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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
20/122

18.この際ちゃんと振り返ってみよう(☆)



挿絵(By みてみん)



 これは前の職場にいた頃に同期からちらりと聞いた話なのだが、人は会わなくなった、あるいは会えなくなった相手の“声”を一番最初に忘れていくという説があるらしい。


 そう言われてみると確かに、昔よく遊んでいた友人の声を思い出せるかと訊かれたら自信がない。長らく会っていない両親や兄の声だって、もしかしたらスマホに“実家”などと表示されているから想像がつくだけであって正確には覚えていないのかも知れない。


 その説に当てはめるならば、あの人の声だってこの先何年もの時間が経てば容易に忘れられたのだろうなと思える。

 しかしたった二ヶ月ではなぁ……。


 噛み締めた奥歯がきゅうと鳴いた。

 夢の中で何度か聞いたものと声質が近かったような気がする。それがなんだか悔しい。


 やり場のない感情はラベンダー色の湯の中へと揺らいで溶けていく。



 大体二十分くらいで浴室を後にした。

 本当はゆっくり湯に浸かるのが好きなのだが、和希が訪ねてくるタイミングに間に合わないと困る。私の場合、長く毛量の多いこの髪を乾かすだけでも相当な時間がかかるから、尚更余裕を持って動かなくてはなるまい。

 あと煙草を吸う時間が欲しい。何か一区切りつく度にそうしたくなるのはおそらく喫煙者のさがである。


 まずは冷蔵庫から小さい野菜ジュースのパックを取り出し、ストローで吸いながら自分なりに頭の中を整理した。



 その後少々慌ただしくはなったものの、スキンケアやドライヤーなどお風呂上がりのひと通りの工程を終えて念願の一服。


 チャイムが鳴ったのはちょうど灰皿の蓋を閉じたとき。ギリギリだった。


 インターホンの画面で和希の姿を確認。「はい」と返事をすると大体いつもインターホンの意味がないというくらいの大きな声がドアの方から聞こえてくるものなのだが……


『おう、トマリ。今夜は長くなる。まずはメシ買いに行こうぜ』


「了解」


 今日の彼女はやけに渋みのある声色だ。


 和希は私と会う際、いつも食事をセットにしてくれてる気がする。最近は夕方から夜に会うことが多く、単に彼女がお腹を空かせている時間帯なのかも知れないが、やはり食への関心が薄い私を気遣ってくれているようにも思う。


 今すっぴんなのだがな、でもおそらく行き先はすぐ近くのコンビニだろう。少しの間ならそんなに人目を気にすることもあるまい。

 私は財布をスウェットのズボンのポケットに入れて玄関へ向かった。


「お待たせ、和希」


「よし、行こうぜ」


 まるで密会でもするかのように短い言葉を交わし合った私たちは、揃ってアパートを後にし、何処かの家の夕食の香りが漂う夜の住宅街へと歩き出した。



 部屋に戻ってきた後、まずテーブルの上に出しっぱなしになっていた化粧水や乳液を片付けた。

 和希は全く気にしていないといったふうに弁当の入った袋をカーペットの上に直置きする。


 私が電気ケトルでお湯を沸かし、カップの春雨スープを作り終えたところで、和希がいよいよ話を切り出した。


「なるほどな、やっと合点がいったよ。退職した後のあんたの様子がずっとおかしかったこと」


「そんなにおかしかっただろうか」


「ああ、心ここにあらずって感じに見えたぞ。退職に至るまでの経緯は確かに大変だったと思う。転職活動もしんどかったと思う。だけど彼氏からプロポーズされるし無事に内定も決まるし、良い流れに乗ってるはずなのに浮かない表情。どう考えてもそのメッセージが原因じゃねぇか」


「私としてはもう忘れた方が良いものだと思っていたし、気にしても仕方がないと割り切っていたつもりなのだが……」


「ところが思いがけず新たな接点が出来ちまって慌ててるって訳か」


「まぁ……そんなところだ」


 和希がテーブルに頬杖をつき、はぁ〜と長いため息をついた。顔はこっちを向いているけれど気怠い視線はこちらではない何処かに投げている。眉間にしわ。なんだか苛立っているように見える。


「っていうか原因作ったの千秋さんかよ。あんな優しそうな顔して罪な男だなぁ」


「あ、あの、和希……」


「声が聞きたいとか、なんでそういうまどろっこしい言い方するかなぁ。もっとハッキリ言えばいいじゃねぇか」


「その、千秋さんは今日私に謝っていたのだ。あのときは適切な言葉選びが出来ない状態だったと。やはり何かあったのだと思う」


「それはあんたが返信しなかったから、向こうはフラれたと思って気まずくなったんじゃねぇの? それで咄嗟に謝ったんだと思うけどな、私は。春雨伸びるぞ」


「あっ……うん」


 急に別の指摘をされて一瞬混乱したものの、和希が春雨スープを指差してくれたのですぐに理解できた。


 割り箸を割り、掬った春雨をようやく口に運ぶ。熱い。

 少しずつ啜りながら和希の言葉を思い返していた。


 フラれたって……いや、それはさすがにピンとこない。

 “出来るなら”とあの人は言った。つまり任意。私は出来なかったから返事をしなかっただけだ。そもそもあの人はそんなつもりで言った訳じゃないと思う。根拠はと訊かれたら……まだ答えられないのだが、多分。


「私も食うか」そう呟いた和希は、袋から出した豚の生姜焼き弁当をテーブルに置いてフタのテープを剥がし始めた。


 春雨スープの熱さに口が慣れていたところだけど、何故か私の箸は止まってしまう。


「なんだよ、まだ納得いかねぇことがあるのか」


「だって……あのメッセージはなんだかあの人らしくない。最初は退職後の私を心配して相談に乗ろうとしてくれているのだと思った。でも後半の方は何処か遠く離れた人に話しかけているようだったというか……上手く説明できないのだが、何か不可解なのだ」


「そんな怪文書みたいな扱いするなよ。さすがに千秋さん可哀想だわ。もっとシンプルに考えりゃいいんだよ」


「シンプルに?」


 問いかけたとき、ちょうど和希が豚肉とご飯の塊を口に入れたタイミングだった。口をもぐもぐさせながら二回ほど強く頷く。

 すらりとした彼女の喉が隆起する。続けてペットボトルのお茶をごくりと飲んで、ドンと置き、それから再び話し出す。


「いいか、私ならこう捉える。あの人は“千秋カケルとしての言葉”と前置きをしてから言ったんだろ、声が聞きたいって。それは言い換えるなら“一人の男としての言葉”って意味なんじゃねぇのか」


「それはそうだろう。千秋さんは男性なのだから」


「いやいや、だからな? あんたが退職した後に送ってきたってのが重要なポイントだと思うんだよ。今までは上司と部下の関係だから遠慮してた。だけど退職後なら単なるプライベートの仲だ。千秋さん的にはやっと本音が言えるタイミングだったんじゃないのか」


 私はしばし思考した。あの人の性格を思い出し、その気持ちに思いを馳せようと試みる。

 しかし困ったものだ。ある程度は想像がつくのに、あと一歩、肝心なところに届かない感覚。頭の中がぐるぐるして今にも酔いそうだ。


「どうだ、わかったか!?」


 和希が目を輝かせる。しかし私のこの様子がわかっているように見えるか。


「すまない和希、つまり……?」


「もう! だからな! 上司と部下の関係で終わりたくなかったんだろ。じゃなきゃ“お疲れ様、今までありがとう”で締め括ってるよ。あんたとこれからも繋がりを持っていたかったんだろ」


「これからも? 千秋さんは“もう一度”と言っていたのだが……?」


「んなモンは口実に決まってんだろ! あんたマジでそういうニュアンスわかんねぇんだな」


 ニュアンス、か。私は再び口を噤む。

 確かに私はその手のものに疎いだろう。自覚はある。文字通りに成り立っていることの方が少ない世の中で、それはやりづらさを感じる原因の一つでもあった。


 一方で違和感には敏感な気もしている。

 思えばあのときもだったのだ。何か違う、ただそう思っただけで私は返事が出来なかった。どう接すれば良いのかわからなくて。


 先日和希にも指摘された通り、私の意思はやはり弱いのだろう。いつも受け身だから、判断に迷ったらそのまま迷いっぱなし。

 だけど、それならば……


 蘇る、ビルのテラスで千秋さんと交わした会話。



――だから本当にごめん。あの言葉は忘れ……――


――嫌です――



 あれはなんだったのだ。

 あれが意思でないのなら、一体。


「…………っ」


 ドク、と一瞬胸の奥が高鳴って、私は束の間息を詰まらせた。


 また顔の中央が熱を帯びる。じわりと広がる。それは涙となるのか吐息となるのか、いずれにしてもやめてくれと叫びたい。まだ理解も気持ちも追いついてないのに身体が先に反応するなど困ると。

 肉体も心も私の一部なら、もう少し足並みを揃えてくれても良いではないか。


「大丈夫か、トマリ」


「……ん」


「まぁ、でも私も今考え直してたところだよ。あんたが違和感を感じるって言うんなら、確かに千秋さんにも何か簡単じゃない事情があったのかも知れねぇってな。私はあの人のことそんなに知らねぇし」


「そう、なのか? 和希も顔見知りなのに」


「そりゃそうだろ。たまに休憩室で会う程度だぞ。伝わってくるのはせいぜいド天然のお人好しってことくらいだよ」


 ただ……と、和希の消えそうなほど小さな声が続きへと繋いだ。


「あんたらが一緒にいるときってさ、上司と部下の隔りを感じないくらい打ち解けてて、でもだらしないのとは違う、ちゃんと信頼し合ってるのが遠目からでもわかってさ、だからどんな形であれきっとお互いが大切な存在なんだろうなって目で私は見てた」


 結構話していただろうに和希の弁当はもうからになっている。

 割り箸を置き、満足気にお腹をさすった和希が目を細めて私を見る。少しだけ寂しそうに見えるのは気のせいか。


「それでさ、あんたは今、具体的に何に困ってると思う? どうしたい? わかる範囲で良いから言ってみ」


「それは……」


「別に上手い言い方じゃなくてもいいんだぞ」


「私は……」


 一度、喉を鳴らした。

 ためらいはあった。これを口にしたらますます自分が嫌になりそうだと。でもこのままでいたってきっと切り口など見つけられない。


「私は、もう肇くんを不安にさせたくない」


「うん」


「あと……千秋さんに迷惑をかけたくない」


「うん」


「すまない。今のところわかるのはそれだけだ」


「マジか」


 和希のクールな顔に、やれやれとでも言いたげな苦笑が浮かんでくる。


 私の顔は熱くなる。結局これだ。こういう優柔不断な言葉しか出てこないのだ。自分がどうしたいのか訊かれても、気になるのは相手の気持ちばかり。

 私は嫌いなのだ、自分のこういうところ。一見相手を尊重しているようで実際は問題を先延ばしにしている偽善者の言葉、そのうえ他力本願にさえ聞こえる。いつからこうなってしまったのだろう。


「なぁ、トマリ。千秋さんと一緒に働いてたのって大体一年だよな。その間にあったこと、可能な範囲でいいから詳しく聞かせてくれねぇ?」


「えっ……それは、まぁ、構わないが」


「あと北島とのやりとりも、私は表面的なことしか聞いてねぇから、この際しっかり振り返ってみたらどうだ。そこからあんたの本心が見えてくるかも知れねぇぞ」


「和希……」


 感極まるタイミングというのは何故選べないのだろうか。唐突に嗚咽が漏れそうになり、私は思わず和希の手を両手で掴んでいた。


「ありがとう……和希……っ」


「お、おい、なんだよ急に。大袈裟だな」


「だってこんな話に付き合うのは和希も楽ではないだろう」


「まぁ……そりゃあそうだけどよ、その、アレだ、友達相手に遠慮することでもなくね?」


 力強く頭を撫でられて髪がくしゃくしゃになる。

 私は冷めてしまった春雨スープを完食し、気合いを入れ直した。


 親友の心強い言葉に後押しされたこの夜、私は目を逸らし続けてきた過去の扉を開く覚悟を決めたのだ。


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