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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第6章/想いを聞かせて(Tomari Katsuragi)
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98.切り離せない心(☆)



挿絵(By みてみん)



 夢から目覚めた後というのはいくらか余韻があるものの、それもやがては現実に溶かされていく。私は何処で、何をしていたんだっけ。何を見て、何を感じていたんだっけ。そんな宙ぶらりんの時間だって長くは続かず、忙しない日常にかき消されていくのだ。


 だから昨夜のあれだってそのうち溶けて……なんて、さすがに無理があるか。

 どんなに幻想的な光景に甘い時間だったとしても、現実を夢と思い込もうなんて不可能なんだ。


 だってあの人の熱も感触も、こんなにはっきり残っているのだから。


 いつの間にか唇に触れている自分に気付くと胸の痛みがぶり返した。

 確かに想いが通じ合った。それを実感するほどになんとも形容しがたい情緒の波が身体中を駆け巡る。これはもしかしたらもう治らないのではないか、そんな気さえしてきてしまう。

 冷静に考えるとそれはなかなか困るな。せめてあの人はそうでないことを願うばかりだ。


「トマリ〜、私そろそろ仕事に行って……って、なんだ起きてたの」


「ああ、おはようお母さん」


「布団の上に座って何してるの? 下に降りてくればいいのに。朝ごはんの用意できてるわよ。ちゃんと食べなさいね」


「わかった」


 母はどいたどいた、なんて言いながらまだ私が乗ってる布団を整えようとする。それくらい自分でできるのに、相変わらず思考より身体が先に動く性分なのだな。


「お兄ちゃんはもうちょっと寝かせておいてあげてね。昨夜もだいぶ忙しかったみたいだし。早い時間に声かけると大体機嫌悪いのよ」


「だろうな。兄貴は前からそんな感じだろう。接し方にはもう慣れているつもりだ」


「よく言うわよ。昨日喧嘩してたくせに」


 それを言われるとぐうの音も出ない。だが、慣れているからって譲歩できるとは限らない。それはまた別モノなんだと、頭の中ではしっかり言い訳が浮かんだ。


 カケルさんと菊川さんは明日帰っていく。私はここに残る。もう別の世界の住人になると言っても過言ではない。

 そしたら兄からカケルさんの悪口を聞かされることもなくなるだろうな。それで今更兄との関係性が変わるとも思えないが、できればお互い干渉することなくただの同居人として淡々と暮らしていくことが理想……いや、それは難しいか。


 一つ、ため息が零れた気がする。

 今後、私の世界から大きなものが欠ける訳だけど、それでも死にはしない。何故ならお互いのことを思った結果でもあるから。それだけはハッキリしているように思えた。



 私が家を出たのは大体九時頃。

 兄には一応声をかけてきたけど、見送るときも寝ぼけ眼だったからこの後また二度寝するんだろう。私もアパレル時代は夜型生活だったから、そうしたくなる気持ちはわからないでもない。


 夜型の名残りがまだあるからなのか、初夏のような日差しがやたら眩しくて自然と視界が細くなる。いつかオタクの友人が言っていた“糸目”とは多分こういうことだろう。これがまたエモーショナルなんだとか。友人とはいえよくわからない感性だ。


 春の彩りは日に日に数を増やしているように思える。瑞々しい命の気配が、隠し切れない煌めきを町中に散りばめているかのよう。


 河津桜の色は何処か力強さがあってやはり魅力的だ。毛先の色味も抜けてきた。次の美容室でまたこの色を入れたいけれど……そういえばこの辺に美容室などあっただろうか。もしかしたら最短でも隣街まで出ないといけないかも知れないな。

 住居を変えるとこういった手間がある。早くも都会が恋しくなっていたとき、ちょうど旅館が目の前に見えた。


 真っ直ぐ従業員入り口に向かうはずだった。

 なのに、運命は何故こうもタイミングを操作したがるのだろう。


 ちょうど正面玄関から出てきた菊川さんがすぐこちらに気付いて朗らかに笑う。後ろにはもちろん、彼も。私はワンテンポ遅れて会釈した。


「桂木さん! おはよう。これから旅館で仕事かな?」


「おはようございます、菊川さん。はい、裏方の仕事を少々」


「昨日の夕食も露天風呂も、凄く良かったよ。桂木さんたちのおかげで気持ち良く過ごせてるよ。ありがとね」


「こちらこそありがとうございます。お二人はこれからお出かけなんですね」


「そうそう、まだ回りきれてないところがあるからね。記念になるようなもの作ったり、写真に残したりしておきたいじゃない? なぁ、千秋」


 菊川さんは、一歩後ろで佇んでいる彼の方を振り返る。

 彼は私と目が合うと同時に顔を真っ赤にしてぎこちない笑顔を浮かべた。

 感触まで蘇るくらいリアルに思い出してしまったんだろうな。私もそうだ。


「あっ……その、昨日はありがとう。いちご狩り楽しかったし、庭園も花火も凄く綺麗だった。お兄さんや従業員の皆さんにもお礼伝えておいてね」


 お礼……とはどの範囲までだ? どう過ごしたか詳細に話した方がいいのか。昨夜のことも。


 いや、おそらくそうではないな。言葉の意味はいまいち理解できてないけど、多分「お世話になりました」くらいの簡潔な言葉を伝えておけば良いんだろう。

 こうやって相手の性格から多少推測できるようになったのは良かった。もっとも私だって、オープンに惚気るタイプではないがな。



「そ、それじゃあ行ってくるね」


「はい、お二人とも気を付けて行ってきてください」


「あのさ、トマリは明日……」



「楽しい時間を過ごしてきてくださいね。千秋さん・・・・



 彼の瞳孔がきゅっと縮まったように見えた。私は思わず目を逸らした。

 おのずと両の拳に力がこもった。彼の表情を見れないまま、刺すような胸の痛みになんとか耐える。


「桂木さんもお仕事頑張ってね。じゃあまた。行こうか、千秋」


 返事の代わりに頭を下げる、今の私にはそれくらいしかできない。

 再び顔を上げたとき見えたのは、背中に手を添えられて歩いて行く彼の後ろ姿だった。



 何かを終わらせるときは大抵痛みが伴うものだ。少しも傷付けずになんて都合の良い話はなかなかない。


 思い出が消えてなくなる訳でもない。“カケルさん”はちゃんと私の中に残る。

 もうわかる。彼もそうなんだ。私のことなどなるべく早く忘れてほしいくらいだけど、きっと無理なんだ。


 だからこそ、区切りはちゃんとつけておかなければと思ってああ言った。今日を最後にする覚悟で。実際私は、明日ここに来る予定はないからな。


 未練が残るようなことはもうしない。

 ……これで良かったんだ。



「トマリさん、大丈夫?」


 耳元に声が届いて私の朧げな意識が覚めた。隣に座る大石さんが心配そうな表情で私を見ていた。

パソコンにはホームページのブログ編集画面が表示されたままになっている。


「すみません、ぼんやりしてしまって。気を付けます」


「ううん、もし体調が優れないのなら遠慮せずに言ってね」


「ありがとうございます。体調は大丈夫なので」


 私はメモ帳を見ながらブログ記事の続きを書き始めた。

 明らかに中の人が変わったという文章にするのではなく、旅館のイメージを崩さないように、簡潔で品性のある文章にしたいところ。販売と絵以外でここまで真剣に取り組んでいるのはかなり久しぶりなんじゃないだろうか。


「トマリさんは仕事が早いわぁ。昨日はお休みだったのに、もうここまで要点をまとめてくれてるなんて」


「ちょうど町を回る機会が作れたので、記事に使える情報も見つけやすかったです」


「昨日は花火も上がってたものね。一ヶ月前にはわかってたことだったのに、ブログに書こうと思いつかなかったなんて、私ったら駄目ね」


「あ、そうだ、庭園のことなんですけど。ホームページに使われてる写真って秋頃のですよね。これも春夏秋冬で写真用意しても良さそうに思ったのですが、どうでしょう。紅葉も綺麗ですが、雪の残る庭園も趣深いものでしたし、これからはやはり春の花が見どころだと思いますし」


「ああ! 確かにそうね! そういえば昨日、庭園も見に行ったと言ってたものね。センスの良いトマリさんの感性に響いたんなら、きっと取り入れた方が良いアイデアだわ」


 大石さんは目を輝かせて何度も頷く。

 こんなときにまた蘇ってきてしまった。和洋折衷の幻想世界と、微笑みを浮かべたあの人の横顔。



「……私だけの感性じゃないんです。一緒に見ていた人が嬉しそうだったから」



 そう口にした後、私はしまったと思って視線を逸らした。

 何をしているんだ。せっかく大石さんが昨夜のことに触れないでいてくれたのに、自分から喋ってしまうなんて。よりによって仕事中に恋愛事情をちらつかされても反応に困るというものだろう。


 なのに大石さんは少し切なそうに笑ったりなんてするんだ。

 聡明な人なのだな。きっともう大部分をわかっている。あるいは私の表情がよほどわかりやすかったのか。


「私も好きなの、あの光景。トマリさんが大切な人と一緒に見れたんだとわかって嬉しかった」


「ありがとう……ございます」


「ねぇ、トマリさん。責任感が強くて誠実で謙虚。それは間違いなくあなたの魅力だけど、力を抜いた自由なあなただってきっと凄く素敵。だからその人、幸せを感じていたと思うの。いろんなトマリさんを知れたこと」


「私は振り回してばかりだったと思います」


「それさえも幸せだったのよ。だから隣で笑ってくれたの」



 そうなのか。そう思って良いのか、千秋さん。


 私はあなたに涙まで流させた。だから後悔していたんだ。ダニエルとしてのあなたに出会ったときと職場で再会したとき、差し伸べてくれたその手を二度も取ってしまったこと。

 偶然は避けられなかったとしても、やはり頼るべきではなかったんじゃないかと。


 あなたをいくらか幸せにできていたのか。私にそんなことができていたのか。

 なのにすまない。最後の最後で私は、あなたを酷く傷付けてしまった。



――あのさ、トマリは明日……――



 続きを言わせまいと遮った。覚悟のつもりだった。

 だけど私は、本当は、どうしたかったんだろう。



「こんな話をしてしまってすみません。私、ちょっとお手洗いに行ってきますね」


「行ってらっしゃい。ついでに外の空気吸ってくると気分スッキリするかも知れないわ。大丈夫、ゆっくり待ってるから」


「ありがとうございます」


 そうして席を離れる頃、私の余裕はもういくらも残っていなかった。

 休憩室を出てすぐのところで、壁に背中を預けて息を整えようとした。溢れ出しそうな感情に蓋をしようと時折口元を押さえて。


 それでもどんどん流れ込んでくる。熱くて深くて溺れてしまいそう。これは彼の想いだろうか。どんなに離れても、区切りをつけても、心はまだ繋がり続けたままなんだろうか。


 もしそうなら、彼も今こんな思いをしているんだろうか。うららかな春の景色に浸ることもできず、狭い水槽の中で逃げ場をなくしたみたいに。

 これらが単なる私の妄想であることを願う。


「ごめんなさい」


 ごめんなさい、千秋さん。


 唇をかたく結んで堪えた。泣くなんてもってのほかだ。

 なるべく早く心を鎮めなければならない。私の想いが流れていかないように。彼が溺れてしまわないように。

 私は手を伸ばすこともできないのだから。

 

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