101.春色の砂時計は何度でも時を刻む(☆)
――ここから先は元上司ではなく、千秋カケルという一人の人間の言葉として受け取ってほしいです――
――トマリ。できるならもう一度、君の声が聞きたい――
今でもはっきり覚えてる。彼と一緒に働く日々に別れを告げ、何処にも属さないただの桂木トマリに戻ってすぐのこと。
このメッセージを送ってきた彼の意図がわからなくて困惑するばかりだった。変に深読みしたために余計に頭が混乱して結局返信さえできなくて。
でもやっと合点がいったような気がした。
“君の声が聞きたい”
言葉通りといえばそうなのだが、もっと思っていた以上に深く哀しいものだった可能性に気が付いて……
私は今、息が止まりそうだ。
――トマリ?
『ねぇトマリ、聞こえる?』
「…………っ」
いつコールの音が途切れたのか全然わからなかった。
彼の心配そうな声を受けて身体はぴくりと反応したけど、肝心の声は詰まってしまいすぐには出てこなかった。
体温調節機能が壊れてしまったみたいに頭が熱を持って汗ばむ。鼓動もなかなか落ち着いてくれない。どれくらい待たせてしまったことだろう。
「ち、千秋さん」
『うん、どうしたの』
「すみません、その……」
『ゆっくりでいいよ。時間ならあるから』
そんなことを言う彼の声には、車が走り抜ける音が重なっていた。
ぎゅうときつく唇を噛んだ。嘘つき。そんな言葉が浮かんでしまう私は本当に可愛くないと思う。
前からそうだったな。素直になるべき場面で相反する言葉が出てくることがあった。彼は私に嫌味を言ったことがあるそうだけど、きっと私の不器用さに比べたらどうということはない。
今回ばかりは素直になりたい。これが最後なのだから。
でも素直になりすぎても我儘が溢れ出してしまいそう。ストッパーは外せない。一体どう加減すれば良いのだろう。
『トマリ……?』
「あの、千秋さん」
『あっ、ごめんね。急かしてる訳じゃなくて! ただ心配だっただけで。うん、どうしたの』
「気を付けて」
『う、うん?』
「気を付けて帰ってくださいと、それだけ伝えたくて」
『あ、あ〜! そっか。ありがとう。大丈夫だよ、道しっかり覚えてるから。あっでも、また来るとかじゃないから安心して。もうトマリに迷惑は……』
「…………」
『かけ、ない……』
千秋さんの言葉は次第に萎んで消えていった。長いまつ毛を伏せたタレ目がありありと目に浮かんで胸が痛くなる。
何をしているんだ私は。ただ別れの実感を強めただけじゃないか。そんなふうに後悔してももう遅い。私たちは同じ砂時計の中に閉じ込められてしまった。
もうすぐ全て流れ落ちる、わずかの時を刻む砂時計。
彼の姿は見えないのに、儚げに微笑んだのが何故かわかって泣きたくなった。
『無理を言って押しかけたのに許してくれてありがとう。会えて嬉しかったよ』
「許すも何もありません。私も強く望んだことです」
『トマリも身体に気を付けて過ごすんだよ。頑張り屋さんなんだから。肩に力入れすぎないで、困ったときは友達とか周りの人に相談してさ。一人で抱え込んだりしないでね』
「はい、そうします。ありがとうございます」
『本当だよ。トマリはちゃんと幸せになれる力を持ってるんだから。その力を大切に守ってね』
「はい……」
何か言いかけたけどすぐに霞んでしまった。
手が冷たい宙を撫でた。そこに彼の気配がある気がしたから。実際は電波で繋がっているだけなのに、すぐ傍にいるように思えてしまって。
アッシュに青紫のハイライトが入った長い髪、なめらかな白い頬から冷え切って青白くなった唇へ。そうやって順に触れていく。
もう会わない、触れないと決めたからこその屁理屈だった。気配に対してなら許されるだろうなどという考えだ。そんなギリギリのところで理性を保っていたのに。
『今、トマリがすぐ近くにいるみたい。今日は寒いのに、なんだかあったかく感じる』
こんなことをなんの悪気もなく言うのだから罪な人だ。
いや、もしわざとだったとしても私は許すよ。最後に傷を残したいという気持ちがこの世に存在することは知っている。私には無い感覚ではあるが。
結局私はこの人の罪なら許せてしまうのだから、最後の望みだって甘んじて受け入れたい。だから遠慮せず言いたいことを言ってくれ、千秋さん。
『それじゃあ、あまり引き留めても悪いから僕そろそろ行くね』
何故そんなことを言うのだ。引き留めたのは私だろう。傷付けたと思ったら守ろうとしたり、本当にあなたという人はよくわからない……と言いたいところだが、わかってしまうところも大いにあるのだよな。何故なら私たちは似ている部分も多かったから。
「……そうですよね、菊川さんを待たせてしまっていますよね。すみません」
『菊川さんは大丈夫だと言ってくれてるよ。またお土産屋さんを見たいからって今はここを離れてる。時間はまだ全然あるから気にしないで』
そろそろ行くねって言ったのに、矛盾していることに気付かないんだろうか。
「それなら千秋さん」
『ん、何?』
優しくて甘い声。ほんの短い問いでさえ私の奥深くをくすぐる、この世でただ一つの声。
何度も元気付けてくれた、労ってくれた、愛を囁いてくれた、私の大切な宝物。
忘れずにいられるだろうか。留めておけるだろうか。これから先、何年も、何十年も。
ううん、そんなものじゃない。
本当は、許されるなら、もっとずっと先まで。
『トマリ? 聞こえる?』
「元気で……いてください。私、忘れません、から」
『トマリ、声が……』
「千秋さん」
駄目。駄目だってば。
そう自分に言い聞かせたくても、痛みを伴う熱い想いの勢いに、柔らかな堤防は呆気なく決壊した。
「……カケルさん、行かないで」
歯が立たなかった理性。強がりも屁理屈も無意味だった。ましてや割り切るなんて、未熟な私にはあまりに高度なことだったのだと知る。
そこからしばらくしても聞こえるのは乾いた風の音だけだった。
そっとスマホを耳から外す。見るとすでにホーム画面に戻っていた。目の前にあったはずの彼の気配もすっかり消えている。
傷付けたのは私だ。やっぱり最後の最後まで、私の方だったのだ。
どれほど罪悪感を覚えようとも、どれだけ詫びたいと願っても、もう届くことはない。むしろ彼の方で幕を下ろしてくれたことに感謝すべきだろう。
手の甲で無様な雫を拭う。あまりにも大量に流れ出たものだから、これもほんの気休め程度。くずくずに濡れた顔のまま帰るしかない。
鼻で息を吸おうとすると、ずず、と汚らしい音が鳴る。紛うことなき大恋愛も終わりはカッコ悪いものだな。
視線を巡らせると花の咲いてない藤棚が遠くに見えた。そうだ、最後に。私はフラフラした足取りのままそちらに歩を進める。
真下に辿り着いて見上げた。あの頃の息を飲むほど美しかった色とりどりの花々と酔いをもらたすほどの甘い香りに思いを馳せ。
――さようなら。
「ありがとう、カケル。君に出会えたことが私の人生に於いて最も大きな奇跡だった。君のこれからの人生に沢山の幸せがあることを心から願っている」
誰もいないのをいいことに、今の思いの丈を口にした。
瞼を閉じてひと呼吸。
さて、鍵もメモもお金も持たずに出てきてしまった。兄貴にどう言い訳をしよう。そろそろお叱りのメッセージが届く頃かもかも知れないな。スマホを見るのが憂鬱だ。
身体がカラカラに乾いているように思う。特に瞼と唇がヒリヒリする。それゆえ感覚が鈍っていたんだろうか。
一目散に駆けてくる足音には気付かなかった。それでも。
――トマリ!!
愛するその声まで聞き逃すことはない。
私の目の前、少し離れたところに彼は立っていた。肩を大きく上下させながら。
いつだって優雅だった彼の無防備なほどに崩れた表情に見入った。
「良かった……っ、旅館に戻って訊いたら今日は出勤じゃないって言ってたから、もしかしたらここかなと思って。ごめんね、僕、スマホ充電するの忘れてたみたいで、途中で電源落ちちゃって」
「カケルさん……」
「最後まで聞けなくてごめん。トマリ、さっきなんて言ってたかもう一度聞かせ……」
「嘘! 聞こえてなかったなら、そんな必死に走ってこないじゃないですか。カケルさんの意地悪!」
身体中の水分が抜け切ったくらいに思っていたのに、まだ出てくるというのか。そんな状態だというのに、まだ可愛げのないことを言うのか。もはや自分に呆れる。
だけどそんな私を前に、彼は頬を染め目を細めながら、涙まで流しながら、愛おしげな口調で言うのだ。
「そうだよ。嘘だよ。ちゃんと聞こえた。ねぇ、トマリ。本当に僕を選んでくれるの。もう二度と何処にもいかないって約束してくれなきゃ嫌だ。重いでしょ、こんな気持ち。それでもいいの」
自然と頷いた。何度も何度も。
本能的に身体が突き動かされる。そうやって走っていくつもりだったのに、彼の方がよっぽど速くてあっという間に力強く受け止められた。
ゆっくり彼がしゃがんでいって、私はやっと彼の肩の上で息継ぎした。それでも締め付けがきつくて、なのに心地よくて涙が止まらない。
湿った頬と頬が吸い付いて一層熱が伝わってくる。
「知ってます」
なんとかやっと声を絞り出す。
「カケルさんの気持ちが重いのなんて知ってる。それに私だって負けてないです。あなたの存在がどれほど大きいか、もう認めざるを得ません」
彼もこくこくと頷くのがわかった。すっかり涙声になって囁く。
「君の声を聞けて嬉しかった。だけどこれからはずっと傍で聞かせてよ」
溺れそうになるのをお互いしがみついて耐えている状態。これじゃ一緒に沈んでいくのに。
それも本望だ。あなたと一緒なら海の底でも砂漠の真ん中でもいい。
恋は盲目。それでもいい。きっと私たちは何度でもお互いに恋をするから。刹那と永遠が結びついた、時の概念を超越した想いが満ちていく。
「僕たち、ずっとずっと一緒にいよう?」
「カケルさんさえ良ければ」
「いいに決まってるじゃない。強がってきたけど、本当はずっとこうなりたかったんだから」
「もう黙って何処かに行ったりはしません。何処かに行くときはちゃんとカケルさんも誘います」
「……ふふ、そうだね。そうしてほしい」
くすぐったそうに笑った彼が私の濡れた頬を両手でぎゅうと挟み、一層顔をくしゃくしゃにした。変な顔、多分そう思って可笑しくなっているんだろうな。わかっているのだぞ。
「メイク流れてきちゃってるね。後で直してあげようか」
「あまり見ないでください」
「どんな姿のトマリでも好きだから恥ずかしがらないで」
「笑ったくせに」
「ふふふ」
額を合わせてお互いに肩を震わせる。似たもの同士というのは楽しさも分け合えるのが良いなと実感する。
永遠に続いてほしいと思うほど温かな時間だ。砂時計は何度でもひっくり返って新鮮な時を刻み続けるだろう。
もう大丈夫なのだ。そう思ったら、だらしないくらいに頬が緩み、身体の力が抜けていった。
二人でまた穏やかな水面に浮かび上がってくるみたいに。
私たちが共に迎えた新たな春に微睡みふやけている間に、兄からお叱りメッセージが届いていたようだ。
まぁ、想定の範囲内だ。謝罪の言葉は、共犯であるカケルさんと一緒に考えるとしよう。




