105.彼女との距離(☆)
駅前まで向かう道のりの途中、楽しそうに笑い合いながら歩く中学生の集団を見てやっと三月なのだという実感が湧いた。
まだ午前中だ。自分のときもこうだったっけと過去に思いを馳せてみるけれど、もうあまりにも遠い昔に感じられてとても鮮明には思い出せない。
ただ一つ記憶に残っているとしたら、第二ボタンが外れている男子生徒など一人も見かけなかったということだ。あの文化は一体いつ生まれたものなのだろうな。
こういうとき、好きな人の中学生時代を想像してみるのも楽しいように思うのだが、カケルさんの場合はまだフィンランドにいた頃だからちょっと想像ができない。
人の過去に触れるのには抵抗がある。共有した時間ならまだしもな。だからそのうち話題に出たら無理のない範囲で会話を楽しんでみようと思う。
「おーい! トマリ!」
改札の近くで手を振ってくれている彼女。デジャヴだ。あのときは思いがけない事態になってしまって本当に申し訳なかった。今日はその埋め合わせになれれば良いのだがな。
私は歩調を速めていった。ブラウスのリボンタイがふわりとはためく。なんとも形容し難い香り、そう“春の香り”としか言いようのないそよ風が鼻腔を柔らかくくすぐっていた。
「へぇ〜、このケーキ屋いい雰囲気だな。イートインがあるとは知らなかったわ」
壁際の席で店内を見渡す和希が目を輝かせた。
確かに心地の良い空間だ。席数はあまり多くないけれど平日の午前中だからまだ空いていたし、暖色系の照明とレトロな雰囲気の音楽が見事に調和していてセンスを感じる。
「去年にはもうオープンしていたお店なのだがな。なかなか行く機会がなかった。いつか和希と一緒に訪れてみたいと思っていたのだよ」
「ありがとな。甘いもんなんて久しぶりだぜ」
「しかし和希がいちごのタルトなんて珍しいな。てっきり抹茶のムースケーキなどを選ぶと思っていた」
「基本は抹茶だな! だけどよぉ、店頭であんなに苺、苺ってアピールされちゃあ多少は興味が湧くってもんだろ」
「食品業界からしてみれば春の一押しといっても過言ではないだろうからな。街中の看板ものぼり旗も苺や桜でいっぱいだ」
「桜かぁ、いいね。団子も食いてぇ〜」
花より団子をここまで体現している人間が他にいるだろうか。それが何故だかとても安心する。
和希はタルトの苺を頬張ると「うめぇ〜!」と感嘆の声を上げた。幸せそうで何よりである。
「この間はすまなかった。まさか帰って早々熱が出るとは思わなかった」
「気にすんな。すぐに熱下がったって聞いて安心したよ。千秋さんにもちゃんと連絡したか?」
「カケルさんは次の日の夜にも顔を出してくれたから、私の体調が回復に向かったところも見届けている」
「はぁ〜、愛されてんねぇ」
黙々とケーキを食べている彼女にも沢山お世話になっている。もっとお礼の気持ちを伝えたいのだけど、どうすれば良いのだろう。
ケーキを奢るつもりだったのだが、大丈夫だと言われてしまったからな。私が現在無職だから気を遣ってくれているのかも知れない。
――なぁ、トマリ。
ふと声が届いて顔を上げた。
和希が浮かべている表情、そのあまりの優しさにゆっくり息を飲んだ。
「良かったな、本当に」
「和希のおかげだよ。どれだけお礼を言っても足りないくらいだ」
「大袈裟な」と言って彼女は笑う。ブラックコーヒーを一口飲んで、はぁ……と温かそうな息を零していた。
私はやっとフォークとナイフを手に持ちミルフィーユを横に倒した。そっと押すようにして切り分けようとしたら途中でパリッと砕けた。和希が吹き出すようにして笑うから、私もつられて笑ってしまう。
食べにくいことで定評のあるミルフィーユ、実は場を和ませるムードメーカーなのではないだろうか。
「菊川さんもいろいろと気を利かせてくれたんだろ? あの人の力もデカかったと思うぞ」
「確かにその通りだ。あちらでは凄くお世話になったし、今までだってカケルさん側で強力な味方になってくれていたのだと聞いている。そこで彼にも何かお礼をしたいと先日カケルさんと話していたところなのだよ」
「お〜、いいじゃねぇか! で、何か案はあるのか?」
「それがまだ決まっていないのだ。プレゼントとなると個人の好みもあるから難しいし、ギフトカードというのも善意で協力してくれた人に贈るのは少し不自然なように思う。食事に誘うのも考えたのだが、菊川さんは大食漢らしく普通の量では却って申し訳ないという話になった」
「ならビュッフェや食べ放題はどうだ?」
「それだと少食な私が楽しめないだろうからとカケルさんが言っていた。私はそれほど気にしないのだがな……」
「なるほどな〜。千秋さんらしい気遣いっつーか」
和希は頬杖をつき何処かアンニュイな視線を空の皿へ落とした。
ケーキが足りなかったのだろうか。これは今度こそ私が奢るべきところなのでは。
「和希、その……」
「なぁ、もし良かったらでいいんだけどさ、そのお礼っていうの私も協力させてくんね?」
「え?」
「嫌だったら断れよ。私はあんたらの時間を尊重したい。なんつーか、これからは距離感ってのに気を付けていきたいと思っててよ」
なんだそれは。何故そんな水くさいことを言うのだ。私の中でじわりと不安が滲み出た。
熱を出したときもそうだった。コンビニまで行くにしては随分長い時間帰ってこなかった。
気のせいかと思ったのだがそうでもないのかも知れないと今感じている。
和希が少し、少しだけど、遠くなった気がするのだ。
おそらくカケルさんと付き合い始めた頃から。
「おーい、おーいトマリ。大丈夫か」
「……あっ、すまない。少しぼんやりしてしまった。その、なんというか……」
「やっぱりお節介だったか。わりぃな」
「そ、そんなことはない! 嫌な訳がないじゃないか」
嫌だ、行かないでくれ。
咄嗟にそう思ってしまった私は欲深いのだろうか。何か一つ実れば何か一つ手放す、そういうものだと思っていた方が良いんだろうか。
だけどどうしても先走った実感が私の胸を締め付けてしまう。
しばらく目を丸くしていた和希は、やがて困ったように笑った。
「なんだよ。やけに必死じゃねぇか。別に今決めなくてもいいんだぞ」
「それは……そうなのだが」
「じゃあさ、こっからの話は千秋さんのところに持ち帰ってくれ。な? それなら気負わなくていいし安心だろ」
「わかった。和希がそれでいいなら」
「私は全然構わねぇよ。だからそんなかたい顔すんな」
春風のようにかすかな安堵が訪れた。これも和希の気遣いゆえなのだろうとわかってはいるが。
その頼もしい笑顔にまたも救われてしまう。甘えた私を許してほしい。
「思ったんだけどさ、季節のイベントに誘うってのも自然で良いんじゃないか」
「季節のイベント?」
「そう、春と言ったら花見! どうよ?」
和希が立てた人差し指を中心にぱあっと視界が開けた。春色の吹雪が宙を舞う。
目から鱗とはこのことだ。かしこまりすぎず、不自然でもなく、重すぎず軽すぎずな提案。
積極的に旅行へ行くような人なら尚更満喫できそうなイベントに思える。これなら気楽に来てもらえるんじゃないだろうか。
「そうなると……私たちは何を用意すれば良いのだろう。私は料理が不得意だからお弁当を作るのは難しそうだし、カケルさんにばかり頼るのも申し訳ない」
「公園の売店や屋台で買えばいいじゃねぇか。大体なんでも売ってるぞ、あの時期は」
「なるほど。私たちが菊川さんの分を買えばいいのだな」
「あのなぁ。金を出すのだけが礼じゃないんだぞ。楽しい時間を共有できるのだって嬉しいもんだ。声をかけてもらえるだけで慕われてるのを感じられる。ああいう見返りを気にしてないような人にはそれくらいがちょうどいいと思うぜ?」
そうなのか、と頷きながら思った。なんだろう、和希が言うと凄く説得力がある。
事実あのときの菊川さんは、観光中であったにも関わらずカケルさんと私のために別行動をしてくれた。本来はもっとカケルさんと時間を共にできるはずだったんだ。
菊川さんは先月いっぱいであの会社を退職したと聞いている。これから新しい場所で新しい仕事が始まりますます忙しくなってくると予想できる。きっと今のうちなんだ。難しいことを考えず皆で笑い合ったりできるのは。
華やぐ桜の下でレジャーシートを敷いて……などと想像している途中、そこに座る私の目の前がぼやけている気がしてはっと意識が覚めた。
「和希も来るのか? 来るのだろう」
「あ、ああ。もしあんたらが良いんならな。だから千秋さんにも話してみてくれって言ったんだ」
「わかった。早速今日話してみる」
あの二人が断るなど想像がつかないのだがな。ましてや和希ほどコミニュケーション能力が高ければ話題にも困らないし、自然と馴染めるのではないだろうか。
カケルさんと私に対する距離感だって既に適切であるように感じるのだが……私は人間関係における微妙な塩梅がよくわからないのも事実だ。ただ、せっかく集まるなら誰も緊張せず軽やかな気持ちで過ごしてほしいと思うばかり。
「しかし、私こそ良いのだろうか。こんな……」
「ん、なんだよ?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
「?」
一つ、思い浮かんでしまったことがあったが一旦胸の奥へ引っ込めた。
今までだったらまず和希に話していたようなことなのだが、今は何故か違うような気がしたのだ。
「まぁとりあえずさ! 私が行くかどうかはともかくとして、一緒に案を考えるくらいだったらできるから気軽に話してくれな」
「何を言っている! 前向きに検討してもらえるように話すつもりだ。そう、和希が参加するメリットを幾つかピックアップして……」
「ははは、なんだよそれ。プレゼンじゃねぇんだから」
和希はこんなに陽気に笑っているのに、そこはかとなく寂しさを感じるのは何故だろう。
「トマリってほんと面白いよな。私は気に入ってるぜ、そのキャラ」
細めた目で見つめられると罪悪感のようなものさえ覚えてしまう。その正体はまだ見えないが、なんとなくわかった気がするのだ。
遠く感じる距離。多分原因は私の方にあるのだろうと。




