81.もう戻れなくても(☆)
ゆっくり、ゆっくり、僕はダニーに近付いていった。
おぼつかない足取り、何度ももつれそうになったからか、やがてダニーの方がこちらへ歩み寄ってくれた。介抱するみたいに僕の両肩を支えて。
さらりと流れたアッシュブロンドの髪の隙間から、心配そうな表情が見える。
「カケル。大丈夫か」
「ダニー、やっと会えた。元気にしてた?」
「なんだよ。たまに連絡取り合ってたじゃねぇか」
「そうだけど……」
触れられたら身体が疼いて、震えて、立っているのもやっとだから、ついしがみ付きたくなってしまう。
でもそんな振る舞いは身勝手だ。ダニーの気持ちを考えてみろ。僕の理性はギリギリのところで働いてくれていた。
「ねぇ、ダニー。ここは寒いからとりあえず部屋に入ろう? コーヒーでも淹れるよ。あっ、ココアの方がいい?」
「カケル」
「お腹空いてる? またテイクアウトで何か買う? 配達も始めたんだって、あのレストラン。ドラマも観ようよ。ダニーが気に入ってるあの話、僕まだ二話しか観てなくて……」
「カケル。お前な、無防備すぎるだろ。俺の気持ちを知っていながら部屋に入れるとか」
「…………っ」
思わずうつむいた。しばらく言葉を失くしてた。
駄目だ、僕、ダニーに配慮しようとしてるはずなのに、自分の願望ばかりが溢れ出る。
だってあのときみたいに予感があるから。聞きたくない。今夜はただ、くだらない話とかしながら気楽な時間を過ごしたい。
それがいつまでも続くものじゃないとわかっていても。
風がびゅうと強く吹き付けた。図ったようなタイミングでダニーがくしゃみをした。
「ほら、やっぱりこのままじゃダニーが風邪引いちゃう。馬鹿だね。どうしてもっと厚着してこなかったの」
「わかった、ちょっとだけだぞ」
「いいよ。いいに決まってるじゃない。ダニーのことは信用してるんだから」
「……ありがとな」
僕は鍵を取り出したんだけど、暗くて手元が見えづらい。どうして大事なときほど要領が悪くなるんだろう。
自分に苛立っていた途中、背中にこつ、と硬い感触が当たった。そのまま動かない。
なんとなくわかった。ダニーが僕に額を預けているんだと。
「お前は本当に……」
「ダニー?」
「…………」
ダニーはそこから喋らなかった。やっと開いたドア。僕たちは微妙に身体が触れた状態のまま玄関に入った。
「今エアコンつけるね。ソファに座ってゆっくりしてて」
「ああ」
「コートは悪いんだけど、その辺の椅子にでもかけといて。この間ハンガーの整理をしたから今空いてるのが無くて」
「わかった」
ダニーはそう返事するけれど、座りもしなければコートも脱がない。リビングの中央で立ち尽くしたままだ。
冬なのに、服の内側で汗が吹き出る。何を言えばいい。考えれば考えるほどよくわからなくなって、気がつけば僕も彼に向き合ったまま動きを止めていた。
「ダニー、話って……?」
そしてついに観念した。
どう足掻いたって、ダニーが今夜ここに来た目的はそれなんだ。僕の力で覆せる訳もない。
「カケル、俺は自分の気持ち、はっきり言葉にはしていない。でもお前はすぐにわかったんだよな。あのとき、お前の泣きそうな顔を見て気付いた」
「うん……」
「むしろ泣いてただろ。俺が帰った後に」
「うん」
視界が揺らぐ。駄目だよ、ちゃんと聞かなきゃ。今こうしている間だけでも持ち堪えて。何度も何度も自分に言い聞かせた。
ダニーは僕を見つめながら薄く微笑む。
そんな儚い雰囲気を出さないで。心が悲鳴を上げそうになった。
「俺、また転勤することになった。自分から話に乗った。ちょうど良いタイミングだと思ったんだ。仕事自体にも興味あるし」
「え……」
「今度はかなり遠い。なんたってフィンランドだからな。来年の三月には出発する。母国とは言え長いこと日本で暮らしてたから、あっちの生活に慣れるまでそれなりにかかるだろう。言語には困らなそうだけど」
「でもまた日本に戻ってくるんだよね? ちょっとの間、とかなんでしょう?」
「いや、そのままあっちで生活することになると思う。俺もそれを考えてたから」
僕の中で、ガラスが砕けるような音がした。膝に力が入らなくて今にも崩れ落ちそう。
なのにダニーの表情は落ち着いたものだ。気持ちの整理がついた。その言葉の本当の意味を今更に知る。
「俺たち遠く離れて暮らしてた時期もあっただろ。お前の方が早く日本に来てるんだから。大して変わらねぇよ、そのときと」
「なんで……」
視界は一層揺らぎ、限界に達した感情は熱い雫となって一つ、二つと零れ落ちた。
奥歯に力を込めても、もう耐えられない。思わずダニーを睨んでしまった。顔にたまらない熱を持ったまま。
「なんで! 別れの言葉を聞きたかったんじゃないよ、僕は!」
「カケル……」
「酷いよ、ダニー。どうして一人で決めちゃうの!? 相談くらいしてくれてもいいじゃない。僕は従弟なんだよ。それも兄弟同然に育ってきた仲だ。ダニーの僕に対する信頼はその程度だったの!?」
「わかってくれ、カケル。前向きに考えた結果なんだ。俺にとってお前が大切であることに変わりはない」
ダニーの声は、優しい。心を直接撫でてもらっているようなくすぐったい感覚さえ覚える。
でも僕の涙は止まらなかった。むしろ一層量が増した。零れ落ちてはカーペットにシミができる。その虚しい繰り返しを為す術もなく眺めていただけ。
ダニーは昔と大して変わらないっていうけどそんなことない。ダニーの気持ちを知ってからでは訳が違う。全然違うよ!
「だけど従兄弟としての想いはとっくに超えてしまってた。ずっと前からだった。せっかく上手くいってる関係を壊したくなくて、誤魔化しながらここまで来てしまった。もうこれくらいしか俺にできることはない。お前だってずっと想い続けてきた女がいるんだろ」
「それは……そうなんだけど、でも……」
「離れていた方がお前を大切にできる。そう確信してる」
「本当にやり直せないの? 僕たち、昔みたいに、また兄弟みたいにさ」
「悪いな」
ダニーの決心はもう動かない。そうわかった。
いつの間にか縋り付いていたこの胸がどんなに温かくても。
仮に元に戻れたとしても、それは結局形だけなんじゃないのか。僕が居心地いいだけで、ダニーの気持ちは犠牲になる。無理をさせる。それでいい訳がない。
僕だって頭では理解してるんだ。でも押し潰されそうな心の悲鳴を他にぶつける場所もなくて。
よりによって一番つらいはずのダニーに当たってしまった。今は自分が情けなくて泣いている。
僕はダニーから身体を離した。手で涙を拭ったけれど、数秒もしないでまた溢れ出す。干からびてしまいそうだ。
「ごめん、ダニー。僕が我儘だった。僕のせいなのに、その事実を受け入れる勇気がなかった。せっかく来てくれたのに、応援の言葉の一つもかけられないなんて……本当に僕はどうしようもない」
鼻を啜りながらそんなことを言った。今更だ。ダニーは取り乱した僕を見て酷く心を痛めただろう。とても優しい男だから。
もう自分を責めることしか考えられなくなっていた。そんなとき、ダニーの手が伸びてきて僕の頭をそっと撫でてくれた。目を細めながら、何度も、何度も。僕は再び縋り付きたい気持ちをなんとか抑えてた。
「我儘、か。昔からお前の口癖だったな。特に人間関係で上手くいかないことがあると、自分が我儘だったせいだって落ち込んでさ」
「だって本当のことだから」
「あまり気にするな。そもそも人間って生き物が我儘に出来てるんだから。でもお前はきっと何度でも気にしちまう。だってお前は誰よりも感受性が強くて、優しくて、繊細で……」
ダニーはしばらくうつむいた。何かを飲み込むように唇を結んだ。
それでもやがては顔を上げて、まだ憂いの残る笑みで僕に言う。
「そんなお前だから好きになった」
僕はもう、何も返せない。その言葉が持つ意味はきっと海よりも深いから。
ダニーが長い年月独りで抱えていた切ない想いが詰まっている。それをこんなにも優しい言葉にしてくれた。
なかなか素直になれなかったけど、僕はダニーが好きで、大好きで、日本に来ることが決まったときも、近くに引っ越してきたときも、本当はすっごく嬉しくて。
だけど僕の持つ気持ちのどれもこれもがダニーにとっては痛みになってしまう。想いの形が違うばかりに。
僕はまた、自分の無力を感じていた。
ダニーの温かい手が、僕の頭のてっぺんから後ろ髪へと緩やかに移動した。
潤んだ目で僕を見つめた。
「なぁ、カケル。お前の我儘を許すから、俺の我儘も一つ聞いてもらってもいいか」
「いいよ。言ってよ。僕にできることだったら力になるから」
「お前はじっとしていればいい。少しだけお前に触りたい」
「何言ってるの、もう触ってるじゃ……」
本当に一瞬のことだった。
頭ごと引き寄せられたかと思ったら、額のあたりに柔らかいものが当たった。前髪の上からでもわかった。そこに吐息が混じっていたこと。
胸に細い針が刺さったような感覚。理解も追いついてないのに。
顔を離したダニーが困ったように眉を寄せる。
「ごめんな。俺も酷いよな。最後にお前に傷を付けたかったなんて」
「ダニー……」
「我儘って一度出ると止まらないんだな。もう少し一緒にいてもいいか? これ以上のことはしないから」
「……うん、いいよ」
僕たちはとりあえずとばかりにソファに腰かけ、どちらからともなく頭を寄せた。
まるで幼い頃に戻ったみたい。それは錯覚。そうわかってはいるんだけど。
遠くで電車の音がする。過ぎ去っていく途中の刹那、物悲しさが胸に訪れるのは何故だろう。
「ねぇ、ダニー。フィンランドではもうすぐ花火が上がるね」
「そうだな。明日は大晦日だもんな」
「また一緒に見たかったな」
「そこは好きな女と一緒に見ろよ。いつかフィンランドに連れてってやればいい」
「駄目だよ。彼女には恋人がいるんだ。僕が一方的に想ってるだけ」
「なんだお前、そんな不毛な恋をしてたのか」
ダニーが呆れたような顔で僕を見た。それがなんだかたまらなく懐かしくて、僕の気はいとも容易く緩んだ。
「あのね、実はね……」
僕は話した。彼女と僕との間で起きたこと、一緒に過ごしていて思ったこととかを少しだけ。
花火の夜、後ろ姿にキスをしたなんて、さすがにそれは言えなかったけど。
「なるほどな、何度離れても気が付けば距離が縮まってしまう、そんな間柄だと。今は彼女が心身共に不安定で心配もしているって訳か」
「僕もどうしていいかわからないんだ。踏み込んで許される範囲も、適切な距離の取り方も」
「多分その女にとってもお前の存在は大きいんだろうな。相当信頼されてるみたいだし」
「そうなのかな……それはそれでまずいような気もするんだけど……」
「いいか、カケル。これは言っておかなきゃならねぇ。よく聞け」
ダニーが両手で僕の頬を包んだ。真顔だ。ちょっと厳しい目をしてる。
僕の背筋はおのずと伸びていった。
「お前の想いがどんな形であろうと、どっちつかずな態度をダラダラ続けるだけじゃ駄目だ。時には責任を持って決着をつけなきゃならねぇ。男として、人としてな」
喉がぐっと詰まるようだった。
反論などできる訳がない。必要もない。頬のぬくもりを感じながら、ただ真っ直ぐ目の前の瞳を見つめた。
曖昧にしてきた罪を実感していく。今更なことが多すぎて自分に呆れてしまうけれど。
「俺は偉そうに言えた立場じゃねぇ。それでもお前には間違ってほしくないんだ」
込み上げてくるものがあまりに熱くて、声が出そうで出なくて。なんとか頷くことができたとき、ダニーがよし、と言って手を離した。その顔に笑みが戻る。
こんなとき僕が感じるのはやはり、頼れる兄といるような安心感だった。
「大丈夫だ。お前ならできる」
「ありがとう」
また、電車の音がする。聞き慣れているはずなのに駄目だ、今夜は。
抑えきれない感情を乗せて遠くまで連れていってほしいのに、むしろどんどん運び込まれているみたい。
僕はダニーの肩に頭を乗せた。涙がまた一つ、頬を伝った。
「ダニー」
「ん、どうした」
「ありがとう」
「なんだ、さっき言ってたろ」
「ダニー」
「どうした?」
「ねぇ、ダニー。同じになれなくてごめん……ごめんね」
「謝るのは俺の方だ。ごめんな。お前は悪くない。だからもう気にすんな」
時間はゆっくり流れていく。一年の終わりはすぐ側まで近付いているのに、今、この空間だけは別の世界のように感じられた。
僕は今夜のことを忘れない。たとえ傷になろうと痛みになろうと、決して離さないようにしっかり抱えて生きていくんだ。




