針が刺さったような感覚。理解も追いついてないのに。


 顔を離したダニーが困ったように眉を寄せる。


「ごめんな。俺も酷いよな。最後にお前に傷を付けたかったなんて」


「ダニー……」


「我儘って一度出ると止まらないんだな。もう少し一緒にいてもいいか? これ以上のことはしないから」


「……うん、いいよ」



 僕たちはとりあえずとばかりにソファに腰かけ、どちらからともなく頭を寄せた。

 まるで幼い頃に戻ったみたい。それは錯覚。そうわかってはいるんだけど。


 遠くで電車の音がする。過ぎ去っていく途中の刹那、物悲しさが胸に訪れるのは何故だろう。


「ねぇ、ダニー。フィンランドではもうすぐ花火が上がるね」


「そうだな。明日は大晦日だもんな」


「また一緒に見たかったな」


「そこは好きな女と一緒に見ろよ。いつかフィンランドに連れてってやればいい」


「駄目だよ。彼女には恋人がいるんだ。僕が一方的に想ってるだけ」


「なんだお前、そんな不毛な恋をしてたのか」


 ダニーが呆れたような顔で僕を見た。それがなんだかたまらなく懐かしくて、僕の気はいとも容易く緩んだ。


「あのね、実はね……」


 僕は話した。彼女と僕との間で起きたこと、一緒に過ごしていて思ったこととかを少しだけ。


 花火の夜、後ろ姿にキスをしたなんて、さすがにそれは言えなかったけど。



「なるほどな、何度離れても気が付けば距離が縮まってしまう、そんな間柄だと。今は彼女が心身共に不安定で心配もしているって訳か」


「僕もどうしていいかわからないんだ。踏み込んで許される範囲も、適切な距離の取り方も」


「多分その女にとってもお前の存在は大きいんだろうな。相当信頼されてるみたいだし」


「そうなのかな……それはそれでまずいような気もするんだけど……」


「いいか、カケル。これは言っておかなきゃならねぇ。よく聞け」


 ダニーが両手で僕の頬を包んだ。真顔だ。ちょっと厳しい目をしてる。

 僕の背筋はおのずと伸びていった。



「お前の想いがどんな形であろうと、どっちつかずな態度をダラダラ続けるだけじゃ駄目だ。時には責任を持って決着をつけなきゃならねぇ。男として、人としてな」



 喉がぐっと詰まるようだった。


 反論などできる訳がない。必要もない。頬のぬくもりを感じながら、ただ真っ直ぐ目の前の瞳を見つめた。

 曖昧にしてきた罪を実感していく。今更なことが多すぎて自分に呆れてしまうけれど。


「俺は偉そうに言えた立場じゃねぇ。それでもお前には間違ってほしくないんだ」


 込み上げてくるものがあまりに熱くて、声が出そうで出なくて。なんとか頷くことができたとき、ダニーがよし、と言って手を離した。その顔に笑みが戻る。

 こんなとき僕が感じるのはやはり、頼れる兄といるような安心感だった。


「大丈夫だ。お前ならできる」


「ありがとう」


 また、電車の音がする。聞き慣れているはずなのに駄目だ、今夜は。

 抑えきれない感情を乗せて遠くまで連れていってほしいのに、むしろどんどん運び込まれているみたい。


 僕はダニーの肩に頭を乗せた。涙がまた一つ、頬を伝った。



「ダニー」


「ん、どうした」


「ありがとう」


「なんだ、さっき言ってたろ」


「ダニー」


「どうした?」



「ねぇ、ダニー。同じになれなくてごめん……ごめんね」


「謝るのは俺の方だ。ごめんな。お前は悪くない。だからもう気にすんな」



 時間はゆっくり流れていく。一年の終わりはすぐ側まで近付いているのに、今、この空間だけは別の世界のように感じられた。


 僕は今夜のことを忘れない。たとえ傷になろうと痛みになろうと、決して離さないようにしっかり抱えて生きていくんだ。


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