100.あなたの声が聞きたい
夢の中で千秋さんがネイルを塗ってくれた。
パープルからミントグリーンへのグラデーションがフローライトのようで、仕上げのトップコートの艶を纏うことで一層宝石らしさが増した。
優しい瞳に見つめられて息を飲んだ。彼はすぐに私の手元に視線を落とし、頬を薄桃色に染める。自由を奪われた私の手はそこに触れることができない。
夢だと始めからわかっていた。それもそうだ。別れを告げた相手なのだから、もう二度とそのようなことなど起こるはずもない。
微笑みさえ遠く、遠くへ行ってしまうのだ。こんなことなら近くにいる間にもっと……
もっと……何がしたかったというのだろう。
ゆっくり瞼を開いたとき、私の目元は手の甲で覆われていた。
変だな。涙も流れていないのにこんな仕草。どんな感情だったのかもよくわからなかったというのにな。
そんな宙ぶらりんな気持ちであろうとなんであろうと、今日という日はお構いなしに始まる。
私は仰向けのまま、猫のように大きく伸びをした。
リビングに入ってすぐにちょっと驚いた。兄には自室があるはずなのだが、何故か今朝はソファで寝ている。寝巻き代わりにしているスウェット姿のままだ。
テレビはついたままになっている。何か見たい番組があって早く起きたけど、疲れが取れてなくて結局寝落ちといったところだろうか。
私はそーっと押入れの戸を開け、上の段から毛布を取り出した。風邪を引くかも知れないとわかっていて放置するほど私は鬼ではない。
肩まで毛布をかけてやると、兄が眉間に一本皺を作って身じろぎする。温かくなったはずなのに何故その反応なのだ。
寝ているとはいえ同じ空間にいると落ち着かないだろう。スマホさえあれば兄が出かけるまで時間を潰せる。すぐに寝室に戻るつもりだった。
でも、何故か今日は足が止まってしまう。
再び安らかになった兄の寝顔を見下ろしていた。
昨夜和希が言っていたんだ。無理に仲良くしようとしなくていいんじゃないかって。家族だからって全部分かり合える訳じゃないんだしって。
私もそう思う。一方で私はまだ望んでいるのかも知れない。“ダニエル”を許してほしいと。千秋さんを受け入れてくれとまでは言わないから。
いや、むしろその逆の方がまだいくらか可能なのだろうか。過去を許すことは難しくても、現在の彼なら……と、私は一体何を考えているんだ。彼は兄にとっても、もう二度と関わることのない人なのだぞ。許したところでなんだというのだ。
そっと期待の扉を閉めてから隣のダイニングへ向かった。
昨日買っておいたゼリー飲料を冷蔵庫から取り出した後、私はやっとテーブルの上に置いてある一枚の紙切れと数枚の紙幣に気が付いた。
お母さんの字だ。
なになに、えっと……
「トマリ、起きたのか」
「わっ! なんだ兄貴か。気配を消すのはやめてくれ」
「消したつもりはねぇよ。お前がボーッとしてただけだろ。そんなことよりそれ、母さんがお前におつかいを頼みたいって。今日は休みだから時間あんだろ」
「別に構わないが……」
そうは言ったもののためらう気持ちはどうしてもある。
買い物の内容は至って普通の食材や生活用品。誰でも買えるだろうけど、出勤前の兄と休みの私ならこちらに頼むのは自然なことだろう。
今のうちに出かければ、旅館のチェックアウトの時間とはぶつからないと思うのだが、もし千秋さんと菊川さんが早めに出ていたら……いや、私が周り道をすれば良いか。でもそうなると生鮮食品の鮮度が……いや、冬だからそこまで心配する必要もないか。でもやはり安全性を考えるなら……
「なんだ、行きたくない理由でもあんのか」
「い、いや! そんなことはない。おつかいくらいなんのことはない。支度をしたらすぐ行ってくる」
「任せたぞ。俺はその間に仕事に向かうかも知れないから、お前も鍵は持っていけよ」
「わ、わかった」
別に隠すことでもないだろうに何故だか後ろめたくなってしまう。密会するならともかく、そのまま別れるというのに。その方が兄としても安心するだろうにな。
まぁいい。とにかく支度。
すぐ近所のスーパーとドラッグストアだろう。冬なら日焼けもそこまで気にしない方だし、このままの顔でいいだろう。髪を結ぶくらいで充分。さっさと出かけよう。
このときは確かにそう思ったはずなのだが。
マットなベースメイクで陶器のような肌を、白みがかったベージュのアイブロウで儚げな眉を演出。
白いファーコートに映えるようにと計算したモーブカラーのアイシャドウ。バーガンディーのアイラインで瞼の色調を馴染ませた上で、濃いめのアッシュグレーのマスカラできりりと引き締める。すっきり見せるためにあえて涙袋は描かない。
限りなく血色に近いチークを本当に少し、ほんのりと。深いレッドのリップはあえて唇全体には塗らず輪郭をぼかしてある。
金髪だからこそよく似合う、これぞマイブーム・モード系人形メイク!
……じゃない!!
寝室にて。卓上の鏡の前で私は頭を抱えた。
目覚まし時計に目をやると、もうすぐ九時半。すでに一時間が経過していることに気付く。
そう、たった一時間、されど一時間。このズレがこの後のリスクを高めるかも知れないというのに。
いや、冷静に考えてみればここは私の地元。同級生に偶然会う可能性だって0(ゼロ)じゃない。そんなときボサボサの髪にすっぴんだと気まずいじゃないか。だからこれでいいんだ、これで。
……なんて、無理があるか。
長くため息をつく。改めて自分の顔を見つめる。白く冷たい頬に自然と触れていた。
こだわりのメイクに八つのピアス、アッシュブロンドからピンクへのグラデーションの髪。ぬかりなくきめてきたモードギャル系ファッション。徹底的にカスタマイズしたこの姿を見て、昔の私を思い浮かべる人は多分ほとんどいない。
今この町で、すぐに私だとわかる人は限られている。家族と一部の知り合い、それから……
「おーい! トマリ! 何してんだ。すぐ出かけるんじゃなかったのか」
「あ、ああ! 今行く!」
兄の声に飛び上がった私は、すぐにコートを羽織って寝室を飛び出した。
階段の下から見上げていた兄は、私の姿を目にするなり訝しげな表情になった。そのまま玄関に向かう私に着いてくる。
「おい、やけにしっかり顔作ってんじゃねぇか。おつかいに行くだけだよな? それとも誰かと会う約束でもしてんのか」
「べ、別にそんなことは……」
「まさかとは思うがまたあの男か」
「さ、さぁ?」
「千秋カケルか! またあいつなのか!」
「わからない! 私に聞かないでくれ! 行ってくる!」
「おいこら、待て!!」
ショートブーツのジップも閉じないまましばらく走った。羽織っただけのコートが何度もずり下がった。まだ二月なのに首元を汗が伝っていく。
藤棚がある公園の入り口で息を切らした。両手を膝について何度も、何度も。
手ぶらだった。おつかいはどうした。苦しくて情けなくてたまらない。
コートのポケットに手を入れると硬い感触。スマホだけは持ってきたようだ。これだけで一体どうするというのだ。なのに、少しだけ安堵している感覚があるというよくわからない現象。
いや、これは期待なんだろうか。ほんの一抹ばかりの未練の雫。
湿った首元が冷たくて指先にまで震えが伝わっていく。震えたまま、スマホの画面をスクロールしていた。
表示したのはメッセージアプリのトーク。こんな気持ちのときに思い出す人なんてやはり一人しかいなかった。
――千秋さん。
『千秋さん、一昨日はありがとうございました。観光は楽しめましたか。千秋さんたちにとって良い思い出になっていれば幸いです。菊川さんにもお礼を伝えておいてください』
そこまで打ち込んで人差し指が止まった。なんか違う。そう思って全部消した。
『千秋さん、一昨日はありがとうございました。楽しい時間を過ごせました』
違う。一昨日のこととかわざわざ思い出すようなことを書かない方がいい。
名前も入れなくていい。この期に及んで馴れ馴れしい言い方なんてするべきじゃない。
だから、もっと、こう、シンプルに。
『帰り気を付けてくださいね。お元気で』
そう打ったとき、お腹のあたりから一気に熱いものが込み上げた。視界に半透明の膜が張る。
無駄を省いたはずの言葉に何故かきつく胸を締め付けられる。指先は冷えていくばかり。
千秋さん。
千秋さん、千秋さん。
名前を記さなくても、情緒の波に飲まれた私の心が焦がれるように彼を呼ぶ。
わからないんだ。本当にわからない。
自分がどうしたいのか。何処に行きたいのか、何を伝えたいのか。
この地元に帰ってきてから何度も鏡で自分の姿を見た。映っていたのは迷子のように心細げな顔ばかりだった。きっと今この瞬間もそうなんだろう。
確かに存在しているはずの望みが言葉となって出てこない。複雑な感情に幾重も遮られて。
想いの先はこんなにもはっきりしているのに。
一人悶えるあまり、すぐには気付けなかった。いつの間にか通話ボタンを押してしまったこと。
繋がってしまうとわかって焦燥したのはほんの束の間。すぐに凪が訪れた。水面下は振動したまま。
単調なコールの音が続く中で。
「……助けて」
不恰好な願いの欠片が零れて落ちる。
我儘だと思う。大人気ないと思う。浮かれたり落ち込んだりと、一貫性がなくてめちゃくちゃで。その度にあなたの心まで振り回して。
ごめんなさい。これっきりにするから。会いに行かないから、触れないから。
もう一度だけ、あなたの声が聞きたい。




