102.隣で笑っていてほしい(☆)
――トマリ。やっと会えたんだね、僕たち――
――これからも一緒にいられるんだね。もう離れ離れにならなくていいんだね――
――僕たちは良い子じゃなかったけど、お互いを大切に思う気持ちはきっと許してもらえたんだね――
――さぁ、一緒に帰ろう。二人で生きていける方へ。手を繋いで行こう――
気の優しい少年の声が鮮明に聞こえた気がした。
握り返してくれる手は大きいけど、目線はほとんど同じ高さに思える。
同じ景色を見ているんだ。今、この瞬間。
藤の花はまだだけど、私たち頭上には確かに咲き誇る愛らしい彩りがあるよ。
ほら、見上げてごらん。
青空に散らしたピンクのアクリル絵の具のような、満開の河津桜。
ぐつぐつと湧き上がる音が規則的で心地良い。重みのある蓋の下で、色とりどりの食材が踊っているのが目に浮かんで気持ちまで弾む。スイーツ以外で食欲をそそられるのなんて久しぶりだ。
ついに蓋が開かれると、立ち上る湯気と伝わる熱気。鶏の出汁が溶け出した豊かな香り。霧がかったかのような視界がやがて晴れ、見えてきたのはなんとも絶妙な造形美。
白く濁ったスープに浸る香ばしそうな焼き豆腐、十字の切れ目が入った大ぶりの椎茸、瑞々しくふっくらとした白菜、清流のように澄んだしらたき……
彼も私も思わず歓声を上げた。そんな中。
「そ〜れ〜で〜、なんでこうなるんだよッッ!!」
苛立ちを露わにした兄の声が小さなリビングに響き渡る。まぁ無理もないと思いつつも、私は母から受け取ったお椀を隣のカケルさんに渡した。
「いいじゃないの、せっかくカケルくんとこうしてまた会えたんだから。ゆっくりしていってもらいましょ。ささ、カケルくん沢山食べて。はい、おたま」
「いえっ、僕は最後で……」
「いいのいいの、先に好きなのを取って」
「ありがとうございます、お母さん!」
「お前の母さんじゃないからな」
「お父さんとお兄さんも、今日は本当にありがとうございます!」
「お兄さんって言うな!!」
「ははは、今日は賑やかだな。凛太郎がこんなにはしゃいでるのを見るのは久しぶりだぞ」
「あのなぁ、父さん……」
何やら話が盛り上がっている間にカケルさんが私のお椀を手にする。穴あきのおたまでゆっくり豆腐を掬い、数切れの白菜と二つの鶏団子を添え、最後に少量のスープを入れて渡してくれた。こぢんまりとしたそれはミニチュアの鍋のようでなんだか可愛い。このままぎゅっと縮めてキーホルダーにしたい。
「よくわかりましたね、お豆腐が食べたいって」
「トマリの好みなら大体わかるから」
カケルさんが頬を染めてふふ、と笑うと、向かい側の兄が額に手を当てはぁーーーーっと長いため息を吐いた。父の豪快な笑い声が後に続く。
今夜のご飯は鶏白湯鍋。あっさり鶏ガラベースで素材そのものの旨みを楽しむスタイルだ。
味噌や醤油などの濃いめの味付けが好きな母にしては珍しいチョイスだが、いつも以上に沢山作るから味に飽きないようにするための工夫なのだろう……と思われる。
ついこの間もすき焼きだったのだが、家族みんなで囲む食卓となるとやはり鍋は候補に上がりやすいのだろう。ダイニングでは椅子の数が足りないからと、今夜はリビングで座布団に座って食べることになった。
そして自然とこの場に溶け込んでいるカケルさん。彼もまるで家族のように受け入れられていることが嬉しいようなくすぐったいようなで、ふとした瞬間にソワソワしたりもする。まさかこんな流れになるとは私も想定できなかったな。
「お母さん、今日は頼まれていたものを買えなくてすまなかった。また明日行ってこようと思う」
「いいのよ〜。おかげで鍋にしようって思いついたし、カケルくんもトマリも後でスーパーに付き合ってくれたでしょ。だから良し! 私は器が大きいからそれくらい気にしないわ」
「お、カケルくんの前だからって見栄張ってるな母さん」
「お父さんも車出してくれてありがとう。鍋は結構荷物が多くなるから助かった」
「なぁに。頼れるときは頼りなさい」
母も昔はよく細かいことに口出ししたものだが、今ではこのようなユーモアを見せるようになったのだな。父は昔から変わらないし裏も表もないおおらかな気質だが。
ニコニコ顔の両親を呆れ顔で見ていた兄だったが、ふいとそっぽを向くとついに「まぁいいけどよ」と小さく零した。
そうだな、喧嘩中とはいえ今回はだいぶ世話になった。感謝はきちんと示さねば。
「兄貴、仕事があるのに私たちのことを気にかけてくれて、お父さんとお母さんにも事情を伝えてくれてありがとう。心配かけてすまなかった」
「ああ、本当にな。お前鍵も持たずに出ていくから困ったんだぞ。仕事に遅れる訳にもいかねぇし、そのうち旅館に顔出してくるだろと思って出かけたけどな」
「本当にすみませんでした、お兄さん。僕のキャリーケースまで預かってくれて。もうチェックアウトした後だったのに」
「おかげでまたカケルさんと町を回れた。兄貴たちが仕事終わるまで結構時間があったけど、その分ゆっくり過ごすことができたよ。私たちばかりすまない。でも感謝している」
「本当にありがとうございます! お兄さん!」
「だからお兄さんじゃ……ああ、いいよ。わかったからさっさと食え」
兄はしっしっと手で払いのける仕草をする。眉間に皺を寄せてる割にまんざらでもない声色に聞こえたのだが、さすがに都合の良い解釈だろうか。
「いただきます」とみんなの声が重なった。手を合わせるのが我が家の習わし。カケルさんもそれに合わせてくれる。
「美味しい」「美味しいね」と言葉を交わす。夢中で食べながらも時折談笑するみんなの顔を見渡しながら、そうか、団欒とはこういうものだったのか、などと思う。
ここにカケルさんがいてくれる、ゆえの新鮮な雰囲気が為せる技。そうとも考えられる。これが我が家の本来の姿かはわからない。
それでも……今は良いではないかと思うのだ。
「菊川さんにも今度何かお礼をしたいな」
カケルさんがぽつりと呟いた。空のお椀を見つめていた目がやがてこちらを向く。私も強く頷いた。
「私もお礼がしたい。ここまでお世話になったのにお見送りもできなかったのが心残りだ」
「トマリから電話が来たとわかったとき、すぐに行けって。俺は帰るけど追いかけてくるな。彼女を追いかけろって言って送り出してくれてね」
「そこまで気を遣ってくれたんですね」
「カッコいい人だよ。友人ではあるけど、こういうところは本当に頭が上がらない」
「私たちにどんなお礼ができるでしょう」
「とりあえずトマリがあっちに帰ってくるまでの間に考えて……」
そこまで言ったカケルさんがあっ、と小さく呟いた。申し訳なさそうな目で母、父、兄と順に見渡す。
やがて広い肩を縮こまらせて背筋を伸ばした。足元も正座の形になっていた。
でもその眼差しはもうしおらしくなどない。
「すみません、トマリさんのこれからを勝手に決めるようなことを言って。もちろんトマリさんの考えを一番大切にしたいと僕は思っています」
真剣な表情の中にも微笑みを携えていたのは父だ。カケルさんと同じように背筋を伸ばしているし空気もシャンとしているけれど、伝わってくる雰囲気は何処か柔らかい。
頬杖をついてそっぽを向いている兄に「凛太郎」と母が厳しい声で呼びかける。兄は渋々といった様子でやっとカケルさんの方を見た。
「ありがとう、カケルくん。トマリの答えはもう決まっていそうだがな」
「そうね。でもトマリの言葉でも聞かせてほしい」
もう微笑みを浮かべている父と母を私もしっかり見据えた。
「カケルさんと一緒に行きたい。またあの街で頑張ってみるよ。あちらにはカケルさんはもちろん、信頼できる友人もいるんだ。私は独りじゃないと、今回のことで強く実感できた。困難を乗り越える力が私にもあるのだと信じたい」
触れられてはいないはずなのに、カケルさんが背中に手を添えてくれたような温かさと心強さがあった。
今の私に迷いはない。そう言い切れる。
無意味だとさえ思っていた脆弱な“覚悟”が、ここまでちゃんと固まるときが来るなんて。
「僕、精一杯トマリさんを幸せにします!」
深く頭を下げた彼の、その声が大きく響いたとき、空気がぴたりと止まった気がした。
父は目を丸くし、母は口元を手で覆っている。兄に至っては顎が外れたみたいにあんぐりと口を開けている。
数秒ほど遅れて、私の顔に熱が込み上げた。唇がおのずと震える。
「カケルさん、それって……」
「えっ……あっ」
「それって、あの」
「あっ、ごごごごめん! 僕ばかり突っ走って。そうだよね、まだ先のこととかわからないし、そういうのは慎重に考えた方がトマリも安心だよね! 無理しないで、ほんと!」
「いえ……」
私は小さく首を横に振った。口元はまだもつれるけれど、これはきっとうやむやにしてはならないこと。真っ直ぐ彼を見上げた。
「ずっと一緒にいようって、カケルさん言ってました」
「……う、うん」
「私はそれに同意しました」
「うん」
「なので私も再確認します」
私の喉が鳴ると、彼の喉も大きく動く。こんなにもシンクロする。決して代わりのきかない深い安心感。だからこそ私も心から望むのだ。
「本当に私でいいんですか」
「もちろんだよ。君がいい」
望むのだ、私を選んでほしいと。この手を握り、隣を歩き続けてくれると。
隣で笑ってくれると。あなたも幸せになってくれると誓ってほしい。
彼の目尻が光っている。つられてしまうのをぐっと堪えて、ここは私なりにめいっぱいの笑みを見せておくことにした。
どうだろう。少しは頼もしく思ってくれただろうか。
父と母は顔を見合わせて頬を染める。
兄は大きく息を吸ったが、ため息をつくことはなく飲み込んだ。「好きにしろ」と、小さく聞こえた。
「そうだ、カケルさんのご家族にもご挨拶をしなければ」
「うちは放任主義だから大丈夫だろうけど、トマリはそういうのきっちりしておきたいだろうから、そうしようか」
「カケルくんはお酒飲めるのかな?」
「あっ、すみませんお父さん。はい、多少は飲めます」
「じゃあこの後付き合ってくれるかい。凛太郎も一緒にどうだ?」
「は!? 俺はいいよ! なんでこいつと……」
兄がまだ言い終わってないうちに父はいそいそと晩酌の準備をし、カケルさんがそれを手伝い始める。兄も文句を垂れながらも後に続いている。コントを見ているようで私もさすがに面白くなってきた。
一層賑やかな夜になりそうだ。まだ見ぬ困難を憂う暇もないくらい。
そんなときがあったって良い。いや、本当はこれからだって、そんなふうに生きていくことを自分に許してやっても良いのだろうな。
カケルさん。私の大切な人。
今夜、あなたがそれを教えてくれた。




