19.譲れない、二つの思い(☆)
去年の三月下旬のこと。
ベッドの上で目を覚ましたもののまだ半分は微睡みの中、そんな私の側でスマホがひっきりなしに振動していた。SNSの通知ではなさそうだ。
寝ぼけ眼のまま、やっとのことでスマホを手に取り画面を見た。
「うわ」
着信の通知五件、メッセージアプリの通知二件。いずれも相手は店長。そりゃあ思わず苦々しい声だって出てしまう。
内容に目を通す前から何か緊急性の高い事態が発生したのだろうと予想がついた。
「トマリ……? おはよう。もう起きたの?」
すぐ隣で肇くんが身をよじる気配がした。彼の声もまだ眠そうだ。
昨日は二人とも帰りが遅かったからな。その分今日は朝だけでもゆっくりしたかったのだが。
「おはよう肇くん。すまない、出勤の時間が少し早くなった」
「えっ、何かあったの?」
「別の店舗で病欠が出て人手が足りないからヘルプを必要としているそうだ。遅番スタッフはアルバイトの大学生で夕方にならないと来れないらしい。その間だけ、つまり中番としてで構わないから来てくれないかと頼まれた」
説明しながら私はベッドを降り、店長に電話をかけ始めていた。
幸いすぐに繋がり、話も数分程度でまとまった。ヘルプ先の地図を後ほどメッセージで送ってくれるとのことだ。
「行くの?」
肇くんが訊いた。小さく心細げな声だ。
「ああ、結構遠くはなるけれどそれでも私が一番早く着けそうだ。改装工事前の閉店セールをやっている店舗なのだよ。そのうえ今日は土曜。どう考えても回らないだろうな。放っておく訳にもいくまい」
「トマリが大丈夫ならいいんだけどさ。空が曇ってるね。この時期にしてはちょっと寒そう。ちゃんとあったかくして……」
私は肇くんに背を向けたままパジャマの上を脱いだ。「わっ」と声がしたのはそのすぐ後だ。
「ちょっとトマリ……っ! 今カーテン開いてるんだからさ、着替えるなら言って!? 向かい側にもマンションあるの知ってるでしょ」
「ああ、すまない。すっかり忘れていた」
「こっち向いちゃ駄目!!」
肇くんが素早くカーテンを閉める。
再びこちらを向いたとき、その両肩は数回上下し、走った後のように疲れた表情になっていた。
「もう、俺には見せてもいいけどさ、本当に気を付けてよ。トマリのそういう隙だらけなところを狙ってくる悪い男だっているかも知れないんだから。職場でもちゃんと気を引き締めてね?」
「ありがとう。だが心配しなくてもうちの店舗は女性スタッフだけだ。問題はない」
「……わかんないじゃん、そんなの。本社には男の社員だっているんでしょ。そういう人が来ることだってこの先あるかも知れないじゃん。もしかしたら客に気に入られるなんてことも……」
「肇くん、このフェイスタオルだが取り替えても良いだろうか。破れて穴が空いている」
「あ、うん。それ捨てちゃっていいよ」
「わかった」
私は手早くフェイスタオルを新しいものに取り替えると、店長から届いた地図を見ながら歯を磨いた。
良かった、目的地は駅のすぐ前。方向音痴だから心配だったのだ。時間も十一時までに着けばいいのだな。思ったよりは余裕がある。
十六時にあちらを出て直接自分の店舗に帰る。おそらくそのまま遅番に入る流れになるだろうな。
一日に二店舗。大変なのは言うまでもないが仕方がない。困ったときはお互い様だ。
脳内で淡々と今日一日の予定を整理している途中、肇くんの声が再び耳に届いた。
「大体さ、当日になって急に別の店舗に行けって結構無理言うよね。トマリが身体を壊さないか心配だよ。トマリの店舗って喫煙者多いらしいじゃん。そんな環境にいるから煙草やめられないんじゃないの。わかるよ、アレでしょ、頭がスッキリする気がするから吸うんでしょ。あとストレス発散。わかるわかる、接客って大変だもんね。そうやってるうちに本数増えちゃうんだよね。俺も吸ってた頃はそうだった。だから駄目なんて強く言う気はないけれど、トマリは女性なんだから特に身体に気を付けてほしくてね……」
うん、おかしいな。さっき「トマリが大丈夫ならそれで良い」と言っていたはずなのだが。
彼が口にする全ての不安を宥めるような返事をしてあげたいところだが、あいにくそんな時間もない。
歯を磨き終わったら顔を洗い、前日に用意していた服へと着替え始める。
少し遠いヘルプ先とは言っても隣の県だ。こちらとさほど気温も変わらないだろう。私も出来るだけ翌日の天気を確認した上で服を選んでいる。
白い半袖Tシャツの上に黒のビスチェを装着。下はレモンイエローのタイトスカート。これは上下共に在庫数が多いから四月中旬くらいまで着回すことになりそうだ。
アパレル業界は流行も季節も先取り。三月ならば売り場に立つときは春服。五月、六月になれば夏服を着ているスタッフだって珍しくない。
しかしこれで外を歩くのはいくらなんでも寒い。風邪をひく訳にいかないからな。私は上に羽織るオーバーサイズのGジャンの下にもう一枚、カーディガンを忍ばせておくことにした。向こうに着いたらこのカーディガンだけを脱げば良い。店内はいくらか暖かいはずだから。
「俺が車持ってればトマリを迎えに行ってあげられるのにな。だって遅番のときって結構帰り遅いじゃん? 俺より遅いよね? 女性がそんな時間まで働かなきゃいけないなんて、なんだかなぁ……トマリの会社ってもうちょっとそういうの考えてくれないの。俺さ、トマリは他の業界に行っても上手くやっていけると思うんだよ。確かに要領の良い方じゃないけど根が真面目だもん。手抜きとかしないじゃん。トマリはもっと大事にされるべきだし高く評価されるべきだ。俺は今のままじゃもったいないような気さえしていて……」
私が無反応だろうと関係なしに肇くんの話はまだ続いている。途中を聞いてなかったから何がどうしてこんな話になっているのかわからないが、雲行きが怪しくなっているのは感じ取れる。
だけどどれだけの言葉を並べようと、彼の真の意図はきっとこれなのだという確信があった。
着替えを終えた私は真っ直ぐ彼の方へと歩み寄る。
「だからさトマリ、もう無理してこんな生活……」
――――っ。
君の気持ちはわかっている。だからこそ続きは言わせない。
ベッドに座ったままの彼にまたがり、疑心暗鬼に乗っ取られたその唇を自分のもので塞いだ。
柔らかい感触は愛おしく、気持ちを切り替えたはずの私の胸を熱くする。
名残惜しく感じながらもそっと息を遠ざけると、彼の頬がじわじわと色付き始めた。林檎が熟れていく過程を早送りで見ているみたいだ。
「トマリ……」
切なげな瞳で見つめる彼に笑ってみせる。
「心配しないでくれ、肇くん。確かにつらいことも多い仕事だが、スタッフはみんな親切な人ばかりだ。私は大切にしてもらっている」
「でも……」
「大丈夫。私がもっと仕事の要領を掴めるようになれば、時間の使い方だって少しは上手くなるだろう。その為にもヘルプ先でしっかり学んでくる。私が力不足なせいで心配をかけてすまない」
「トマリのせいじゃないよ。責めてるんじゃない。俺はただ君が大切なんだ」
彼の手が伸びて来て、あっという間に頭ごと引き寄せられ、再び重なる。
肇くんは雰囲気を作るのが上手いからこうしていると意識がふやけそうになるのだが、こちらも負けてはいられない。今スイッチが入ってしまったら仕事に遅れるからな。
私は肇くんの両肩にポンと力強く手を置いた。
「そういう訳だから肇くん、続きはまた今度」
うっ、と短く呻き、いじけたような顔をした彼が私に言う。
「トマリって仕事の前になるとなんだか凛々しいよね。いつもはフワフワしてんのにさ」
「そうだろうか」
「そうだよ、ずるいなって思う」
「すまない。だけど私だって肇くんが大切なのだ。笑っていてほしい」
熱の引かないままの彼がうっすらと笑みを浮かべた。声色もいくらか穏やかになり、「気を付けて」と優しい言葉をかけてくれる。
安心した私は再び支度に取りかかった。
メイクと髪のセットを終わらせた後、肇くんの住むマンションを後にした。
まだ時間に余裕があるのだが、慣れない土地に行くときは早めに出るくらいでちょうどいい。
駅前のコンビニで朝食のゼリー飲料とペットボトル茶、それから切らしていた煙草を買うことにした。
休日の為、いつもに比べると人の少ない電車のホーム。ゼリー飲料を飲みながら考えていた。
もうなんとなくわかっている。肇くんは多分、私をアパレル業界から引き離したいのだ。
六年近くこの業界にいる私を肇くんも当たり前のように受け入れてくれてると思っていた。二年前までは。
肇くんの心配性、独占欲、それらは交際当初から垣間見えることがあったものの、仕事に対して口を出してくるほどではなかった。
彼から何か焦りを感じる。その度に私は彼を宥める言葉を繰り出してきたが、実際のところは先延ばしの手段に過ぎないのだろう。
ゼリー飲料を飲み終えた私は、次にペットボトル茶の蓋を開ける。まだ電車は来ない。
口に運びながら引き続き二つの問題について考えた。
一つ目の問題。
私が今より要領が良くなったとして、シフトで動く仕事である以上すぐに生活リズムが規則的になることはないから、これは解決しない。
二つ目の問題。
うちの店舗が女性だけとは言っても、あらゆるジャンルのお店が集まったショッピングモールなのだから、実際のところ男性はそこらじゅうにいる。肇くんの指摘通り、本社から男性社員が来ることがたまにある。つまりこれも解決しない。
しかし二つ目に関しては、オフィスで働いた場合も同じなのではないかと思う。完全に女性だけの職場を見つける方がきっと難しい。
そうなると、おそらく……なのだが、肇くんが懸念しているのは“アパレル業界の華やかさ”なのではないかと考えられる。
私がこんな派手な姿をしているから、似たようなタイプの男が寄ってくると思っているのではないだろうか。うん、それならわかる。何故なら肇くんもかつては“ホストくん”とあだ名がつくくらい派手だったからだ。
確かに外見の印象は人間関係が始まるキッカケにはなるだろう。好みで人を見るのも、そこで興味の度合いが違ってくるのも事実。
しかし私は何も、肇くんの派手さだけに惹かれた訳ではないのだがな……。
アナウンスの声が聞こえて顔を上げた。私の乗る電車が間もなく来るらしい。
結局、解決策は見つけられないまま。
迫り来る振動と伴うように、私の中で二つの思いがせめぎ合う。
大好きな彼を安心させたい。でもこの仕事が好き。
どちらも譲れない、譲りたくない。私は我儘なのだろうか。
向こう側の通過電車の警笛が高らかに響いて私の思考を遮った。
そうだ、今考えても仕方がない。こんな数分で答えが出ることではない。
目の前のことを一生懸命やって、自立した人間であることを証明するだけ。職場にも彼にも、信頼してもらうんだ。
決意を内側に閉じ込めるよう胸元でぎゅっと拳を握り、私は到着した電車に乗り込んだ。
しかしそれから数時間後、早くも私は自信喪失の危機に陥ってしまうのだ。




